ジェラルド・ソナリス 中
ソナリス大公領から王都までの道中、一時もこの苛立たしさは消えなかった。
レオナルドに言われた借用書はルチアーナが持っていて、彼女に返すように言ったところ、大いに渋られた。彼女としてはレオナルドと婚約を破棄する為の切り札と思っているようだったから、これを父に見せて話をしてみるからと言うと、ようやく返して貰えた。なら私も一緒に王に会いますと言い出したルチアーナに、最初は私から話すと言って何とか納得させた。
王都に戻ったレオナルドを早く追いたいのに、ルチアーナの説得に時間が思いのほかとられ、それがまた苛立ちの一つとなっていた。気持ちは急いても、馬車のスピードは変わらない。大公家を継ぐとなれば、馬で単騎駆けていく事も出来ないのだ。
レオナルドに言われて招かれたのは、宰相ピエトロの屋敷だった。宰相も巻き込んでいたのかと思ったが、出迎えたのは息子のアルバーノだけだった。宰相は王宮にて父王に命じられ公務に掛かりきりだそうで、ここ数日は忙しくて屋敷には眠りに帰ってきているだけだという。ただレオナルドから、離れを貸して欲しいと頼まれたと言った。
宰相の屋敷には二つほど、本屋敷以外に建物がある。一つは亡くなった前夫人の療養用で、もう一つは空いているとアルバーノは説明する。
以前、ルチアーナと仲良くしていた頃は、高慢な物言いだったというのに、今のアルバーノにはそれがない。むしろ人間味がごっそりと抜け落ちて、抑揚なく話す様子は秀麗な容姿と相俟って人形の様で気味が悪い。
「……最近、ルチアーナと話はしているかい? 彼女がお茶会に誘っても、レオナルドとばかりで寂しいと…」
「ルチアーナ様のお茶会ですか。女性が多くいるので、居場所がないので参加しづらいのです。とはいえ、昔のように個人的に会うわけにもいきませんから」
もっともな物言いだが、アルバーノはほんの少しも残念に思っていなさそうだった。こんなふうに変わる少し前、アルバーノとレオナルドが王宮で話をしているのを見掛けたから、何かされたのだろうかと気になった。
「…別に、ただずっとレオナルド様の事を誤解していただけです。あの方は、…欲しいものをちゃんと下さるんです」
何かを思い出しているのか、アルバーノの顔が笑みに歪んだ。
「物で人心をつるとは……」
「誰も気付いてはくれませんでしたし、理解してくれませんでした。ジェラルド様だって、理解し得ない事を、レオナルド様はちゃんと分かってくれるんですよ」
こちらの話を遮って、アルバーノは一気に捲し立てた。そしてすぐに興味をなくしたかのように目を伏せ、此方でお待ちですと部屋へと案内される。宰相はアルバーノの事を病弱な為、婚姻は無理だと言っていた。政務官や魔法士、研究者なども無理だと。ルチアーナが治した筈だったが、心臓が弱っている事までは治せなかったらしく、強い魔法を使った反動で長い間寝込んでいた。その時、アルバーノの治療に手を貸したのはレオナルドだったという。
なら心酔してもおかしくないか、しかしそれにしてはどうしてアルバーノから、恐ろしげな狂気のようなものを感じるのだろう。いや惑わされるな、冷静になれと己に言い聞かせる。雰囲気に呑まれてはいけない。先日、レオナルドと話をした時は、母やエリヴィアの事を言われ動揺してしまったが、今回はそうはいかないと気を引き締める。
部屋にはレオナルドが腰掛けている。自分の姿を見るとどこかホッとしたような、そういつも通りのレオナルドがそこにいた。
「ジェラルド兄様、遠いところをありがとうございます」
「……余計な挨拶などは良い、さっさと用事を済ませてしまおう、レオナルド」
借用書をレオナルドに押しつけるように渡す。するとレオナルドは驚いた様子もなく、ありがとうございますと言って受け取ったが、しかしそれを破ったり燃やしたりはしなかった。どういうつもりか様子を窺っていると、レオナルドが苦笑した。
「お茶でも如何です、ジェラルド兄様。すぐに大公領に帰るわけではないのでしょう、…今夜はトフォリ家に滞在すると聞きました。あまり早く行きすぎると、ジルダ嬢に怪しまれますよ」
さあと再度促され、レオナルドの向かいに座った。控えていた侍女がお茶を入れて一礼し、すぐに去って行く。部屋の中にはレオナルドだけで、酷く静かだ。
「……怒っているのですか?」
ぽつりと、レオナルドが気遣わしげに声を掛けてきた。何をと視線で問えば、この前の事ですと目を伏せている。
「兄様が、クリスタ様に似ていると言いましたが、あれは言い過ぎだったと…。ジェラルド兄様は、クリスタ様とは違う、そういう人じゃないのは知っていた筈なのに。……ごめんなさい、ジェラルド兄様」
今更そんな事を言われても、とってつけたような言い訳のようなものにしか聞こえず、怒りは収まらなかった。否、なんとか冷静になろうと努めていた時に、再びそこに触れられて、つい身構えてしまう。レオナルドのこれはわざとやっているに違いない。こちらを揺さぶって楽しんでいるのだ、まるでこちらが弱者であるかのように。
「それで、お前の言いたい事はそれだけか、レオナルド」
「そんなに急かさないで、ジェラルド兄様。余裕を持って過ごさないと、女性から嫌われますよ」
ちょっとした事だが、レオナルドから言われるとつい苛ついてしまう。気を落ち着かせようと、入れられたお茶を口に含んだ。自分好みの風味のお茶である事に僅かに驚いたが、レオナルドが用意させたのだろうとすぐに思い当たる。ちらりと視線を向ければ、いつものようにレオナルドが微笑んでいる。
何をするつもりか、相手の出方を見ようとお茶を飲んでいると、どこからか話し声が聞こえてきた。なんだと言うより早く、レオナルドが始まったと言って楽しげに席を立つ。
「…一体何なんだ、レオナルド」
「今日はあの日だから、立ち会いを兼ねてここに呼ばれたんだよ、ジェラルド兄様。せっかくだから、兄様にも見せてあげようと思って」
レオナルドは壁に掛かる装飾品の前に立ち、手招きをしている。ドレスや肖像画を渡す話をする気配がない以上、この弟の茶番に少し付き合ってやるしかないのだろう。不自然に壁に沿うように椅子が置かれている。これでは座った時、片側が壁に接してしまい、目の前に柱が来てしまう。だがその椅子に座るようにレオナルドが促し、訝しみながらも大人しくされるがままにする。何をされようと、弟に不覚をとる事はない。万一を考えて、毒や暗殺など命の危険に襲われた時、一度だけそれを阻止する魔法道具も持ってきている。
「ここ、隣の声がよく聞こえるでしょう。それはね、兄様。ここの装飾品をほんの少しずらすと、隣の部屋が覗ける仕組みになってるんです」
こそりと、後ろから耳元でレオナルドが囁く。隣の部屋からこちらの声は聞こえませんから安心ですねと言うが、一体どうしてこんな悪趣味な仕掛けが、宰相の屋敷にあるのだろうか。
「友人から、二人きりで会った時、何をされるかわからなくて怖いと相談を受けて、それで僕がこうして隣室で立会人になっているわけです。アルバーノもちゃんと、扉の前で待機しているから、おかしな事をしでかしたりしないでしょうけど」
ほら部屋に二人いるでしょうと言われ、仕方なく視線を向ければ、そこには見覚えのある少女が立っていた。
確か、リリーディア・ロドリ。この家の養女でありレオナルドの友人。ルチアーナが言うには、権力のある男に色目を使い侍らしているそうだが、王宮に招いた時の様子を見る限り、レオナルドとの間に色めいた関係を滲ませるものは一切なかった。元はただの街娘だというから、それにしては礼儀作法や立ち振る舞いが生まれてからずっと貴族であったかのようで、見事な物だと感心する。
だがそんな少女は、まるで薄汚い物を見るかのような嫌悪を隠さない視線を投げつけていた。
部屋にはもう一人、男がいたのだ。床に這いつくばり、リリーディアに縋るように手を伸ばす男。醜いと思えるほどに贅肉を揺らし、その巨体を億劫そうに動かしながら、藻掻いている。そう藻掻きながら、リリーディアに許しを請うような仕草を繰り返していた。
「彼は、ルキノ・バルバード。兄様も会ったことあるでしょう」
レオナルドに言われ、まさかと驚いた。記憶にあるルキノは、派手な格好はしていたものの、体は程良く引き締まったバルバード領出身と一目で分かるような青年ではなかったか。記憶にある顔と、いま目の前にいる男を見比べて、かろうじて面影を判別できる程度だった。
一体何故どうして変わったのだと、レオナルドに問うと、お菓子を沢山食べたからとはぐらかされた。嘘じゃないとレオナルドは言い、よく話を聞いてみて下さいと肩に手を掛けられた。
「り、リリーディア、…ねえお願い。もう、許してほしい」
ルキノが弱々しくも縋るように声を発する。贅肉に押しつぶされて、呼吸する事さえ苦労しているように見えた。
「許す? 一体何を許すのでしょう、ルキノ・バルバード。私はただ、頼まれたから貴方に美味しいお菓子を作って与えているだけ。嫌なら食べなければ良いのよ、…ただ次、私が会う気なくしちゃうかもしれませんけれど」
リリーディアが笑みを浮かべると、ルキノは小さく悲鳴を上げ、床に散らばった焼き菓子を口に押し込み始めた。その様子を見下ろしながら、リリーディアは美味しいですかと聞いてくる。だがルキノは僅かに嘔吐くと、大きくむせ込み、口の中に入れた菓子類を吐き出した。
「ひっぎっ…、も、もう、…もう食べられない…ごめん、ごめんなざい…ゆるじて……」
みっともなく泣き出したルキノに、リリーディアはそっと手を伸ばす。そして床に散らばった他の焼き菓子をひとつひとつ拾い上げながら、大丈夫よと言った。
「大丈夫、ルキノ・バルバード。貴方は優しい人だもの、せっかく人がつくった物を捨てたりなんかしないわ。全部、ぜーんぶ食べてくれるでしょう。いらないなんて言われたら、私の胸は張り裂けてしまいそうになるの。……だからほら、口を開けて食べなさい」
優しげな口調だというのに、有無を言わせないそれに、ルキノは泣きながらも口を開けた。そして再び菓子を詰め込まれ、呑み込もうと必死だ。
「なんで泣くの、ルキノ・バルバード。これは全部、貴方が私に言った事よ。した事なのよ。私はぜんぶ、ちゃんと食べたわ。貴方が与えてくれた物すべて、ちゃんと食べたのよ」
そうして体型も変わって罵られても、それでも貴方がくれたものを食べ続けたわと、リリーディアは言う。
「全部受け止めて、そうしたら、いよいよなのよ、ルキノ・バルバード」
何かに思いを馳せるリリーディアの姿は、可憐としか言い表せないほどで、僅かに上気した頬は赤く染まっている。
「…いよいよ? …そしたらリリーディア、君は助けてくれるんだね! なんでも、何でもする…! こ、これも、全部食べるから…」
「そう、そうなの、ルキノ・バルバード。だったら全部食べて、私のお願いを聞いて下さるかしら」
何だと言わんばかりに、ルキノが顔を上げた。その顔を見下ろして、リリーディアは美しくも歪んだ笑みを浮かべて、言い放つ。
「早く私の前から消えなさい、この薄汚い豚が。貴方を見ているだけで、気分が悪くなるのよ。貴方の声は豚の鳴き声と変わらないくらい、酷く耳障りなの」
なんて酷い言葉を投げつけるのだろうか。何があったか知らないが、これは余りにもルキノが哀れ過ぎる。立ち上がって隣の部屋へ介入しようとしたが、肩に乗せられた手に力がこもり、無粋な真似は駄目ですよとレオナルドが囁いた。
「兄様、いまルキノの事を可哀想って思ったでしょう」
「……当たり前だ。リリーディア嬢のあの態度は…」
「でもあの言葉、似たような事をリリーディアは言われたんですよ」
あんな風に太らされて、僕達の目の前で。
「ルキノはね、わざとリリーディアに体を要求したんです。お金が払えないのなら、体で払えって。ただの街娘のリリーディアは、そりゃあ決死の思いで頷いたんでしょうね。なのにね、ルキノは嘲笑った。最初からそのつもりなんてなかった。彼女を身勝手な考えから振り回し、そして切り捨てた」
わざわざ人がいる所で、屈辱を与えたんですと、レオナルドの言葉が耳に入り込んでくる。
「それをやり返しているだけで、リリーディアは悪くないでしょう」
「だ、だが」
「それにルキノも、同意してここに来てるんですよ」
「馬鹿な!? なぜ自ら進んで、罵られに来る…!?」
くすりと、耳元でレオナルドが笑う。分からないことが、さもおかしい事のように。
「ああされるのを、望んでいるから。……ジェラルド兄様と同じ」
ぞわりと背筋に這い上がる寒気のような物を感じ、立ち上がろうとしたが足が動かない。レオナルドの力などたかがしれているのに、肩に乗せられたその手を払う事が出来なかった。
「ふざけるな…! 何を馬鹿な事を…!? この私が、あんなふうに這いつくばるのを望んでいるとでもいうのか」
「ああ、言い方が悪かったね、ジェラルド兄様。命令されて罵られる。そうだな、自分より弱い人間にそうされるととてつもなく屈辱を感じるくせに、それが欲しくて堪らないんでしょう」
だってと、レオナルドは言葉を紡ぐ。
「どうして今日ここに来たんです。兄様だったら、僕が脅しても解決策をあっという間に思い付いて手を打つでしょう。クリスタ様に進言して、保証人になった事を王にでも泣きつくようにさせれば、一時的にでも助けてもらえた筈なのに」
どうしてそれをしなかったんですと言われ、言葉が出なかった。いいや、そんな事をすれば、国庫の金に一時的にでも手を付ける事になるだろう。そうなれば、父王の立場が拙くなる。それにクリスタはジェラルドが助けに来たと喜んで、せっかく離れたのに執着してくるに違いない。そんな事、出来るわけがない。
だからここには、仕方なく来たのだ。そう仕方なく、レオナルドに脅されて仕方なくだ。
「ずうっと考えてたんだ、兄様はどうして僕を虐めるのだろう。でもどうして、虐めた後、泣いたりしなくても、こちらの様子を窺っているのだろうって」
一体何だというのだ。レオナルドの涙が、エリヴィアの涙と重なって、あれが見たいからこその行動だった。それだけなのだ。
「本当はこうやって、今みたいに反撃されるのを、待ってたんだよね、兄様。気付いてあげれなくて、ごめんね。兄様は、自分より弱い存在に、こうして立場が逆転して罵られたかったんだよね。侍女や随従に厳しくしていたのも、彼らが兄様より上の立場になった時、きっとやり返してくれると、そう思っての行動だったのでしょう」
そんなわけある筈ない。何を馬鹿なと言おうとしたが、喉が張り付いたかのようで、声が出なかった。心臓が脈打ち、じっとりと汗が滲んでいるのが分かる。そんな筈ないと何度も心の中で繰り返すが、レオナルドはそうだと言い続ける。
「教えてもらったんだよ、兄様。騎士団でさ、訓練に参加している時。やたらと厳しい教官であればあるほど、熱心に鍛錬に励んでたんだって。そうやって強制されるのが、大好きなんだね、兄様」
違う、違う。ただ幼い頃からクリスタの執着が酷く、誰かから何かを指示されて物事を行うのに慣れてしまっていたから。だから内容がどんなものであれ、言われたことを行うのは苦ではなかった。ただそれだけで、自分を縛り付けてくる人間は嫌いなんだ。だからクリスタも、テレシアも、鬱陶しかった。そうだ、鬱陶しい存在で、関わり合いたくもない。
「本当にそうかい? 兄様、ルチアーナの事が好きだったでしょう。ああ、嘘は言わなくていいよ。見ていてわかったもの、兄様はルチアーナに期待したんだ。自分をクリスタ様よりも厳しく縛り付けて、屈辱を与えてくれる事を」
耳に入ってくる声は、まるで毒のようだ。
ここから離れたいのに、軽く置かれた手を振り払えず、たた椅子に縛り付けられている。
聞きたくないのに、耳を塞ぐことすら出来ない。
「でもルチアーナはそうじゃなかった。兄様の手を取り立ち上がらせ、王になればいいのにと期待を込めた目で見てきたんだ。そう、クリスタ様やテレシア様と同じ」
一番偉くなったら、誰も兄様を哀れみの目でみてくれないものね。そうレオナルドは言った。
「優秀なのに、王になれない可哀想なジェラルド様。そんな目で周りから見られて自尊心を満たして、そしてそれを踏み付けてくれる存在が、ずうっと欲しかったんでしょう」
あんなふうに、冷たい言葉を投げつけられ、嘲笑われたいのでしょう。促された視線の先には、惨めに泣きわめくルキノと、それに興味すら失った様子で佇む、リリーディアの姿があった。




