44.その目に魅入られた者は
紺碧の夜空にカナリア色の月が浮いていた。
アシェルとテオが時計塔から出たとき、リヴィとドリスは外壁にもたれかかり、2人してぼんやりと月を眺めていた。リヴィの左腕にはハンカチが巻かれているから、ひとまずの応急手当ては済んでいる模様。それでも2人は上着を着ていないから、屋外で人を待つのはさぞ寒かっただろう。
「休憩室で温かいココアを飲んでいるんじゃなかったの?」
テオがおどけた調子で尋ねれば、ドリスが生真面目に答えた。
「温かいココアは皆で飲もう、ということで話がまとまりました」
「あ、そうなの。ささやかなお疲れ様会ってことね。それにしても、せめて時計塔の中で待っていれば良かったのに」
言いながら、テオは燕尾服の上着をドリスの肩に着せかけた。ドリスは一瞬銅像のように硬直し、それから明らかに動揺して答えた。
「つ、月が綺麗でしたので……何となく外に出たくなって……」
「……ふぅん?」
テオはドリスの言葉につられて空を見上げた。青みがかった薄雲が、月光を浴びながらたなびいている。うっとりと見惚れてしまうほど綺麗。
惚れ惚れと夜空を見上げるテオのかたわら、リヴィが申し訳なさそうに謝罪した。
「あの……今夜は本当にすみませんでした。私が勝手に会場を抜け出したことで、皆さまには心配とご迷惑をおかけして……」
ぺこりと頭を下げるリヴィの格好はといえば酷いものだ。ジーンに鷲づかみにされたせいで髪の毛はぐちゃぐちゃ。せっかくのドレスは埃まみれだし、左腕に巻いたハンカチには鮮血が染み込み、まぶたにも薄っすらと切り傷がついている。
ドリスとテオはしばし顔を見合わせ、テオが代表で口を開いた。
「あー……謝んなきゃならないのはこっちだよ。ジーンが夜会の会場で何かをしでかす、ということを俺たちは全員知っていたんだ。リヴィにもきちんと伝えていれば、こんな事態には陥らなかったんだからさ……」
そこまでのことを遠慮がちに言って、アシェルを睨みつけた。
「ちょっと。指揮権はアシェル兄にあったんだから、アシェル兄の口からリヴィにはきちんと説明しといてよね。ヴィクトールに色々調べさせていたこととか、そういうことも含めて全部さ」
「ん……ああ」
テオの名指しを受けて、アシェルは曖昧に返事をした。時計塔を出てからというもの、身動ぎもせずずっと黙り込んだままであったアシェル。リヴィの顔をしばし見つめたかと思えば、静かに口を開いた。
「今日はすまなかった。私の身勝手な判断が原因で、貴女には恐ろしい思いをさせてしまった」
「いえ、そんな。アシェル様が謝ることはありません。元はといえば、私がエミーリエの本性に気付けなかったことが原因なんですから。助けに来ていただいてありがとうございました」
リヴィはアシェルに向けて静々と頭を下げた。アシェルはまたしばしリヴィの顔を見つめ、今度は決意を固めた表情で言った。
「リヴィ……私は貴女に伝えなければならないことがある」
「なんでしょう?」
「ずっと前から私の中にある想いだ。いつかは伝えなければならないと思っていたが、伝える勇気を持てずにいた。……聞いてくれるか?」
アシェルの声は緊張感に満ちており、リヴィは怖々とうなずいた。
「……はい」
澄んだ夜風がアシェルの烏羽の髪をさらった。初めてその髪を見たとき、リヴィはアシェルのことを精巧に作られた人形のようだと思った。人間に似せて作られただけの心を持たない人形。向けられる声も視線も何もかもが冷たくて、アシェルと歩み寄ることなど不可能のように思われた。
しかし今リヴィの目の前にいる人は、瞳に熱い想いをたぎらせて、緊張に震える声でこう言うのだ。
「貴女は私にとってかけがえのない存在だ。貴女がいない生活など想像することができないし、できることならこれから先の人生を貴女と一緒に歩んでいきたいと思う」
アシェルは大きく息を吸い込み、言葉を続けた。
「――リヴィ、貴女を愛している。私と結婚してくれないか」
まっすぐに伝えられた愛の言葉に、リヴィはすぐに答えることができなかった。
今日までに起こったたくさんの出来事が、走馬灯のように頭の中を巡った。「この子は呪われている」恐れおののいたような占星術師の予言。リヴィ憐れみさげすむ家族の顔。どれだけ耐えても救われなかった屋根裏部屋での生活。
突然キャンベル家の屋敷へとやってきたドリス。「リヴィ・キャンベルとは結婚しない」冷たく言い放つアシェルの声。絶望の中で感じた雨の冷たさ。殺意を向けられ一度は死さえ覚悟した。
そして――アシェルと一緒に見たエーデルワイスの花畑。風にそよぐ白い花びら、辺りを包む甘く爽やかな香り、背中に触れる人の温かさ。そこから少しずつリヴィの運命は変わっていった。
リヴィは込み上げてくる熱の塊を何度も飲み込んだ。まなじりからポロポロと涙が零れ落ちた。エーデルワイスの花畑を見たときに流した涙と同じ、胸の内側が満たされるような温かな涙だ。
(私は……幸せになってもいいんだ。アシェル様のそばで、何十年経ってもずっと一緒に……)
アシェルは何も言わずリヴィの答えを待っていた。ドリスとテオは息をひそめ、2人の行く先を見守っていた。心臓の音が聞こえてしまいそうなほどの静寂だ。
そうした時がどれほど経ったのだろう。リヴィは顔をあげ、アシェルの瞳を真正面に見据え、満開の花が咲いたように笑った。
「はい、喜んで」
これが物語の結末だ。
呪われた少女と冷徹な暗殺者。
いびつな2人が紡いだ恋物語の、幸せに満ちた結末。
残り2話です!
最後までよろしくお願いします♡





