ジェラルド・ソナリス 前
ソナリス大公領にはめずらしく、長雨が続いていた。それは亡くなったテレシアを悲しんだ精霊の涙だという者もいて、葬儀が終わった後も街の空気は暗いままだった。だがそれも時間が解決してくれるだろうと、ジェラルドは思う。
それに、テレシアが死ぬあの瞬間。
ジェラルドが静かな口調で問い詰めると、発狂したかのように叫んで、そして恐怖に顔が歪み絶命したのだ。あの異様さは、粗悪な化粧品を使った為の中毒症状だけでは説明がつかない。あの顔では他の人間に死体を見せる事など出来ず、棺に押し込み蓋をしたまま葬儀となった。ルチアーナは顔がみたいと言ったが、化粧品の所為で腐るのが早くて駄目だといって誤魔化したが、ジェラルドとしても二度と見たくないと思うほどの恐ろしい形相だったのだ。
ふと、エリヴィアの葬儀も同じではなかったかと、思い出す。
あの時も、エリヴィアは突然に死んで、遺体は棺に入れられたまま見ることが出来なかった。エリヴィアが死んだ時も、人が変わったようだと噂になってなかっただろうか。いやただの偶然だろうと、書類に目を通そうとしたとき、来客を告げられた。
訪ねてきたのはずぶ濡れのレオナルドだった。馬車はと聞けば、少し歩きたかったからルチアーナの屋敷にあると言われ、いくら大公領で治安は悪くないとはいえ不用心過ぎると顔を顰めた。ともかく来てしまったものは仕方ない。
濡れた髪から垂れる水滴がレオナルドの顔を伝い、まるで涙のようだと視線が吸い寄せられてしまう。目を伏せたまま、レオナルドがぽつりと言葉をもらした。
「ルチアーナが、僕との婚約を取りやめたいって…」
言われた言葉に、思わず笑みが深くなった。
葬儀の後でルチアーナから相談されていたのだ。自分の周りから友人がいなくなっている、これは偶然じゃないきっと誰かが何かしてるんだと、心底怯えているかのように。そしてルチアーナはレオナルドが自分以外の令嬢に恋をして、その娘と結婚したいが為に自分を陥れようとしているのではないかと、そう言っていた。
レオナルドが学園での友人を公妾にする話は、王宮内で聞いたことがあった。離宮も新しく建てられ始めていたので、間違いはないだろう。父王も似たような事をしていたし、公妾とはいえ愛人ではなく何かしらの能力を買われてやってくる者もいる。レオナルドの公妾は後者だろうと思ったが、ルチアーナにはその辺りの事は含みを持たせて言っておいたのだ。
どうにも潔癖なところがあるルチアーナは、そんなの酷いと泣きついて来て、これじゃ結婚なんてしたくないと喚き始めた。レオナルドに嫌われるのは堪えられない、ましてや大公領を取り潰されるなんてと訴えてきた。もう大公領はジェラルドの物で、王妃となるルチアーナの実家はなくなるし、彼女が大公領で事業を興す事など出来はしないし、させるつもりはない。だがそれは言わないまま、優しく幼い頃からの付き合いであるルチアーナがそんな酷い結婚をするくらいなら、父王に婚約破棄を願い出るのに助力しても良いと言ってあげた。
それと、大公の執務室で見つけた借金の借用書。ソナリス大公からは、内約は一切聞けなかったけれど、間違いなくレオナルドのもので、何らかに使えるだろうと思ってとっておいた物だった。ルチアーナもその存在を知っており、これを見せて迫るなんて卑怯だわと言いながらも、でもどうしてもって時に使わせてもらうと言っていた。
ずぶ濡れのレオナルド、可哀想なレオナルドは、ルチアーナからそれを突きつけられたのだろう。大方、お気に入りの娘にプレゼントを贈ったか、何かを買い込んだか。
「レオナルド、…でもしょうがないだろう。ルチアーナとの婚約は、こちらが願い出た事なんだ。本人があれほど嫌だというのなら、一度王に相談するべきだと思うよ」
「…でも」
「お前も、どうしてあんな借金なんかしてしまったんだい。あれがあっては、こちらもどうしようもないだろう」
でももしかしたら、私がルチアーナにお願いすれば返して貰えるかもしれないよと囁けば、レオナルドの体がピクリと震えた。あの借用書を見たのですかと、消え去りそうな声で言ったので、ああもちろんだよと答える。手に顔を当てたまま、レオナルドの体が小刻みに震えていた。このまま泣いてくれれば良いのにと思って見ていると、レオナルドがではすぐに取り返して来てくださいと言う。
「しかしレオナルド。あまり横暴はできないだろう」
「…横暴もなにも、あれは」
「…あれはなんだい。一体、何に使ったんだいレオナルド」
囁くように訊ねれば、レオナルドの口元が笑みの形に歪んだ。小刻みに震えているようにみえたのは、笑いを堪えているだけのようで、怯えているわけじゃない。一体どうしたのだとレオナルドを見れば、ゆっくりと顔を上げて此方を見つめてきた。
いつもの、どこか困ったかのような微笑みでもなく、酷く、ひどく歪んだ狂気を孕んだような笑みだ。
「プレゼントを贈ったんだ、とある女性に極上のドレスをね」
まるで悪びれもせず言うレオナルドは、虚勢を張っているようにも見えず、一体なんだと戸惑ってしまう。何をいきなり強気になるのだと思っていると、レオナルドはその借金分の金が欲しいと言い出した。かなりの高額で、簡単に用意できるものじゃない。大公領での収益はすべて明確化されているし、自分の自由に出来る資産はいま住んでいる家の改装費などに消えた。まだ残ってはいるが、示された金額にはとうてい及ばない。
だいたい、レオナルドの借金をどうして肩代わりしなければならないのだと、眉を寄せた。これが困ったように縋ってくるならば、どうにか融通を利かすのを手伝いはするが、いまの状況は頂けない。
「一体どうしたんだ、レオナルド。何を言われたのか知らないが、お前がそんな態度では…」
「ねえ兄様。赤いドレスは見つかったかな?」
それと肖像画も合わせてねと、レオナルドは楽しげに言葉を紡ぐ。何のことだと惚けようとしたが、赤いドレスとハッキリと言われてしまっては、誤魔化すのは無理だろう。何より、心臓が早鐘のように脈打ち始めている。
どうして、どうしてレオナルドが、その事を知っているんだ。
あれは誰にも見つからないように、大事にしまい込んでいたのに。母クリスタにも見つからないように、たまに覗いてそこにある事を確かめていただけ。だから、誰にも気付かれる筈などないのに。
いや、あれが自室からなくなったとき、クリスタを疑って詰め寄ったが、結局あの女は口を割らなかった。クリスタとレオナルドはお互い顔を合わせなければ口も利かない仲だから、二人が繋がっている事は想像すら出来なかった。でももし二人が繋がっていて、ジェラルドの弱みを握ろうとして、あれを盗み出したとしたら。いや、いままで積み上げてきた自分という人間の周りからの信頼をみれば、誰も信じないだろう。だから別に弱みではない。弱みではないのだから、動揺する必要もない。
「大丈夫だよ、兄様。別に脅しの材料ではないもの。あのドレスね、欲しいという女性がいたから上げたんだ。ちょっとした知り合いに吹っ掛けられてね、そんな凄い値段でドレスを買ったんだけど、僕には必要のないものだったからさ」
誰から買った、誰が部屋から盗み出したと叫びたくなるのを呑み込んで、レオナルドを睨み付ける。温和な、言い方を変えれば気の弱そうなレオナルドはなりを潜め、酷く歪んだ嫌な顔をしている。
「そんなに睨まないでほしいな、兄様。お願いすればちゃんと返してくれるだろうから、僕からお願いしてあげるよ」
腹立たしい弟の言動に、ぎりと口の端を噛みしめる。こんな可愛げのないレオナルドなど、必要ない。自身の不甲斐なさを悔やみ、泣きわめいて惨めに縋ってくるような、そんな、そんな弟が良いのに。
自分より力の劣る弱々しいレオナルドは、這い蹲っているのがお似合いだ。今みたいに、まるで自分の立場を弁えていないようなのは、嫌いだ。ああ、本当に苛ついてしまう。そんな怒りを示すかのように、心臓が煩いくらいに鳴り響く。
なのにレオナルドは、そんな自分に気付いているのかいないのか、首を傾げて不思議そうな顔で見つめていた。
「何を怒っているの、ジェラルド兄様」
「……本当にわからないのか、レオナルド」
怒りを堪えるように、震える声色で喋れば、さも可笑しそうにレオナルドが嗤った。
「ああ、ごめんね兄様。兄様はずっと僕の事、下に見てたものね。可哀想なレオナルド、哀れなレオナルド、誰も味方がいないひとりぼっちのレオナルドがお好みだったよね」
そうしていれば何でもやってくれるから本当に助かったよと、レオナルドが言う。その言葉に、この何も出来ない、自分より劣っているレオナルドが、この私を掌で転がすかのような事をしたというのか。
腹の奥底から怒りというべき熱がこみ上げてくる。このまま激情に任せて当たり散らしてしまいそうになったが、レオナルドはそんな自分を見てやめておいた方が良いと言った。
「ここで僕を殴っても、兄様が本当に欲しいものは手に入らないよ。ジェラルド兄様、僕はずっと不思議だったんだ」
「…何がだ」
「どうしていつも、僕に意地悪をした後、じっと眺めているのか。泣いた姿が見たいのかと思ったけれど、それだけじゃないよね」
レオナルドの言葉に、ぞわりと背筋が粟立つ。それだけだと言いたいのに、何故か言葉が紡げない。これではレオナルドの言葉を肯定しているようなものじゃないか。
「随従見習いの少年や侍女見習いの少女には、兄様はとっても厳しいって有名なんだよね。ああ、己にも厳しい人だから仕方ないって周りは思うだろうけど、そうじゃない」
この前叱責している姿を見たとき、よく分かったよとレオナルドは言う。一体何がわかったというのだ。
「クリスタ様そっくり」
笑みを象るレオナルドの言葉をそれ以上聞いていたくなくて、その首に手をかけ執務室の机の上に押し倒した。机上にあった書類や物が床に散乱していくのを、レオナルドは汚れてしまうねと、まるで他人事のように言う。
なぜそんなに余裕を見せているのだと、首に掛ける手に力を入れた。
「今、言ったことは訂正しろ…! 私の…、私のどこがあんな女と…」
「そっくりじゃないか。気に食わなければ、こんなふうに当たり散らして。ああ、甲高い声で喚かないところは違うかな、ジェラルド兄様は」
お前とこの私との力の差は歴然で、レオナルドは腕を振り払う事すら出来ないというのに、うっすらと、そうあのいつも浮かべているいけ好かない笑みを顔に貼り付けたまま、此方を見上げていた。
「兄様は、クリスタ様がやってた事を他の人にやって、それを観察していたんだよねぇ。…だって、母様が泣いていた原因って…」
中庭の誰にも見られない物陰にしゃがんだ赤いドレスの女性。
この国の王妃だけれど、どうしてか蔑ろにされていたエリヴィア。
ああ、彼女に面と向かって嘲笑していたのは、ただ一人。周りの人間に諫められようとも、年若い王妃を気に食わないと堂々と言っていた女。
言葉もままならないのでしたら、もう少しお勉強なさってからいらっしゃったら、エリヴィア様。ゴキゲンヨウ、サヨウナラ。
辿々しい発音をわざと真似して嗤い、エリヴィアには聞き取れないくらいの早い口調で会話する。嫁ぐのなら会話くらい出来なければおかしいと、王妃の粗をチクチクと、周りに気付かれないように、親切めかして虐めていたのは、母であるクリスタだった。
ジェラルドが生まれて、エリヴィアが子をなしてないと、それはもっと酷くなった。まだ何も分かっていないと思っていたのだろう、ジェラルドを抱き上げて、エリヴィアに勝ち誇ったように笑いかけ、陛下と夜を共にしているのか、それらを逐一教えなければ出来ないのか、隣国では子作りの方法は違うのかなど、高らかに言い募っていた。そしてエリヴィアが眉を顰めはしたないと言えば、何も知らないようでしたので差し出がましかったですわねと、クリスタは言いのけて、王妃様は潔癖ですのね陛下に伝えておきますわと、王が王妃の所に行かないようにしてみたり。
貴方の為なのですよ。何も知らないから。ねえ、ほら。可哀想なエリヴィア様。
あの母親と、同じ。
自分が、同じなのか。
そんな筈はないレオナルドは何もできないくせに王になるから、だから私が手を貸してやらねば親切にしてやってあげていて、可哀想なひとりぼっちのレオナルドを。
「兄様の凄いところは、クリスタ様と違って誰からも疑われないようにやってたところだよねぇ。最近はあからさまにやり過ぎてるから、僕は忠告しに来たんだよ。ああそうか、クリスタ様と離れて暮らし始めたから、少し羽目を外したくなってしまったんだね」
可哀想なジェラルド兄様。
哀れむような蔑むような声色に、背筋から悪寒のようなぞわりとしたものが這い上がってくる。この私が、自分より劣るレオナルドから、蔑まれるだなんて。
「…エリヴィア様と母の確執など、噂話程度に過ぎないだろう。なんで、お前が知ってるんだ!? 知るはずもない出鱈目を…」
「だってクリスタ様、誰にも見てない所で僕にも同じ事をずうっと言っていたんだよ、兄様」
知っているでしょうとレオナルドが言う。知るはずがないと言おうとしたが、いやそうじゃないと心の奥底で声がした。レオナルドが自分より勉学が出来なかった時、誰が彼を嘲笑したのだろうか。自分の方が王に相応しいだなんて言うのは、一体誰か。
ルチアーナが王宮に気軽に遊びにくるように言ったのは。レオナルドと交流する事を快く思っていなかったくせに、ルチアーナと一緒に過ごすのには喜色を示したのは。
「クリスタ様はね、母様にも同じ事をしたと楽しげに言ってくれたよ。ジェラルドが僕に優しくしてくれているのは、お前が役立たずで何も出来ない可哀想な子だからよ、だってよく言ってたなぁ」
学園に入学してからは、顔を合わせないから言われなくなったけどねと、レオナルドは笑っている。学園の友人を招いた時も、少女達にこっそりと接触していたんだと言った。
「アンナって子を覚えているかい? あからさまに興味を示して、アンナを何度も離宮のお茶会に誘っているんだよ。そうして毎回、ジェラルド兄様を支持する貴族の方々を紹介してくれるんだって」
「…そ、そんな、そんな事を信じろと?」
「名前を言ってあげた方が良いかな? 全部、ぜんぶアンナの父親の上客になってくれたんだ。ジェラルド兄様が大公家を継ぐから、みんなお祝いに良い物をくれただろう。そのお金、どこからでたと思う?」
借用書があるから言い逃れできないし、保証人にクリスタがなっていると言う。クリスタの実家も、書類上の夫も、公妾となった恩恵に与って事業を興してはいるが、その分色々と見栄を張り散財している。だから蓄えというものはあまりないのをみて、なんて愚かなんだと思っていた。けれど口を挟む事はしなかった。
「きっと、兄様に、助けを求めてくるだろうね」
彼らはちょっとした伝手があれば、どうやっても這い寄って引き摺り込んでくるよ。
囁くレオナルドの声は、酷く楽しげだ。
「だからね、兄様。この僕が可哀想な兄様に、ちょっとした手助けをしてあげようと思ってるんだ。だってジェラルド兄様は、こういう時に助けてくれる人なんていないんでしょう。可哀想に」
友人ならばいる。いるが、何の相談をすればいいのかわからない。
母の事か、それとも親戚にあたる貴族達の借金か。でもどうしてそれがと言われたら、なんと答えればいいのか。
そして。
「大丈夫だよ、ジェラルド兄様。兄様がどんな人間だろうと、僕は嫌いになったりしないよ。…今度、僕の招待に応じてくれれば、アンナに借金の取り立てを待って貰えるように、言ってあげる」
「……勝手にすればいい、私には関係のない事だ」
「そうかい? じゃあ、クリスタ様に赤いドレスを贈ろうかな」
きっと彼女なら、それが誰の物かすぐに見抜くだろうしと、レオナルドは言った。エリヴィアの遺品はすべて炎で焼かれ、肖像画は個人で所有するような物はあまり残っていない。あれらはジェラルドが倉庫にしまわれる時にそっとくすねてきた物で、二度と手に入る事はない。
「やめろ!!」
気付けば怒鳴って制止をしていた。
それがわかっていたのか、レオナルドは王都に遊びに来て欲しいと言う。
「兄様が欲しがってるもの、返してあげるよ。そのかわり、借金の借用書を持ってきてくれないかな」
交換しようと言い捨てて、レオナルドは執務室を出て行く。返事を聞くまでもないと言わんばかりの態度に、怒りに任せて、執務用の机を殴ったのは仕方のない事だろう。
手からは血が流れたが、それでも怒りは収まらず、ただただ悔しさと苛立たしさに歯を噛みしめるだけだった。




