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カラリとグラスの中を氷が回る。カラカラと無意味に揺らし続けていた。
私たちは宿の部屋で、フェリクス様とイヴァン様と三人でお酒を飲んでいる。
宿の外の食事処でお酒を飲むことはあったけど、部屋でお酒を飲むのはこの旅の中では初めてのこと。
王女様の王都行きがすんなり決まったものの、二人とも思うところがあるらしく、宿に戻って飲み直しとなった。
私とフェリクス様はベッドに腰掛け、イヴァン様は椅子に座り、三人で小さなテーブルを囲んでいる。
ここは商人が体を休めるためだけに泊まるような安宿で、壁も薄い。
普段通りの声量で話をしても漏れ聞こえてしまう可能性があるので、フェリクス様が消音魔術を部屋に掛けている。
消音魔術で音が漏れないとわかっていても、皆が心情的に顔を寄せ合って小声で話をしていた。
「殿下は、事の重大さがわかっていないよな」
グラスを傾けながら、イヴァン様が独り言のように呟く。
私でさえ思ったことだし、イヴァン様も気になったのだろう。
「我々は殿下の決断を尊重するしかない。考える時間も、拒否権もあると伝えた。それでも決められたのは殿下だ」
「そうだけどね。心配だな」
「……少しだけ王都行きを決断した王女様の気持ち、私はわかる気がします」
「どうして?」
昨日、王女様が屋敷に戻ってきたときの様子が思い出される。本当に憤慨したような言い方をしていたけど、表情は悲しげで複雑だった。
「婚約破棄されたなんて、できるだけ人に知られたくないし、忘れてしまいたいことです。なのに、ずっと噂されて憐れまれ続けるのは辛いだろうなって」
イヴァン様が「まぁね。それは理解できる」と同意する。「きっと都会に比べると人口も少ないし、田舎は話題が少なくなるから噂が移り変わるのに時間がかかるのだろうね。半年経ってもまだ言われるのはうんざりするはずだ」と続けた。
「そこですよね。この先も何かあるたびにこうして噂になってずっと言われるのかと想像したら、辟易してしまう。そんなときに、狭い世界から抜け出せる話が持ちかけられたら、飛びつきたくなると思います。私が同じ立場なら、自分の選択の結果がどうなるか、考えるのは後回しにすると思う」
内容は違うものの、自分が噂の的になった経験がある分、なんとなく王女様が言っていた言葉が理解できた。
他人から憐れまれるというのは屈辱的なものだし、気持ちが重くなってしまう。
私が視線を下げると、フェリクス様が慰めるかのように優しい手つきで肩を撫でてくる。
「セレナは心配いらないよ。俺はセレナ以外興味ないからね」
「それはわかってます」
私が即答すると、フェリクス様は笑みを深めた。
そして、今度は頭を撫で、髪に指を通して梳く。
「この田舎では確かに息苦しくもなるだろう。さっきの食事処でも、他のテーブルでは人の噂話ばかりだったしね。だけど、途中でやっぱりやめると言い出しそうで……」
フェリクス様が甘い雰囲気を出し始めたけど、すっかり慣れた様子のイヴァン様は気にせず話を戻した。
フェリクス様も私の髪をひとしきり撫でた後、イヴァン様に向き直る。
「その可能性は否めない。だが、王都行きを拒否されて困るのは我々だ。殿下の決断力に感謝しよう」
「確かに。ここに何日も滞在した挙句、説得できず王都に戻っても、きっと説得できるまで何度も通う羽目になるのだろうからな。聞いたところ、殿下は王都に行ったことがないとか。旅行気分だよな、絶対」
「だろうな。気が変わるとしても、明日の朝までにしてほしいところだ。ここを離れてからではもう後戻りできない」
「あぁ……。あ、そうだ。リック、復路の警備だが、ヤンセン男爵から気になることを聞いたんだ」
それから二人は帰りの計画を確認し合っていた。
ここへ来るまでの道程はある意味、帰り道の予行練習のようなものだった。
フェリクス様とイヴァン様で事前に決めた道を通り、決めた宿に泊まって安全性を確かめた。
毎夜、夕食を終えて私たちと分かれた後に、イヴァン様は一人で宿の周辺や宿の中も歩き回っていたらしい。
「最近この辺でも盗賊が増えているそうだ。今は自衛団で対応しているが、数が増えてきたので騎士団へ援助の要請ができるか相談された」
「盗賊か……春の嵐の影響だろうな」
「ここに来るまでは大丈夫だったけど、実際、ここより先の地域からも騎士団に報告が届き始めている」
「もう少し上へ行くと畑が壊滅状態の場所もある。この辺りまで盗賊が来ているということは、それだけ職を失った困窮者が多いということか――」
(……どうしよう。場違いにもこんなことを思うなんて。でも、真剣な表情のフェリクス様がいつにも増して格好良く見える)
いつも私には甘い顔しか見せないフェリクス様だけど、イヴァン様との会話で見せる真剣な表情になんだかドキドキしてきた。
フェリクス様はお仕事中、こんな感じなんだ……と、想像力を掻き立てられる。
この旅行中に何度も見かけた表情なのに、今は一層素敵に見える。
(酔ったのかも……。邪魔しないように先に休もうかな。明日からは私も頑張らないといけないし)
私が手に持っていた空のグラスに視線を下げると、それまでイヴァン様と真剣に話していたフェリクス様が目敏く気づく。
「セレナ、おかわり入れようか?」
「ううん」
「あれ。もしかして、酔った?」
「ん……少しだけ酔ったかも」
「あ、やっぱり酔ってる。 ――はい、水飲んで」
「ありがとう」
すぐに水を注いで渡してくれたので、受け取って口をつける。
ただ水を飲んでいるだけの私を、フェリクス様は至近距離から愛おしそうにじっと見つめてくる。
「……それにしても、リックは見すぎじゃない?そんなに見られていたら、セレナちゃんだってさすがに嫌だろ」
イヴァン様の言葉を受け、フェリクス様が目を見開いた。
「え……そうなの?セレナ」
「もう慣れたから大丈夫」
「良かった……。セレナを見つめてはだめだと言われても困る。瞳が勝手に惹き付けられてしまうのだから」
フェリクス様は私をぎゅっと抱き締めて視線を合わせてくる。今にも唇が触れそうなくらい近い。
真剣な様子で話していると思っていたけど、案外フェリクス様も酔っているのかも。
「いやいや、良くはないだろ。『慣れた』ってことは、最初はそうじゃ……あーまぁ、二人がいいならそれでいいけど。明日も早いし、俺はそろそろ寝ることにする。二人も早めに休んだほうがいいよ。じゃあね、おやすみ」
イヴァン様がさっさと部屋を出ていく。
ドアが閉まる音と同時に唇が塞がれた。




