32.ジーン・ロペス
その日は午前中に来客があるのだ、とリヴィは聞いていた。来客者の名前は聞いていない。ただアシェルにとっては古くからの知り合いで、もしかしたら挨拶をしてもらう場面があるかもしれないからと事前に断りを受けていた。
だからリヴィは日課の水やりを終えた後、客間でいそいそと身なりを整えるのである。
「ねぇドリス……今日いらっしゃるお客様は、アシェル様のお友だちなのかしら」
ワンピースに腕を通しながらそう尋ねれば、ドリスは困った表情を浮かべた。
「お友だち……ではないと思いますよ。強いて言葉を選ぶのなら『同業者』という表現が適切かと思いますが」
リヴィは思わずドリスの顔を凝視した。
暗殺一族であるバルナベット家の同業者――つまり本日の来客者もまた、人殺しを生業とする人物だということだ。ドリスにワンピースのリボンを結んでもらいながら、リヴィはおっかなびっくりで尋ねた。
「な、何というお名前の方なのかしら……」
「ジーン様です、ジーン・ロペス。殺人を生業とするロペス家のご子息ですね」
リヴィはほぅ、と息を吐いた。
「アンデルバール王国には、バルナベット家の他にも暗殺一族がいたのね。全然知らなかった……」
「リヴィ様がご存じないのも無理はありません。王国で1,2を争う有名貴族であるバルナベット家とは違い、ロペス家は貴族の家ではありませんから」
そう話す間にも、ドリスは着々とリヴィの身支度を整えていく。腰回りのリボンを結んだ後は、スカートのひだを綺麗に整えて、今はワンピースに一番合うデザインの靴を床に並べているところだ。
用意されたばかりの靴に爪先を入れながら、リヴィは独り言のように呟いた。
「ジーン様……どのようなお方なのかしら。せっかくの機会なのだからお会いしてみたい気はするけれど」
ドリスが苦々しげに、リヴィの独り言に言葉を返した。
「ロペス家の人となりに、あまり期待はしない方がいいかと思いますよ。正直……私は彼らのことが、あまり好きではありません」
「そう……それはどうして?」
ドリスはしばらく考え込んだが、結局リヴィの質問に答えることはなかった。
***
身支度をととのえ客間で待機すること1時間、扉の向こうからヴィクトールが顔を出した。くたびれた格好をしていることの多いヴィクトールだが、今日は珍しくかっちりと衣服を整えていた。左目のモノクルもピカピカに磨き上げられている。
ヴィクトールはソファで読書をするリヴィを見やり、固い口調で言った。
「リヴィ様、応接室でアシェル様がお呼びです」
リヴィははい、と返事をして本を閉じた。暇つぶしに本を開いてはいたけれど、ほとんど集中などできていなかった。
客間の隅では、ドリスが騎士の出陣を見送るときのような表情を浮かべていた。
(な、何だか皆が緊張しているみたい……何事も起こらないといいけれど)
私は彼らのことがあまり好きではありません、ドリスの言葉が頭の中を巡った。
ヴィクトールの案内で応接室に立ち入ると、部屋の中はコーヒーの香りで満たされていた。応接テーブル上のコーヒーからはまだ湯気が立ち昇っているから、客人の到着からさほど時間は経っていないようだ。そして応接テーブルを囲う2人の青年。
リヴィが挨拶を口にするよりも早く、応接室には甲高い声が響き渡った。
「お、来た来た! 噂の婚約者ちゃん。何だよ可愛い子じゃん。アシェルと結婚するってくらいだから、ゴリラみたいな女を想像してたけど」
続いてけらけらと耳障りな笑い声。声の主は珍しいオリーブ色の髪の青年だ。長い手足と、ギラギラと大きな瞳が、どことなく蛇を彷彿とさせる。
リヴィが答えを返しあぐねていると、青年がリヴィのいる方へと歩いてきた。
「おっと、ごめんね。俺はジーン・ロペス。職業は殺し屋、どうぞよろしく」
わざとらしく口の端をあげてジーンは笑った。リヴィは背筋に汗が流れるのを感じた。この人とはあまり近づきたくない、と本能が告げていた。
それでも最低限の挨拶をしないわけにはいかず、リヴィは震える指先でスカートを持ち上げた。
「リヴィ・キャンベルと申します。本日はお会いできて嬉しいです……」
リヴィが顔を上げたとき、ジーンはリヴィの真正面に立っていた。オリーブ色の前髪の下で、2つの瞳がギラギラと輝いている。巨大な蛇に睨まれたかのようにリヴィは動けなくなった。
「……ふーん。噂には聞いていたけど珍しい色の目だね。アンタ、本当に人を呪えるの?」
「いえ……」
リヴィが消え入りそうな声で答えれば、ジーンはさして興味もなさそうに笑った。
「ま、そんなもんだよね。念じただけで人を殺せるのなら殺し屋なんていらねぇわ。ねぇアンタ、アシェルとは上手くやってんの? アイツ不愛想だし、一緒にいてもつまんないでしょ」
アシェルを蔑むような発言だ。ジーンに対して恐怖を感じながらも、リヴィは少し意地になった。
「アシェル様にはとても良くしていただいています。一緒にいてつまらない、と感じたことは一度もありません」
「へぇ……冷徹無慈悲の暗殺者サマでも、婚約者は大切にしているわけだ。超、意外」
ジーンはわざとらしく肩を竦めて見せた。
リヴィはこのとき初めて、ジーンの薄気味悪さの正体がわかった気がした。ジーンの発言には心がこもっていない。それらしい台詞をそれらしい口調で並べ立てているだけだ。リヴィに対して興味を抱いた風を装いながらも、本心ではなにを考えているかわからない。だから恐ろしい。
(アシェル様は確かに少し不愛想だけれど、思ってもいないことを口にしたりはしない。でもジーン様は、話すこと全てが嘘のように感じられてしまう。……笑顔すらも)
リヴィがジーンからふいと視線を逸らしたとき、少し離れたところからアシェルの声が飛んできた。
「ジーン、もう十分だろう。挨拶が済んだのだからリヴィは退席させる」
ジーンは不満そうに唇を尖らせた。
「何でだよ。もう少しおしゃべりしたって良いだろ。そうだ俺、婚約者ちゃんにお土産を買ってきたんだ。女の子に人気の菓子だって聞いたから、食べてみてよ」
そう言うと、ジーンは上着の内ポケットから長方形の小箱を取り出した。柄のない紙箱に赤いリボンが巻かれている。ジーンの手がリボンをほどき、小箱のふたを開けると、中にはリヴィのよく知る菓子が並んでいた。
「マカロン」
リヴィが弾んだ声で言えば、ジーンは意外そうに目を瞬いた。
「お、よく知ってんね。そうそう、マカロンって名前の菓子だよ。ひょっとして食べたこと、ある?」
「はい。以前、アシェル様が仕事のお土産に買ってきてくださったんです」
「へぇ……アシェルが土産ねぇ」
思いがけないマカロンの登場に、場の雰囲気は少しだけ和んだように思われた。アシェルは溜息を零しながらもコーヒーをすすり、扉脇のヴィクトールは見るからに肩の力を抜いている。
リヴィはジーンから小箱を受け取り、そわそわと中を覗き込んだ。以前土産に貰ってからというもの、リヴィはすっかりマカロンのファンなのだ。ジーンに対する恐怖心も、このときばかりは忘れていた。
「あの、一つ頂いてもいいですか?」
「いーよいーよ、好きなだけ食べなよ。貴族同士の茶会じゃねぇんだから、変なマナーとか気を遣う必要ないよ」
そうは言われてもさすがに立ったまま食べるわけにはいかないと、リヴィは応接用のソファの端に腰を下ろした。隣にはアシェルがいて、コーヒーをすすりながらリヴィの様子を伺っている。
長方形の箱の中には12個のマカロンが並んでいて、リヴィはそのうちの一つ、ピンク色のマカロンをつまみ上げた。マカロンの間に挟まれたガナッシュからは、ストロベリーのいい香りが漂ってくる。
リヴィは幸せな気持ちでマカロンにかじりついた。
しかし次の瞬間には、反射的にマカロンの欠片を吐き出していた。舌先に砂糖のものとは違う、不自然な甘みを感じたからだ。
アシェルが驚いた顔でリヴィを見た。
「リヴィ、どうした」
「すみません……このマカロン、変な味がします。薬……みたいな」
「薬……?」
アシェルの視線がジーンを射抜いた。それだけでは足りず、腕を伸ばしてジーンに掴みかかろうとする。ジーンは「うげっ」と悲鳴をあげてアシェルの手を払い落とした。
「ちょ、ちょ、ちょっと待てって! 別に死ぬような薬は入れてねぇよ! 食べたらちょっと眠くなるだけ……」
「そうか、ではお前が食べろ。そのまま永遠に眠らせてやる」
アシェルが冷え切った表情でそう吐き捨てるものだから、ジーンは大慌てで両手を掲げた。わざとらしい降参のポーズだ。
「悪かった、全面的に俺が悪かった。ちょっとした悪戯心だったんだよ。お詫びに訊かれたことには正直に答えるさ。何か訊きたいことがあって俺のことを呼んだんだろ?」
(訊きたいこと……? 用事があるのはジーン様ではなく、アシェル様の方だったのね……)
こうしてバルナベット家の屋敷を訪ねてくるくらいなのだから、てっきりジーンの方が何かしらの用事を抱えているのだと思っていた。しかし意外にも用事があるのはアシェルの方だという。
アシェルの『訊きたいこと』とは何だろうと、思い巡らせるリヴィの耳に、優しい声が流れ込んできた。
「リヴィ、ヴィクトールと一緒に客間へ戻っていていい。薬は飲み込んでいないと思うが、念のため口をゆすいで安静にしているように。何かあったらすぐに知らせてくれ」
「はい……わかりました」
リヴィは席を立つと、ヴィクトールの後に続いて応接室を出ようとした。扉をくぐる直前に、今度はジーンの声が聞こえた。
「ねぇ婚約者ちゃん。参考までに訊きたいんだけど、どうして薬が入っているってわかったのさ? この薬、味なんてほとんどしないはずなんだけど」
「私、味と匂いには敏感なんです。昔よく、嫌がらせで食事に混ぜ物をされたから」
ジーンは嫌味たらしく舌打ちをした。
「……何だよそれ。可愛い子猫ちゃんかと思ったら、とんだ野生児じゃねぇか」
わざとらしい溜息を聞きながら、リヴィは今度こそ本当に応接室を後にした。





