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第62話 【チェリーな間男、礼二郎!?】

 浮気とはなんなのか?


 答えは、『人による』だ。

 異性とふたりきりになっただけで浮気と見なす人もいる。

 キスまでは浮気ではないという人もいる。

 そして驚くべき事に、身体の関係でさえも浮気ではないとする人もいるのだ。


 礼二郎は考えてみた。

 かりそめの恋人、菊水こず枝を、である。

 こず枝が、男子とふたりで、買い物に出かけたとする。

 むっ、多少モヤモヤするな。だが、ギリで許せる。


 他の男とのキスは?

 ……ダメだ。吐きそうなくらい辛い。

 もしセレスが他の男と……。

 あぁ、死ねる。

 これは死ねるわ。


 そして今の状況である。

 礼二郎はアッパーな街にある、オシャレ極まりないオープンカフェで、楽しく超高級珈琲を飲んでいたはず。

 それも、きれいな年上のお姉さんと一緒にだ。正確に言うと礼二郎の中身は31歳のオッサンであるからして、この女性は年下になるわけだが。


 確信が持てなかったが、どうやらこれはデートでらしい。


 デート……。だがセーフだ。礼二郎基準では、ギリ浮気ではない。

 多少心苦しいが、浮気ではない。

 だが、事態は一変した。


 佐々木春香の彼氏と名乗る男性の出現によってだ。


 つまり礼二郎は正式な彼女もいないチェリーにもかかわらず、間男となったわけだ。

 大変不名誉な称号である。

 いくら礼二郎がこのデートを浮気ではないと思っていても、この自称彼氏が浮気だと判断すれば、礼二郎は晴れて浮気相手ということになる。

 いわば、第三機関による公正な浮気判定でクロとなるのではなかろうか。


 現在、その男性は(手袋をしたままなのがすこし気になったが)にこやかに手を差し伸べている。

 ぱっと見、和やかな空気を纏ってはいるが、内心はらわたが煮えくりかえっているかも知れない。

 ここは間男らしく、早々にドロンするべきだろうか?


「どうも、大萩礼二郎と言います。春香さんとは、ちょっとした知り合いでして……」


 礼二郎は座ったまま男の握手に応じた。


(ん?)


 礼二郎の手を握る男の手が徐々に力を増していく。

 カルシウムの足りない人なら折れてもおかしくないほどの力だ。


(やはり怒っているのか……。これは謝罪して立ち去るべき……む?)


 ギリギリと手を握られながら、礼二郎は立ち上がっている春香を見た。


「よくも……よくもそんなことを……」


 春香は両拳を震えるほど握りしめ、全身をわななかせている。


「彼氏ですって! あなたとは終わりだと言ったはずよ!」


「おいおい、俺はそんなの認めないぞ。だいたいメールでハイサヨナラなんてさみしすぎるだろう。別れるなら直接会って言うのが礼儀じゃないのか?」


 男が顔だけ春香の方を向いて言った。

 礼二郎の手に力を込めたまま。

 ふむ、男の言い分はもっともだな、と礼二郎は思った。


「礼儀……礼儀ですって?」春香の声が低く響き渡った。

「手袋を取ってみなさいよ」


「春香、話を……」


 男はなにか後ろ暗いことがあるのか、少し焦った表情になり、春香の方へ身体をむけた。

 おかげで礼二郎の手は解放された。

 もっともなんのダメージもないのだが、どうリアクションするべきか悩んでいたのでホッと安堵の息を吐いた。


「いいから取りなさい!」


 春香の怒りに当てられ、男は渋々といった感じで手袋を外した。

 その左手の薬指には指輪が。

 つまりこの男は……。


「やっぱり、結婚してたのね。礼儀というなら、交際前に結婚してることを言うのが礼儀じゃないの?」


 うっ! なぜか礼二郎のほうが胸を押さえた。

 耳が痛いとはこのことか。

 彼女がいるにもかかわらず年上のお姉さんとデートをしている礼二郎。

 この男のことを責める資格が礼二郎にあるだろうか。いや、ない。

 それにしても、これはいわゆる不倫である。

 なんともアダルトな関係だ。


 チェリーの礼二郎にはよくわからない事情でもあるのだろう。

 なので礼二郎はこの場では空気になることにした。

 さしあたって、今朝のことでも考えてみよう。


「いや、たしかに言わなかったのは悪かった。でも俺は本気だったんだ」


「本気ですって!? じゃあ奥さんとは別れるつもりだったって言うの?」


 昨夜、警戒していたにもかかわらず、ロリは礼二郎の布団に忍び込んでこなかった。

 おかげで久しぶりにぐっすりと眠ることが出来た。


「いや……別れる別れないの話は、その……」


「結局わたしとは遊びだったってことじゃない!」


 目が覚めて、礼二郎は驚いた。

 リビングでロリと、礼二郎の愚妹である加代が仲良くご飯を食べていたからだ。

 そしてロリは加代のことを『加代ちゃん』と呼ぶようになっていた。

 それまで『加代様』と呼んでいたのに、一体何があったのだろうか?


「とにかくあなたとはもう終わったの! いえ、始まってすらいなかったのよ!」


「春香、考え直してくれ。俺はおまえのことが……」


 加代が学校に出かける際、ロリは泣きそうな顔になっていた。

『もう、ロリちゃんったら、すぐに帰ってくるから泣かないの。12時には戻るから一緒にお昼を食べましょ』

『……うん。いってらっしゃい、加代ちゃん』

 そう言ってロリは加代に、ギュッと抱きついたのだった。


「しつこいわね! 今の状況がわからないの? わたしには礼二郎君がいるのよ!」


「はぁ? この子供がなんだって? 冗談だろ?」


 ん? なにやら雲行きが怪しくなってきてるぞ?

 礼二郎は意識を現実に戻してみた。


「冗談ですって? あなたと付き合う方がよっぽど冗談だわ」


「するとなにか? 俺がこの小僧に劣ってるとでも言うつもりか?」


 男が親指で礼二郎を指さす。

 少しムカッとしたが、間男が口を出すと収拾がつかなくなるので、黙って珈琲を飲む。

 はぁ、それにしても、なんてうまい珈琲だ。


「あはは、比べるまでもないわ」


「そうだろう。こんな子供と俺が……」


 比べる? そうだ、最初に飲んだキリマンジェロと比べてみよう。

 少し、このジャバの方が酸味があるような気がする。

 しかし、程よい苦みとの相性が良く、鼻に残る風味も心地よい。

 かといってキリマンジェロのスタンダードな旨さも侮れない。

 どちらに軍配を上げるべきか。

 大変悩ましい問題である。


「比べるまでもなく礼二郎君の方が上だって言ってるのよ!」


「なんだと! もう一度言ってみろ!」


 男がテーブルを叩き立ち上がった。

 礼二郎は春香の前にあるキリマンジェロをもう一度飲みたかったが、そんなことを言える雰囲気ではなさそうだ。


「何度でも言ってやるわよ! あんたなんかより礼二郎君のほうが男として何倍も魅力的だわ!」


 春香もたちあがり、迷いのない口調で叫んだ。

 周囲の客がその言葉を聞き、ヒソヒソ話をしている。

 クスクスと笑っている人もいる。

 

 それに気付いた男は顔を真っ赤にして「この(あま)!」手を振り上げた。


「おっと」

 礼二郎は男の振り上げた右手を掴んだ。

「ちょっと落ち着きましょう。さすがに暴力は……」


「くっ、このガキが!」


 男の怒りが礼二郎に向く。

 左手で殴りかかってきた。

 ゆっくりと近づく拳を眺めつつ、礼二郎は悩んだ。


(さて、どうしたものか? 様式美として、間男の僕は殴られてしかるべきであろう。だがこの場合はどうだろう? どうも、春香さんはこの男を彼氏と認めてはいないらしい。なのに、この男は彼氏だと言い張っている。つまりこの男は妄想壁のあるストーカーの類いではないだろうか? ストーカーに殴られるいわれはない。ならよけるべきか? うーん、よけたらよけたで、さらに男の頭に血が上るにちがいない。……仕方ないな。場を丸く収めるために一発殴られるとしよう。ん? 考えてみると僕はこの一週間で何人から殴られた? 初日の春香さんを襲っていた暴漢からは殴られてないとして、まず兄ちゃんに殴られ、刑事さんに殴られ、不良ふたりに殴られ、イライア師匠の蛇から噛みつかれ……。最後のはいいとして殴られすぎじゃないか? 僕がなにか悪いことをしただろうか? ……ふっ、師匠やセレスそれにロリやシャリーの気持ちを考えると殴られて当然かもしれんな。よし! さぁ、バッチこいやー!)


 ガッ! 礼二郎の右頬に男の拳が食い込んだ。

 あえて少しダメージを受けつつ礼二郎は尻餅をついた。

 その体勢で見上げると、男は冷静になり自分のしでかしたことに気付いたのか、青い顔になっていた。


「お客様!」


 さすがに暴力沙汰を見逃すわけには行かず、イケメン店員が駆け寄ってきた。


「と、とにかく俺はあきらめないからな!」


 男はそう言うと、逃げるように店から飛び出していった。


「礼二郎君!」


 ダッ! 春香が駆け寄り、礼二郎の前に膝をついた。。


「あぁ、なんてことなの……。ごめんなさい。わたしのせいで……。ごめんなさい、礼二郎君……」


 春香が殴られた礼二郎の頬に手を当て、ポロポロと涙をこぼした。


「気にしないでくれ。僕は殴られて当然の行いをしてきたんだ。それより……」


「それより……なんなの?」


 春香が泣きはらした目で礼二郎を見つめた。


「それより残りの珈琲を飲まないか?」


 礼二郎がニコリと笑った。


「もう、礼二郎君ったら……」


 春香も頬を赤らめながら、笑った。

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