希望と不安とこれからと
高校生編スタートです。
陽菜は無事に合格し、オレたちは晴れて同じ高校に通うことになった。
選択科目が同じだったせいか、オレと陽菜はクラスも同じになり、古後のことを思い出さないくらい順調な高校生活のスタートを切ることができたと思われた。
もちろん入学初日から陽菜の美少女っぷりは学年全体に響き渡り、惚けた目で陽菜を見る輩は多かったが、三日もしないうちにそれは沈静化した。
理由はもちろん、陽菜の隣でオレがいつもマルチーズを守る樋熊のように睨みをきかせていたからだ。
高校に上がったオレの身長は百九十センチ近くまであったし、水泳をしているお陰で、ブレザーの上からでも胸板が厚いのはよく分かる。加えて目つきの悪いオレが陽菜の隣にいればもう、凶悪なボディガードにしか見えないだろう。しかも陽菜はオレに懐いている。
そんなオレたちの様子や、同じ中学出身の奴らからオレと陽菜が幼なじみであることを聞けば、どんな勇者でも陽菜にアタックしたところで見込みはないことを悟るってもんだ。
陽菜の周りをうろつく虫を早々に排除出来て、オレは安心した。
そうだ。陽菜を他の男から守るのは、難しいことではないはずなのに。小学生の頃からこうしてきたのに、どうして古後にだけあんなに過敏になったんだか……。
ふと古後のことを思い出し、追い払うように首を振る。
古後がどうしたってんだ。あいつは京都だ。遠い遠い場所にいるんだ。オレと陽菜の距離は一メートルもない。対してあいつは何百キロだ?
学校では陽菜本人こそ知らないものの、オレと陽菜の仲は公認だ。あまりの順調具合にオレは鼻歌でも歌いだしそうな気分だった。
「ショウちゃん、入部届けもう出した?」
ホームルームを終えて、窓際の一番後ろの席でまどろんでいたオレの肩をつんつん突きながら、陽菜が尋ねる。
ミルクティー色のブレザーに身を包んだ陽菜は、『たまひよ』のマスコットがじゃらじゃらついたスクールバックを肩にかけ、両手に入部届けを握っていた。
「いや、今から出しに行く」
「あ、じゃあ一緒に出しにいこ。よかったぁ。私、職員室の雰囲気って苦手で……」
「あのなぁ……叱られに行くガキじゃあるまいし……。でも職員室まで一緒っつったって、オレは水泳部の顧問、お前は調理部の顧問に提出するから、室内ではバラバラだぞ」
「ほえ? ううん、私もショウちゃんと同じで帆立先生に提出するよー」
「ホタテに?」
帆立先生は水泳部顧問の自称美人教師だ。オレは中学の時からこの高校の部活に混ざって練習させてもらうことも多々あったので、帆立先生とは面識があり影では『ホタテ』と呼んでいる。
だが何故陽菜が水泳部顧問に入部届けを出すのかが疑問だった。
「私ね、水泳部のマネージャーになろうと思って」
「へえ…………はあっ!?」
聞いてねえぞ!
詰めよるオレに、陽菜はあっけらかんと返す。
「もうお父さんたちの了承は得てるんだー。最近は倒れる回数も減ったし大丈夫だよ」
「そうは言ったってお前……マネージャーは体力仕事だぞ?」
「ショウちゃんは反対?」
「あったり前だ。倒れたらどうすんだ? 水辺だぞ? もし気を失ったままプールに落ちて溺れでもしたらどうすんだよ」
「それは……腕に浮袋つけとくとか……」
陽菜が自信なさげに口ごもる。
「迷惑かけることになってもいいのか?」
「……それは……やだけど……。もちろん身体が弱いことはあらかじめ帆立先生に言うよ? そこで先生に反対されたらマネージャーは諦めるつもりなの。ね、だから……先生に入部していいか訊いてみるだけならいいでしょ? ね? ショウちゃん」
眉根を寄せたままのオレを見て、陽菜は困ったように眉毛を下げる。
「それとも……ショウちゃんは私がマネージャーになったら……イヤ……?」
オレのブレザーの裾をぎゅっと握りしめながら、陽菜が上目遣いで訊く。
――――お前それは反則だろう。可愛すぎじゃねえか。くそ。
「やじゃ……ねえよ」
「じゃあいい?」
「良くはねえけど……」
いまだ気乗りが薄いオレに向かって、陽菜はとどめをさしてきた。
「ショウちゃんと一緒に部活したいよ」
「…………」
「去年の夏に見た大会すごかった。水の中ってあんなに速くて、自由になれるんだって。もっと近くで見たいよ」
「…………ホタテが反対したらちゃんと諦めるんだぞ」
「はあい」
オレは照れて赤くなった耳を隠し、そっぽを向いて職員室へ向かう。従順についてくる陽菜が可愛くて仕方なかった。
たまに、勘違いしそうになる。オレが陽菜のことを好きなように、陽菜もオレのことを好きなんじゃないかって。
「おうおう! むさい男共の中に可愛い女が入るのは大歓迎だよ」
帆立先生――ホタテは、腰のあたりまで伸びた艶やかな黒髪を靡かせて陽菜の入部届けを受け取った。
「身体弱いんだって? 大丈夫。あたしが目を光らせとくから存分に部活動を満喫しな」
二十代後半のホタテは、むっちりとした胸の谷間に陽菜を招きよせて撫でくり回す。
何だかホタテの大人の色気やら、じゃれて嬉しそうに笑みを浮かべる陽菜の可愛さやらにやられたオレは、順調すぎる高校生活の滑りだしに浮かれていたんだ。慢心していた。
だって陽菜は今オレの傍にいてオレの隣で笑ってる。当然のように。
多分、オレは今の立場にあぐらをかいていたんだろうな。
きっと崩れることはないと。外側の人間から見たオレと陽菜の関係は絶対的なものだと。
まさか陽菜が水泳部のマネージャーになったことを後悔する羽目になるなんて、この時のオレは思いもしなかったんだ。
「掛川翔唯です」
「マネージャーの篠宮陽菜です。よろしくお願いしますっ」
「あ、こいつへなちょこなんでたまに休むと思いますけどよろしくしてやってください」
部活初日、ホタテによって屋内プールに連れられたオレと陽菜は、上級生の部員の前で挨拶させられた。緊張気味の陽菜にオレがニヤニヤしながら茶々を入れると、陽菜は頬を膨らませた。
「もー! ショウちゃん邪魔しないでー!」
「何だよ。先輩たちに先に事実を説明しただけだろーが」
オレの背中を叩こうとしている陽菜の手をひらりとかわす。代わりに筋骨隆々の部長の腕に後ろから首を絞められた。
「ぐえ……っ」
「おーおー掛川。お前後輩のくせに、なーに初日から見せつけてくれちゃってんの? 東京湾に沈めんぞコラ」
浅黒い肌をしたレスラーのような部長の声を皮切りに、他の先輩たちも不穏な言葉を呟く。
「そーだそーだ! リア充め爆発しろ!」
「篠宮さんめっちゃタイプなのになぁ……くっそ。掛川死ねコノヤロー」
「ちょ、まじで絞まってますから!」
降参を訴えたオレが先輩たちによってプールに突き落とされるまでの一連の流れを見ていた陽菜は、初めこそ呆気にとられていたものの、弾けたように笑いだす。
部員たちが陽菜の笑顔にメロメロになるのは好ましくないし、陽菜の体調も心配ではあるが、今まで以上に陽菜といる時間が増えたことは素直に嬉しかった。
高校に上がってもオレは事あるごとに陽菜の家で晩ご飯をごちそうになっている。
初日からホタテに地獄メニューを言い渡され部活が終わる頃には力尽きていたオレは、おばさんが振る舞ってくれたビーフシチューを一心不乱にかっ食らった。
「やっぱ育ち盛りの男の子は食べるわねー。おかわりあるからじゃんじゃん食べてね」
おばさんはご満悦な様子で言うと、オレの隣に座る陽菜へ視線を向け、柳眉を吊り上げた。
「ひーな。ご飯中くらい携帯は置いておきなさい。昨日も注意したばっかりでしょ」
「んー……ちょっと待って。メールで友だちに水泳部のマネージャーになったこと報告するだけー」
陽菜はおばさんの目を気にしながら大急ぎでメールを打つ。送信し終わると、スプーンを手にとり柔らかい肉を頬張っていたが、視線は時折テーブルの上の携帯に向かっていた。
……オレと同じ高校に行ったことで中学の時の女友だちとは学校がバラバラになっちまったからな。高校でもすぐに友だちが出来たみたいだけど、やっぱり寂しいんだろうか。
「……ヒヨコ、お前ケータイ依存症なんじゃね?」
「えっ。違うよー」
「あんまり携帯いじってるとストレートネックになんぞ。恐竜みたいになるんじゃね? 恐竜ヒヨコ。うわ、どっちだよっていうか弱そう」
「私、恐竜じゃないもん! おかーさん! ショウちゃんが苛めるー!」
両手で首を押さえながら陽菜がぷりぷり怒る。おばさんは微笑ましそうに「仲よしねぇ」と呟いた。
「もし二人が結婚してもずっとこんな感じなんでしょうね」
ぽろりと零れ出たおばさんの一言に、オレの向かいでバジルとトマトのサラダを食べていたおじさんがむせる。オレはシチューに入っていた人参を噴き出しそうになるのを根性でこらえた。
「何言ってるのお母さん。ショウちゃんは大事な幼なじみだもん。そういうのじゃないのー」
陽菜だけが呆れた様子で返す。それに対して、胸が針で刺されたような痛みを覚えた。
オレと陽菜は順調で、平和で、仲良しだ。幼なじみとして。でも……。
シャツの胸元をぎゅっと掻き寄せるように握った。
安定した関係でいたいのに、そろそろ風船のように破裂してしまいそうだ。表面張力でもっていたグラスの水が、何かのタイミングで零れ出してしまいそうな、そんな感じ。
ぐらぐら、してる。シーソーみたいに。
踏み出してしまいたい気持ちと、留まっていたい気持ち。
「何の心配もなく、ずっと一緒に入れたらいいのにな」
悩むと動き出せないから、オレはいつも思考を放棄して楽な方に逃げるんだ。
だけど現実は、オレの心の動きを待っちゃくれなかった。
あっという間に、古後と出会ってから一年が過ぎ、今年も夏がやってくる。『全国高等学校総合体育大会』最後の四日間――『日本高等学校選手権水泳競技大会』が近付いていた。




