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第52話 【ファーストキス】★


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 


 

 ~10分後~

 

【2019年1月24日同日(水)午後8:50 大萩家近くの公園】

 


「主殿、監視の目は大丈夫だろうか? それに、ここは……」


 セレスが言った。

 その声は隠しきれない緊張を帯びている。


「大丈夫だ。どうやら“隠密の魔術”が効いたらしい。ここは公園と言って、昼間、子供が遊ぶ場所だ」


 礼二郎の心臓は早鐘を打っていた。

 これからセレスに問いかける質問の内容が内容だけに、緊張している。

 セレスの首筋や唇を見ると、心臓がさらに鼓動を強くした。

 ならば見なければいい。

 だが礼二郎は、どうしても見てしまう自分を止められないでいた。


「子供のために、こんな立派な施設を!? あ、あれはなんだ!? あれはどうやって使うのだ!?」


 セレスが、緊張を、そして礼二郎の熱い視線を誤魔化すように、ブランコを指さした。




「セレス、聞きたいことがある。とても大事なことだ」

 

 ブランコの横に立ち、礼二郎が言った。

 

 キィ……キィ……。

 

 ブランコに腰を下ろすセレスは、初めての遊具に苦戦していた。

 礼二郎は、その背中を押そうとして、止めた。

 この女性には手を触れてはならない、と本能が告げたからだ。

 


「こ、これは楽しいな! 主殿……その前に、わたしの話を聞いてくれ」


 キィキィ……。


 やがてブランコの動きが安定した頃、セレスが言った。

 礼二郎はブランコの鎖に一定のタイミングで力を加え、振り子運動を助けた。




「そう言えば師匠が言ってたな。僕に話したいことがあるんだって?」


「イライア殿が? そうだ。わたしは謝らなくてはならないのだ。主殿、申し訳なかった……。こ、こんな状態で言う話じゃないかもしれんが」


 キィキィ……。

 

「……僕を叱ってくれた――あのときのことか?」


「あぁ……。あのときわたしは、主殿を責め立てた。ロリとシャリーの名前を出して、主殿を罵倒したのだ」


 キィキィ……。


「セレス……。それは当然のことだ。それだけのことを、僕はやってしまったんだ。気にする必要は……」


「違う!」


 キッ……。セレスはブランコを止め、座ったまま礼二郎を見上げた。


「悔しかったのだ。わたしが悔しかったのだ。、わたしなんだ。あのときわたしは、わたしの気持ちを、主殿にぶつけたのだ。ロリやシャリーを使って……」


「セレス……」


「わたしは卑怯者だ。さも、ロリやシャリーを想うふりをして、自分の気持ちを吐き出したのだ……。わたしを捨てようとする主殿が憎かった……。主殿には主殿の考えがあったのだ。なのに、それを知ろうともせずに一方的に……。主殿、申し訳なかった!」


 セレスがブランコから立ち上がり、頭を下げた。

 ざわ……。

 礼二郎の心にさざ波が立った。

 そして数秒後、顔を上げたセレスを、街灯の光が、月の明かりが照らした。

 金色の髪と緑の目がキラキラと輝く。


 トクン……。

 

 礼二郎の心臓が静かに、だが強く脈打った。


「きれいだ……」


 礼二郎が呟いた。

 自然に、魂から溢れ出た言葉だった。

 

 考える間もなく、右手がセレスの頬を包む。

 柔らかな肌に触れた瞬間、なぜ本能がこの女性に触れるのを避けていたのか理解した。

 

 トクン、トクン……。


 それは引き返せなくなるからだ。 


 瞬きも忘れ、相手の目を見つめる。

 礼二郎はもう引き返せない。

 引き返すつもりも、ない。


「え……? あるじど……」


 セレスの潤った唇は言葉を、止めた。

 緑の瞳に一瞬だけ戸惑いの影が浮かび――すぐに消える。

 頬に当たった礼二郎の温かい手。

 その手にセレスは自分の手を重ねた。

 まっすぐに礼二郎の視線を受け止めたままで……。

 


 礼二郎は左手をセレスの腰に当て、やさしく引き寄せた。

 抵抗はなかった。

 ゆっくりと、自然にふたりの距離はゼロになる。

 ふわり……。甘い匂いが礼二郎を包み込んだ。


 トクン……トクン……。


 セレスがそっと目を閉じる。


「セレス……」

 

 礼二郎が唇を近づけ――止めた。

 セレスの熱く白い吐息が、礼二郎のそれと混ざり合う。

 

 あと数センチ――その距離がどうしても進めなかった。

 どうしても……。

 

 そのとき、セレスが目を開け、そして――


「ん……」


 ――その途方もない数センチを……いや、二人が出会って三年の時間を、セレスがひょいと跳び越えた。


 その瞬間、礼二郎は唇の感覚が世界のすべてとなった。

 

(なんだ……? なんなんだ、これは……)


 衝撃が脳を突き抜ける。

 温かく、柔らかく、そしてとんでもなく熱い唇。

 その唇から膨大な情報が流れ込んできた。

 

 イライアの情熱的なキス。

 ロリのあどけないキス。

 シャリーの爽やかなキス。

 こず枝のぎこちないキス。


 その、どれとも違った。

 形容する言葉が見つからなかった。

 だが礼二郎は確信した。


(僕はこの瞬間(とき)のために、生まれてきたんだ……)


 礼二郎は劣情を感じなかった。

 不思議なことに、そういった感情は一切湧き起こらない。

 今ここにあるのは、魂が震えるほどの感動だった。

 そして……礼二郎は、まるでずっと失われていた半身を手に入れたような、達成感、到達感を得ていた。


(こんな……これほどのものが、この世にあるのか……)


 ――永遠とも、一瞬とも思える時間が過ぎ、ふたりはふたりへと戻った。


「セレス……どうして泣くんだ?」

 

 礼二郎は答えのわかっている質問を投げかけた。

 わかっていても聞かなければならない。

 尋ねること。

 それが大事な儀式の一環だ。

 誰に教えられることなく、それがわかった。


「主殿こそ……」

 

 セレスも同じ質問をした。

 礼二郎がすべてわかっていることなど、セレスは理解している。

 そしてセレスが理解していることも、礼二郎はとっくに知っているのだ。


「はは……」 「ふふ……」


 ふたりは互いの質問に答えを与えることなく、涙を流し、笑った。

 そして強く強く抱きしめた。


「セレス、ずっとこうしたかった」


 もどかしかった。

 どうしてふたりの身体は別々なのだろう。

 

「主殿、わたしもだ。……あの日のことを覚えてる?」


「覚えてるよ。僕は花束を持って、君の部屋へ行ったんだ」


「ずっとあなたを待っていた……。ずっと……今までずっとよ……」


「ずっと君を探していた……。ずっとだ……生まれてからずっと……」


「こず枝殿がいるのに……悪いひとね……」


「セレス……。こず枝とは……」


 そのときセレスの指が、礼二郎の唇を止めた。


「今は言わないで……。抗えないわたしも同罪なの……」


 身体を離さないまま、ふたりは再び見つめ合った。


「そ、そう言えば、主殿の聞きたいこととは、なんなのだ?」


 セレスが、ここへ来た理由を思い出し、いつもの口調へと戻った。


「いいんだ……。もういいんだ」


【セレス、君が僕を好きになったのは、僕のスキルのせいでは……】


 それが礼二郎が聞かなければならない質問だった。

 それは聞きたくない質問でもあった。

 だがもう必要なかった。

 答えは先ほどのキスで十分だ。


 礼二郎は、まっすぐ目の前の瞳を見つめている。

 セレスも、その瞳を見つめ返している。

 まるで見えない力で固定されているように、ふたりは見つめ合った。


「そ、そうか。さ、さっき、わたしから、その……き、キスをしたのは、みんなと約束したからなのだ! 主殿と再び会えたら……ん」


 礼二郎は、その言葉を、唇を塞いだ。

 ファーストキス。

 初めて礼二郎が、己の意思で奪ったキスだった。


『僕には幸せになる権利なんてない』

 

 礼二郎はその戒めを、自らの手で破った。

 

「もう……」


 顔を離したセレスが、(とが)めるように、甘えるように言った。


「わるいひと……ん」

 

 そして今度はセレスから……。

 

 それからもふたりは、時間を忘れ、なんども、なんどもキスをした。


 キィキィ。


 抱き合う二人の横で、主のいないブランコが微かな音を立てた。

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