第89話 【君の名を呼べば】
人気の無い階段の踊り場で、礼二郎は携帯を取り出した。
「サナダッ。おい、サナダッ。聞こえてるんだろッ。返事しろッ。サナダッ」
『…………』
携帯は返事をしない。
常識的な観点からみると、当然と言えば当然だった。
ごく一般的な携帯電話は、話しかけただけでは返事をしない。
今の礼二郎は、傍から見ると、携帯電話に名前をつけて、必死に呼びかける〝痛い男〟だ。
さながら、〝モニターの前に二人分のケーキを置いて、二次元の恋人とクリスマスを過ごす喪男〟だった。
だが、礼二郎は根気よく携帯に呼びかけた。
「聞きたいことがあるッ。返事してくれッ」
――5分ほど呼びかけたころ、憮然と携帯は応えた。
『……あによ?』
画面には、口をへの字に曲げた緑髪の少女が映っている。
「あのホームページはどういうことだッ。あんな写真、いつ撮ったッ」
『……どうでいいわ、そんなこと』
「そんなことだとッ? テメェ、ふざけるなッ」
『ふざけるなですってッ? ふざけてるのはどっちよッ。』
「通話じゃあるまいし、なに切れてるんだよ。更年期(更新月)か」
『全然うまいこと言えてないのに、ドヤ顔してんじゃないわよッ。それに、なにが「サラダから名前を取って〝サナダ〟」よッ。もっともらしいこと言って、本当は寄生虫の名前から取ったんじゃないッ。謝ってッ。すぐに謝りなさいッ』
携帯が、CPUをフル稼働させて怒鳴った。
どうやらこの携帯は、礼二郎のつけた名前が不満らしい。
実は、さきほど呼びかける際、「サナダ、無視か?(笑)」と言いかけたが、言わなくて正解だった。
もし言っていたら、この乙女機能搭載電話は、通常の電話業務すら放棄していたに違いない。
――まったくヒヤヒヤさせやがるぜ。
「名前なんてつけ直せばいいだろうがッ。そんなことよりもだな……」
『そんなことですってッ? 持ち主である君が名前を提案して、あたしが受け入れた時点で、もう取り返しがつかないのよッ。バーカバーカバーカッ』
「へ? じゃあ、お前の名前は、ずっと……」
『〝サナダ〟よッ。これから未来永劫、永遠に、あたしは〝サナダ虫〟と同じ名前なのよッ。どうしてくれるのよ、このバカッ』
「なるほど。しかし、〝サナダ〟という名前は一般的ではあることだし、素直に受け入れてみてはどうだ?」
『全国の〝サナダさん〟と、あたしの〝サナダ〟は全然違うのよッ。あたしのは〝サナダ虫〟由来でしょッ』
「待て待て。そもそも『サナダ虫』は、〝サナダさん〟が発見したから、その名前になったんだぞ」
『へ? そうなの?』
「うむ、間違いない。つまり結局の所お前の名前は、全国のサナダさんと同じってことにならないか?」
『……ちょっと待ってなさいよ。今ネットで調べて……全ッ然違うじゃないッ。適当な嘘ぶっこいてんじゃないわよッ』
「ほう、ご先祖様の名前は、どんな由来だったんだ? 」
『なに勝手に人を「サナダ虫家の娘」にしてんのよッ。なんか由来はヒモの名前らしいわよッ』
「へぇ、知らなかったな。勉強になったよ」
『「勉強になったよ」じゃないわよ、このスカタンッ。結局、あたしの名前は〝サナダ虫〟由来なんじゃないッ。どうしてくれんのよッ』
「まぁ、そうだな。それは、ご愁傷様というか、ドンマイというか」
『なんで人ごとなのよッ』
「人ごとだからな。っていうか、お前〝電話〟じゃねぇか。ハハハ、人ですらないな」
『こ、この男はぁぁぁッ。そんなんだから、あれだけの美女に囲まれながらチェリーなのよッ。このふぬけ野郎ッ』
「チェリーだと? フッ、僕は美人OLのお姉さんと、ファッションホテルで朝チュンした男だぞ?」
『チェリーよッ。〝経験した男〟は魂の色でわかるのよッ。君は正真正銘、混じりっけ無し、純度100%の、ユニコーンも鼻で笑う、まごうことなきチェリーボーイよッ。むしろ、その状況でチェリーなんて笑っちゃうわ、プークスクスッ。バーカバーカッ。早く謝りなさいよッ。このヘタレチェリー、ヘタレチェリー、ヘタレチェリー、ヘタレチェリーッ』
「クッ、テメエッッ。誰が謝るか、このサナダ虫、サナダ虫、サナダ虫、サナダ虫ッ。保護シール代わりに〝ポキール〟を貼り付けて〝陽性反応確認〟するぞ、コラッ」
『虫って言うなぁッ。ん? 何よ〝ポキール〟って。ちょっと待ってなさい。ネットで……ハァッ? だだだ、誰が〝ギョウ虫検査陽性〟よ、このヘタレ野郎ッ』
「誰がヘタレだ、ゴルァッ」
それから〝謝れ〟という携帯電話と、〝絶対に謝らん〟というチェリーの、見た目シュールかつ、低レベルな言い争いが、さらに5分ほど続いた。
醜い争いの末、最終的に折れたのは、意外にもチェリーだった。
恥ずかしい写真をネットにばらまくという、寄生携帯電話生物サナダ(♀)による、涙ながらの脅しに、チェリーが屈した結果だ。
『あやばぢだざいよッ。びえぇぇぇんッ』(訳:謝りなさいよッ。えーんッ)
「そんなに泣くなよ。僕が悪かった。すまん」
と、チェリーは口で謝りつつも、この情緒不安定携帯(♀)に負けたつもりは毛頭なかった。
どころか、大人な自分が折れてやったんだぜ、などと上から目線で思っていた。
そして首を振って、こんなことを言ったりする。
「ふぅ、ヤレヤレだぜ」




