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昼食を食べてからいざデートに出発――の前に、少しだけ一悶着があった。
馬車へ向かうと御者台にヨーシアがいた。
何をしているのかと問うフェリクス様に、「今日はボクが御者兼護衛としてお供します」と宣言。
(いいこと思いついたって、そういうことね)
不要だと言うフェリクス様と、またしばらく会えなくなるから少しでも側にいたいと駄々をこねるヨーシアで出発がさらに遅れた。
根負けしたフェリクス様が「御者に徹底するように」と条件を出して、ようやく出発した。
「今日はどこへ?」
「テーラーでドレスを作ろうかと思っている。時間があればその後にも買い物をと思っているけど、その前に寄りたいところがあるんだ」
「わかりました」
そんな会話をして、辿り着いたのは私には見慣れた小さな建物の前だった。
「え?寄りたい場所って、私の実家ですか?」
「うん。デートの後だと遅くなってしまうだろうし、先に。夫人には先触れを出してある。午前の予定で窺いを立てていたから遅れてしまったけど」
「それで急いでいたのですね。うちの実家なら少し遅れたくらい大丈夫ですよ」
「セレナのご両親に約束の守れない男だと思われたくないんだよ」
私たちが馬車を降りるとテルザさんが「おかえりなさいまし、お嬢様」といつものように出迎えてくれた。
テルザさんにとって私はいつまでも小さなお嬢様のままなのだろう。
優しい笑顔の出迎えはいつもほっとさせてくれる。
居間に行くとお父様は椅子に座ってお茶を飲み、お母様は窓辺で刺繍をしていた。
刺繍工房で働いていたお母様は、今も週に何度か働きに行っているらしい。
外で働いてみて、働くことの楽しさややりがいを見いだしたと言っていた。
少し前に間違えた方向に暴走して私やフェリクス様に迷惑を掛けたお母様だけど、あの後正式にフェリクス様に謝罪した。
当然、お兄様の結婚式費用は受け取らなかったけど、フェリクス様は早めの祝儀として、少なくない金額をお兄様に渡していた。
「今日はどうしたのですか?」
「私から子爵夫人に聞きたいことがあったのです」
「なんでしょうか?」
「セレナの初恋についてです」
驚いて隣を見ると、フェリクス様の表情は真剣そのもの。
まさか、フェリクス様はまだ気にしていたとは。
「セレナの初恋ですか?えっと、誰だったかしら?」
「侍従だったと。昔夫人から聞いたとセレナが」
「あぁ!そうそう、そうでした。でも、侍従なんて大層なものではなくて。将来的には侍従にと思って雇った下男といったところでしたけど」
「どんな男性で、セレナはその彼のどんなところに惹かれていたのでしょうか」
「え、えっと……そうね……。どうだったかしらね……」
微笑んでいるけど鬼気迫るようなフェリクス様の迫力に、お母様が完全に引いている。
だけど、フェリクス様は追及の手を緩めない。
「爽やかで優しかったとか」
「そうですね。当時、あの子は年のわりに物静かで。爽やかというのは風貌のことです。長かった髪を切ったらきれいな顔をしていて爽やかな雰囲気になったの。でも、すぐに転職したんですよ」
「へぇ……。では、短期間だったにも関わらず、セレナには初恋だったということですね」
子爵家の居間に、重苦しい空気が漂う。
お父様は困ったように笑っている。
「すぐにもっと条件のいいお屋敷が見つかったって言っていたはずだけど……でも……」
何かを考えている用だったお母様が、閃いた顔をする。
「なんです?」
「あの子、最終的に勤めたのはハーディング侯爵家ではなかったかしら?」
フェリクス様からは低い声で「は?」と発せられた。
「うちの次に、確かどこかの伯爵家で勤めて、その次にハーディング侯爵家に勤めたって誰かが話していて、『随分出世したのね』って話した記憶があるわ。ねぇ、あなた?」
「んー、そうだったかねぇ」
「そうよ。その後はわからないけど」
(お母様ぁ!もう少し空気を読んでちょうだい!フェリクス様の表情が真剣過ぎて怖いわ)
「先ほどから『あの子』という言い方をされていますが、そんなに若い使用人だったのですか?」
「あぁ、いえ。確か成人したばかりだったと思うけれど、線が細くて。こう……年齢のわりに少し頼りない印象の青年だったんです。でも、もっといい条件を見つけたとかで急に辞めてしまったのですから」
「当時成人で年のわりに頼りない……?うちでそんな使用人は雇わないと思うが……ぁ、もしかして」
考え込んでいたフェリクス様は、ハッとして顔を上げた。
「馬車で待機しているうちの御者を呼んでもらえますか」
テルザさんに指示を出す。
そして、呼ばれたヨーシアが子爵家の居間に入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「夫人。この男ではありませんか?」
「んー……あっ。そうよ!え!凄い偶然ね!やっぱりまだ侯爵家で働いていたのね。そうよね、賃金も比べものにならないでしょうしねぇ。立派になったわ。雰囲気も随分変わって」
「やっぱりか。お前だったのか、ヨーシア」
「えっ!?な、なんですか?何がですか!?」
突然、地を這うような声を発したフェリクス様に、戸惑うヨーシア。
私は、そんな偶然があるの?と驚きつつ、私の初恋がヨーシア??と信じられず、まじまじと見てしまう。
「お前、ヘーゲル子爵家で働いていたことがあったんだな」
「あー、はい」
「どうして黙っていたんだ?正確にはっきりと理由を言え」
「こうなると思ったからです。旦那様の奥様への想いは知っていましたから。昔ボクが少しでも側にいたことがあると知ったら、嫉妬されてしまうと思って。何か聞かきかれても、答えられることは使用人と主人の娘だということしかありませんでしたし。仕事もやりにくくなるってわかっていたんで」
「本当にそれだけか?やましい気持ちがあったわけではないだろうな」
「ありませんよ。ボクがヘーゲル子爵家で働いていたのは、奥様がまだ十歳に満たないくらいのときですよ」
「そのころもセレナは天使だったに違いない。惚れてもおかしくないだろ」
「いや、待ってください。ボクはロリコンではないですからね?!」
フェリクス様によって壁に追い詰められるヨーシア。
助けてあげたいけど、私が口を挟むと余計こじれそうで困ったと思っていると、場を打ち破るような笑い声が居間に響いた。
「あっはっはっ!侯爵様、それはヨーシアさんが可哀想ですよ」
テルザさんがお腹を抱えて笑い出したのである。
「奥様も酷いですよ。お嬢様の初恋がヨーシアさんだなんて、からかうから」
「……からかったのか?俺を」
今のフェリクス様は沸点が低くなっているようで、冷たい視線をお母様に向けた。
お母様はブンブンと首を横に振る。
「奥様がからかったのは、思春期のころのお嬢様ですよ。なんたって、お嬢様があの当時言った『好き』は、お菓子が好き。動物も好き。お人形も好き。ってその程度の好きでしたし。ヨーシアさんを好きと言ったのは、お菓子をくれたときに好きと言っただけで、あれが初恋なわけがありません。現に、ヨーシアさんよりもよくお菓子をくれるメイドのほうに懐いていたくらいですからねぇ」
十歳くらいの私は食い意地がはっていたようで、とても恥ずかしくなった。
「……そうなのか。しかし、後を付いてまわっていたと聞いたが」
「当時の使用人の中では若いほうでしたし、若く見えましたからねぇ。遊び相手に誘っていたようですが、子供によくあることでしょう。それに、またお菓子を貰えるかもしれないと思ってのことですよ、きっと。だいたい、肝心のお嬢様が気づいていなかったのでしょう?その程度なんですよ」
テルザさんはカラカラと楽しそうに笑い飛ばす。
「そうか……。確かに、言われてみればその可能性もある。セレナ、本当にヨーシアのことは気づいていなかったの?」
「えぇ……、まったく。ごめんなさいね、ヨーシア。忘れていて」
忘れていたどころか、ドゥシャンに似ていて怖いと思うばかりだった。
だけど、あの宿場町で会ったときに感じた既視感は、昔の記憶からだったのかもしれない。
「いやぁ。もう、忘れていてくれて全然大丈夫ですよ」
「セレナ。ヨーシアのことを見て、なんとも思わない?実はタイプだったり……ヨーシアに気持ちが移ったり……。そうなったら、ヨーシアには辞めてもらわなければならないけど」
「ちょ、フェリクス様!?何があってもボクは絶対に辞めませんよ!?」
取り縋るヨーシアを無視して、フェリクス様は私をじっと見ている。
「心変わりなんてするはずありません!それに、全然!私はヨーシアなんてぜんっっっぜんっ!タイプじゃないですよ!こんな、何考えているのかわからない変な人!」
「…………」
全力で否定したのに何も言わないフェリクス様。
室内が微妙な空気になっているのに気づいた。
お父様が「セレナ。人を悪く言うのはやめなさいね」と咎めるように声を出す。
「……あっ。本人を前に、失礼だったわ。ごめんなさい」
「いえ。タイプじゃなくて、むしろありがとうございます!」
「そうか。そこまで言うならとりあえず大丈夫か……。信じているよ、セレナ」
とりあえずとは?と思ったけど、私は「はい、信じてください!」と力強く言った。
◇
実家である子爵家を後にし、私たちはテーラーメイドドレスの専門店ロテル・サン・ロランへ向かった。
きっと、先日私が『前ボタンのドレスがもっと欲しい』と言ってしまったから、フェリクス様は作ろうとしてくれている。
あの旅に出る前は、もうドレスはしばらく不要と言おうとしていたのに。
でも、フェリクス様は本当に長期休暇が取れたら二人きりで旅行に行きたいと思っているようだから、前ボタンのドレスはできるならもう少し欲しいところ。
ついつい甘えてテーラーへと来てしまった。
テーラー近く駐車場に馬車を停めると、すぐにヨーシアが扉を開いた。
足場の台を置いたら御者はすぐに退けるのが普通なのに、なぜかヨーシアは退けようとしない。
「邪魔だ。退け」
フェリクス様が冷たく言う。
実は、ヨーシアが昔子爵家で働いていたとわかってから、フェリクス様はどことなくヨーシアに冷たい。
先ほど子爵家を出るときもヨーシアを無視するような態度だった。
「……話がしたいです」
「今話すことはない」
冷たく言われ、ヨーシアは俯いてしまう。
テレザさんの話によると発端はお母様が私をからかって初恋だと話したところから。
それが二人の間に亀裂が入っていることに、なんだか悪いことをした気持ちになってくる。
取り付く島もない様子のフェリクス様に、ヨーシアは俯いたまま右手で左腕をグッと掴んだ。
「……あっ」
ヨーシアの何かを耐えるような仕草に既視感を覚え、ふと記憶が蘇ってきた。
「どうしたの?」
私が声を発したので、フェリクス様が首を傾げる。
私にはいつも通りの態度。
「今急にヨーシアがうちで働いていたときのことを思い出しました」
フェリクス様の眉がピクリと反応する。
軽く視線を逸らし、聞きたくないと表情が物語っていた。
だけど、今話したほうがいい気がして、私はフェリクス様の手に触れた。
「何も心配はいりませんから、聞いてくださいませんか?ヨーシアも一緒に」
「……わかった」




