第52話 【ファーストキス】★
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~10分後~
【2019年1月24日同日(水)午後8:50 大萩家近くの公園】
「主殿、監視の目は大丈夫だろうか? それに、ここは……」
セレスが言った。
その声は隠しきれない緊張を帯びている。
「大丈夫だ。どうやら“隠密の魔術”が効いたらしい。ここは公園と言って、昼間、子供が遊ぶ場所だ」
礼二郎の心臓は早鐘を打っていた。
これからセレスに問いかける質問の内容が内容だけに、緊張している。
セレスの首筋や唇を見ると、心臓がさらに鼓動を強くした。
ならば見なければいい。
だが礼二郎は、どうしても見てしまう自分を止められないでいた。
「子供のために、こんな立派な施設を!? あ、あれはなんだ!? あれはどうやって使うのだ!?」
セレスが、緊張を、そして礼二郎の熱い視線を誤魔化すように、ブランコを指さした。
「セレス、聞きたいことがある。とても大事なことだ」
ブランコの横に立ち、礼二郎が言った。
キィ……キィ……。
ブランコに腰を下ろすセレスは、初めての遊具に苦戦していた。
礼二郎は、その背中を押そうとして、止めた。
この女性には手を触れてはならない、と本能が告げたからだ。
「こ、これは楽しいな! 主殿……その前に、わたしの話を聞いてくれ」
キィキィ……。
やがてブランコの動きが安定した頃、セレスが言った。
礼二郎はブランコの鎖に一定のタイミングで力を加え、振り子運動を助けた。
「そう言えば師匠が言ってたな。僕に話したいことがあるんだって?」
「イライア殿が? そうだ。わたしは謝らなくてはならないのだ。主殿、申し訳なかった……。こ、こんな状態で言う話じゃないかもしれんが」
キィキィ……。
「……僕を叱ってくれた――あのときのことか?」
「あぁ……。あのときわたしは、主殿を責め立てた。ロリとシャリーの名前を出して、主殿を罵倒したのだ」
キィキィ……。
「セレス……。それは当然のことだ。それだけのことを、僕はやってしまったんだ。気にする必要は……」
「違う!」
キッ……。セレスはブランコを止め、座ったまま礼二郎を見上げた。
「悔しかったのだ。わたしが悔しかったのだ。、わたしなんだ。あのときわたしは、わたしの気持ちを、主殿にぶつけたのだ。ロリやシャリーを使って……」
「セレス……」
「わたしは卑怯者だ。さも、ロリやシャリーを想うふりをして、自分の気持ちを吐き出したのだ……。わたしを捨てようとする主殿が憎かった……。主殿には主殿の考えがあったのだ。なのに、それを知ろうともせずに一方的に……。主殿、申し訳なかった!」
セレスがブランコから立ち上がり、頭を下げた。
ざわ……。
礼二郎の心にさざ波が立った。
そして数秒後、顔を上げたセレスを、街灯の光が、月の明かりが照らした。
金色の髪と緑の目がキラキラと輝く。
トクン……。
礼二郎の心臓が静かに、だが強く脈打った。
「きれいだ……」
礼二郎が呟いた。
自然に、魂から溢れ出た言葉だった。
考える間もなく、右手がセレスの頬を包む。
柔らかな肌に触れた瞬間、なぜ本能がこの女性に触れるのを避けていたのか理解した。
トクン、トクン……。
それは引き返せなくなるからだ。
瞬きも忘れ、相手の目を見つめる。
礼二郎はもう引き返せない。
引き返すつもりも、ない。
「え……? あるじど……」
セレスの潤った唇は言葉を、止めた。
緑の瞳に一瞬だけ戸惑いの影が浮かび――すぐに消える。
頬に当たった礼二郎の温かい手。
その手にセレスは自分の手を重ねた。
まっすぐに礼二郎の視線を受け止めたままで……。
礼二郎は左手をセレスの腰に当て、やさしく引き寄せた。
抵抗はなかった。
ゆっくりと、自然にふたりの距離はゼロになる。
ふわり……。甘い匂いが礼二郎を包み込んだ。
トクン……トクン……。
セレスがそっと目を閉じる。
「セレス……」
礼二郎が唇を近づけ――止めた。
セレスの熱く白い吐息が、礼二郎のそれと混ざり合う。
あと数センチ――その距離がどうしても進めなかった。
どうしても……。
そのとき、セレスが目を開け、そして――
「ん……」
――その途方もない数センチを……いや、二人が出会って三年の時間を、セレスがひょいと跳び越えた。
その瞬間、礼二郎は唇の感覚が世界のすべてとなった。
(なんだ……? なんなんだ、これは……)
衝撃が脳を突き抜ける。
温かく、柔らかく、そしてとんでもなく熱い唇。
その唇から膨大な情報が流れ込んできた。
イライアの情熱的なキス。
ロリのあどけないキス。
シャリーの爽やかなキス。
こず枝のぎこちないキス。
その、どれとも違った。
形容する言葉が見つからなかった。
だが礼二郎は確信した。
(僕はこの瞬間のために、生まれてきたんだ……)
礼二郎は劣情を感じなかった。
不思議なことに、そういった感情は一切湧き起こらない。
今ここにあるのは、魂が震えるほどの感動だった。
そして……礼二郎は、まるでずっと失われていた半身を手に入れたような、達成感、到達感を得ていた。
(こんな……これほどのものが、この世にあるのか……)
――永遠とも、一瞬とも思える時間が過ぎ、ふたりはふたりへと戻った。
「セレス……どうして泣くんだ?」
礼二郎は答えのわかっている質問を投げかけた。
わかっていても聞かなければならない。
尋ねること。
それが大事な儀式の一環だ。
誰に教えられることなく、それがわかった。
「主殿こそ……」
セレスも同じ質問をした。
礼二郎がすべてわかっていることなど、セレスは理解している。
そしてセレスが理解していることも、礼二郎はとっくに知っているのだ。
「はは……」 「ふふ……」
ふたりは互いの質問に答えを与えることなく、涙を流し、笑った。
そして強く強く抱きしめた。
「セレス、ずっとこうしたかった」
もどかしかった。
どうしてふたりの身体は別々なのだろう。
「主殿、わたしもだ。……あの日のことを覚えてる?」
「覚えてるよ。僕は花束を持って、君の部屋へ行ったんだ」
「ずっとあなたを待っていた……。ずっと……今までずっとよ……」
「ずっと君を探していた……。ずっとだ……生まれてからずっと……」
「こず枝殿がいるのに……悪いひとね……」
「セレス……。こず枝とは……」
そのときセレスの指が、礼二郎の唇を止めた。
「今は言わないで……。抗えないわたしも同罪なの……」
身体を離さないまま、ふたりは再び見つめ合った。
「そ、そう言えば、主殿の聞きたいこととは、なんなのだ?」
セレスが、ここへ来た理由を思い出し、いつもの口調へと戻った。
「いいんだ……。もういいんだ」
【セレス、君が僕を好きになったのは、僕のスキルのせいでは……】
それが礼二郎が聞かなければならない質問だった。
それは聞きたくない質問でもあった。
だがもう必要なかった。
答えは先ほどのキスで十分だ。
礼二郎は、まっすぐ目の前の瞳を見つめている。
セレスも、その瞳を見つめ返している。
まるで見えない力で固定されているように、ふたりは見つめ合った。
「そ、そうか。さ、さっき、わたしから、その……き、キスをしたのは、みんなと約束したからなのだ! 主殿と再び会えたら……ん」
礼二郎は、その言葉を、唇を塞いだ。
ファーストキス。
初めて礼二郎が、己の意思で奪ったキスだった。
『僕には幸せになる権利なんてない』
礼二郎はその戒めを、自らの手で破った。
「もう……」
顔を離したセレスが、咎めるように、甘えるように言った。
「わるいひと……ん」
そして今度はセレスから……。
それからもふたりは、時間を忘れ、なんども、なんどもキスをした。
キィキィ。
抱き合う二人の横で、主のいないブランコが微かな音を立てた。




