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出発のとき――――
王女様の荷物は鞄が一つ。
それと、取っ手付きの小ぶりなバスケットが一つ。
バスケットの中は、道中のおやつとして胡桃やクッキーがたっぷり入っているらしい。
「道中で食べましょうね。クッキーは昨夜、母と焼いたものだから数日は持つと思うの」
王女様は私に笑顔で話しかけてきた。
夜にヤンセン男爵夫人とクッキーを作ったと聞いて、私は少し切なくなってしまう。
けれど、王女様の表情を見るに、昨夜私たちが心配したような心変わりや不安を抱えている様子はない。
むしろ、新天地へ向けての希望に満ちた表情をしている。
「そういえば手土産なんですけど、夫人へはここの自慢の染め物を用意しました。昨夜、両親と相談して、デザインは私が選んだんですよ」
「あ、もしかしてニミウコ染めの生地でしょうか?」
「はい。あっ!そういえば王都で流行ってるって、昨日おっしゃってましたよね!?お父様、お母様!知ってた!?」
王女様は勢いよく後ろを振り返る。釣られて私も男爵夫妻の顔を見ると、優しく微笑んで頷いていた。
王女様は寂しがる様子がないし、ヤンセン男爵夫妻も昨日よりずいぶんと落ち着いた表情をしている。
「もちろん知っているよ。残念ながら、我が領発祥の伝統技術だということまではなかなか伝わっていないようだけど」
「あ、そうなの?だから?王都で流行ってるってわりに全然豊かにならないのは」
「まぁ……商売上手な人がいるからな。それでも嬉しいじゃないか」
「お父様、それじゃあ駄目よ。技術を守ることも大切だって言ってるじゃない。そのためには、発祥地としての知名度を上げなければならないわ」
私たちの前で王女様に叱られたヤンセン男爵は少しばつの悪い顔をしながら、私たちに向き直る。
「手土産は染め物の他に、林檎をご用意しました。昨日ご案内した我が領で開発を進めているあの青い林檎です。二箱用意しました」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、私は荷物を積みに行ってくるから」
王女様は自分の荷物を持って馬車へと向かっていく。
手伝おうかと思ったけど、フェリクス様の手がしっかりと腰に回ったままで動けなかった。
イヴァン様が駆け寄って王女様から荷物を受け取っているところをなんとなく皆で見ていると、ヤンセン男爵が静かに口を開いた。
「……ハーディング侯爵殿。昨日はお気遣いいただきまして、ありがとうございました。お陰様で、親子として最後の時をゆっくり過ごすことができました」
ヤンセン男爵は、昨日のフェリクス様の言動が、親子の時間を少しでも長く取れるようにとの配慮だと気づいていた。敏い人だ。
「あのように、この田舎でのびのびと育って。これからの苦労を思うと心配ですが」
男爵は、馬車の馬を撫でたり御者のマルセロに話しかけたりと、自由に動き回っている王女様を目で追っていた。
そして、私へと視線を移す。
「こんなことをお願いしていいのかわかりませんが、ハーディング侯爵夫人。昨夜、あの子は夫人とお話しさせていただいたことを嬉しそうに話していました。あんなふうに誰かのことを楽しそうに話すあの子を見るのは久しぶりで……。向こうに行けば、あの子の知り合いは誰もいません。よろしければ、あの子の相談相手や話し相手になっていただけませんか。我々ではあまりに遠すぎるので」
王族である王妃様の周りには、身の回りの世話をする人とは別に、お話し相手として侍っている高位貴族のご夫人方がいるらしい。
王女様にもきっとそういう役割の人が付けられるだろう。
だけど、希望者がなれるものではない。派閥や家の力など、様々なことを考慮して決められているはず。
今は侯爵夫人になったとはいえ、元々が領地も持たない貧乏子爵家の娘が選ばれるとは思えない。だけど、嘘になってしまう可能性が高くても、私にはこれしか言えない――――
「もちろんです」
私の返事を聞いて、男爵夫妻は「ありがとうございます」と揃ってお礼を言う。
ヤンセン男爵夫妻の心底安堵したような表情を見て、この瞬間を安心させるためだけに言ってしまった言葉に、後ろめたさが襲ってきた。
その場しのぎの優しさは優しさとは言わない。昨日のフェリクス様のように、裏にある優しさや誠実さのほうが、本当の優しさだと思える。
先を見据えているフェリクス様なら、もっと違う返答をしただろうか。
つい、確認するようにフェリクス様を見上げると、優しく頷いてくれた。間違えていないと言ってもらえたようで、少し気持ちが軽くなる。
私たちの間にはしんみりとした空気が流れていたけど、王女様が玄関前にいる私たちの所に戻ってきて、いよいよ出発の時になる。
「アンナ、体に気をつけてね。あなたは案外喉が弱いんだから、喉の調子が悪いなと思ったらちゃんと休むのよ。蜂蜜湯を飲んで――」
「もう!子供じゃないんだから大丈夫!」
「そんなこと言って、この前の冬もしばらく咳をしていたじゃない。これからは黙っていても蜂蜜湯も蜂蜜入りミルクも出てこないのよ。お母様はいないんですからね」
「わかってます」
「向こうではちゃんと周りの人の言うことを聞くのよ。勝手に出歩いたりしちゃだめよ。迷子になったら迷惑かけるのだからね。あなたは案外お転婆――」
「大丈夫だってば!」
「アンナの大丈夫があてにならないのは、お母様がよくわかっています」
「そんなに心配しなくても大丈夫!もしも、王都が肌に合わなかったらすぐ帰ってくるから」
一度王城に入ってしまったら、もう簡単に出ることはできないし、王女様がここへ来ることはきっともう二度とない。
男爵夫妻はそのことをよく理解しているようで、言葉に詰まってしまった。
「何?帰ってきてもいいでしょ?離れて暮らすことになるけど、私たちは親子なんだし……」
「え、ええ――」
私たちの手前、当たり前だと言えないのだろう。夫人の返事は曖昧だった。
「あなた方親子が歩んできた足跡がなくなるわけではありませんし、その事実は消えません。ここは確かに殿下の実家と言える――と、私は思います。何も、これで今生の別れになるわけではありません」
静かに語り出したフェリクス様の言葉に、男爵夫人はハッと顔を上げた。
フェリクス様は男爵夫人の目をしっかり見て、言葉を続ける。
「帰る場所という心の拠り所があれば、強くいられるはずです。互いに」
夫人はフェリクス様の顔を見て、顔を歪ませた後、涙を堪えた様子で王女様に笑顔を見せた。
「そうね。ここはあなたの家なんだから、いつでも帰っていらっしゃい」
「そうだ。ここはアンナの家だ」
夫妻の言葉を聞いて、王女様はほっとした表情を見せた。
王女様も本当はもう帰ることはできないと理解しているのかもしれない。
それでも、この場所こそが自分の家であると思いたいし、伝えたかったのだろう。
私たちが馬車に乗り込むと、夫人は馬車に触れそうなほど近くまで来て、男爵に少し後ろに下がるように引き戻されていた。
「どうか体に気をつけて、元気でね。無理しないで」
「うん!向こうに着いたら手紙を書くね。いってきまーす!」
王女様の元気な声を合図に、馬車が走り出す。
王女様は馬車から身を乗り出して、男爵夫妻が見えなくなるまで手を振っていた。
ヤンセン男爵夫妻の姿が完全に見えなくなると、ようやく座席にしっかりと腰を落ち着ける。
静かな馬車内に、スンと小さく鼻を啜る音が響く。
「……っ……ふ……」
抑えきれない声が大きくなっていき、私は思わず立ち上がって王女様の肩を抱いた。
それからしばらくして、顔を上げた王女様は鼻や目を赤くしていたけど、私と目が合うとにこっと笑顔を見せられた。
「……ありがとうございます」
本当に、人の心を明るく照らしてくれるような、屈託のない笑顔だった。




