終ー4 友人
「変なこと……ですか」
呂阡のいなくなった部屋で、呂阡の言葉をぽつりと亞妃が口ずさむ。
「わたくし、月英様のことが好きなのですが」
何の前触れもない唐突な亞妃の発言に、月英以外の者たちはぎょっとして目を剥いた。
「ええ、僕もリィ様が好きですよ」
「違います。わたくしの好きはそのような友愛ではなく、恋慕の情です。月英様と一生を共にしたいという」
「え……」
「月英様が、そのようにわたくしを見ておられないことは知っております。しかし、もし月英様が戻られなかったら……そう考えたら言わずにはいられませんでした」
月英の背後で声にならない叫びが上がっていた。
皆口を手で押さえ、顔を蒼白にしている。
ただ、侍女の三人が「皇帝がいるのに何ということを」と亞妃の身を心配しているのに対し、万里は「ついにこうなったか」と半ば諦めるような心持ちになっていた。
月英は「リィ様」と、おもむろに亞妃の手を取る。
そして次の瞬間、緩めた医官服の胸元へと彼女の手を引き入れた。
「げ、月え――っ!!」
驚いたのも一瞬。手に触れたものの違和感によって、亞妃の言葉は奪われる。
男の胸板なのだから硬くて当然と思ったが、それにしては変だ。肉や骨の硬さとは異質な、そう、布などを何重にも巻いたときのような無機質な硬さ。
「こ、れは、どういう……」
「僕は女なんです」
訝しげに月英の胸元へと視線を落としていた亞妃の顔が、ぱっと上向いた。
「女人……? 女の方……ですか?」
苦笑して月英は首肯する。
背後では、もう呑む息すらないくらいに侍女達が固まっている。同じように亞妃が息を呑むのが分かった。
「事情があって、女の身でもこうして働かせてもらってます」
しかし、さすがは他国より単身嫁いできた姫。
すぐに頭を働かせ、確認すべきことのみを口にする。
「その言いようですと……陛下も当然ご存じなのでしょうね。それに、あちらの春万里様の態度を見ても……彼も知っていたのですね」
「万里はつい最近ですけどね」
亞妃はくっと唇を結び、まだ医官服の中にあって、月英に掴まれていた手をするりと抜いた。
「申し訳ございません。そうとも知らずにわたくしは……、……っのよ……な気持ちを……」
次第に顔は俯き、凜としていた声もだんだんと揺れはじめる。
語尾は消えかかり、代わりに湿り気を帯びていた。
「っご不快に思われましたよね。どうぞ……忘れてくださいませ……」
亞妃の顔は俯きが深くなり、月英から彼女の表情はさらに見えなくなってしまう。
彼女は早く一人にしてくれと言わんばかりの様子だったが、しかし月英は膝を折り、あえて亞妃と目線を合わせる。
突然、視界に現れた月英の顔に亞妃は驚き、身を引こうとする。だが、月英の手がそれを許さなかった。
「そんなこと、思うわけないじゃないですか」
一度は離れかけた亞妃の身体を、月英の腕が抱きしめていた。
「きっと僕は、リィ様と同じ想いで願いを叶えてあげられません」
「……っ」
「でも、僕のこのリィ様を好きだって気持ちは本物ですから。今、僕はこの通り毎日を生きるのですら精一杯で、一生とか考えられないですが……それでも僕は時間や状況が許す限りあなたの傍にいたいと思いますよ」
肩口にあった亞妃の頭が、擦り付けるように動く。
「リィ様、ありがとうございます。こんな僕なんかを好きになってくれて。むしろ僕の方が騙してたわけですし、皆さんを不快にさせてしまって……」
「なん、か……なんて……っ仰らないでください! わたくしは男だから月英様を好きになったわけじゃありません! 月英様だからこそわたくしはお慕いしたまでです!」
「そうですよぅ! 私たちも月英様がどっちかなんて気になりませんからぁ!」
亞妃と鄒鈴の言葉に、明敬と李陶花も口を閉ざしながらもしっかりと頷く。
この状況で口にできる言葉が見つからないのだろう。
「騙しててすみません」
「謝らないでくださいませ。むしろ、こうして大変な秘密を打ち明けてくださった誠実さに、感謝するばかりですわ。宮中は女人禁制と聞いておりますもの。そうせざるを得なかったのでしょう」
月英の肩から顔を上げた亞妃は、視線の先――月英の背後に並ぶ侍女たちに目を向ける。
「李陶花、明敬、鄒鈴、いいですね。このことは決して他言しないよう」
三人は「当然です」と強く首を縦に振った。
「むしろ、男達の中で女一人というのは、何かと苦労することもありましょう。その際は私共を頼ってください。必ずお助けします」
李陶花の年長者ならではの言葉は、月英に大きな安心感を抱かせた。
すると、腕の中にいた亞妃がそっと胸を押し、月英から僅かに身を離す。おかげで亞妃の顔がよく見えるようになる。
「正直なところ、わたくしのこの気持ちをすぐに変えるのは難しいと思います。少し時間は掛かるかと思いますが、わたくしなりの好きを見つけるまで待っていただいてよろしいでしょうか」
いつもより控えめな笑みが、彼女の精一杯の優しさだと知る。
月英は静かにはいと頷く。
「わたくし、月英様の一番の女友達になりたいですわ」
「とっくにですよ」
二人は額を合わせて、面映ゆそうに小さく笑みを交わした。
亞妃の手は、いつの間にか月英の背中に回されていた。
◆◆◆
四人に見送られ、月英と万里は芙蓉宮を後にした。
「万里は知ってたの? 亞妃様の気持ち」
「当然。てか、多分気付いてなかったの、オマエだけ」
「でも万里は言わないでくれたんだ。亞妃様の気持ちも、僕の性別のことも」
「他人が口出していいことじゃないからな」
「本当、万里って真面目だよね。ありがとう、嬉しいよ」
万里の口がもごっと動いた。
温かな空気が流れる中、しかし月英の「でも!」という力強い言葉によって空気は断ち切られる。
「他人だなんて言い方は嫌だよね! 万里は僕の後輩だし友人でもあるんだから!」
「ばっ!? は、恥ずかしいことを、そんな大声で言うんじゃねえ!」
頭を鷲づかまれ、潰されるように頭をぐしゃぐしゃに乱されてしまった。
以前までなら乱暴だなと思っていたところだが、今はこれが彼の照れ隠しだと分かる。頭に置かれた手のせいで顔を見ることはできないが、きっと彼は顔を赤くして口端を横に引っ張っていることだろう。
月英が噴き出すように笑えば、頭を押さえる手の力が増した。
そのままの格好で後華殿を通り過ぎれば、衛兵がどよめく空気が伝わってきて、ソレでまた月英は笑みを濃くした。
「――で、だ! オマエはあと一カ所行かなきゃいけない場所が残ってんだろ!」
後華殿を出たところで、ようやく解放された。
「オレは一緒にいけないからよ……行った瞬間クビ確定だしな」
「何て?」
「何でもねーよ」
ぼそりと何かを呟いていたような気がするのだが。まあ、大したことではないのだろう。
「ほら、さっさと行ってこい。これ以上待たせると、絶対向こうからやって来るから」
万里の曖昧な言い方でも、どこの誰のことを言っているのかすぐに分かってしまう。
「それじゃあ、行ってきまーす! 香療房のことは頼んだよ、後輩兼友人!」
「兼務させんな。はよ行け、先輩兼小猿さん」
しっしと追い払うように手をひらつかせた万里だが、月英の背が龍冠宮へと消えていくと、鼻から息を吐いた。
「以前と何も変わらないな」
変わらなくて良かった、と万里は目元を和らげた。




