第102話 【ハンバーグ】
「加代ちゃんが……」
頭の中が真っ白になり、葉子は呟いた。
『――では、そちらにお邪魔していないんですね』
「あ……は、はい……。あの、加代ちゃんに電話は……」
『電話もメールも繋がらないんです。――葉子さん、何かご存じないですか? 心当たりとか』
「電話が……あの、これは、関係ないかも知れませんけど」
『どんなことでも構いません。お願いしますッ』
「は、はいッ。――今日、学校周辺に不審者がうろついていると通報があったんです。実際、友達と帰っているときに、怪しい車を見かけました」
『怪しい車……。どんな車か覚えていますか?』
「あ……、ちょ、ちょっと待ってくださいッ」
言って立ち上がり、葉子は壁に掛けたコートのポケットから、カヨッペの手紙を取り出した。
「車のナンバーを控えています。○○〝わ〟の3874です。白いワンボックスカーでしたッ。乗っていたのは若い男二人です。その……少し怖い感じの……」
葉子が言うと、電話の向こうから小さな声がした。
お兄さんが誰かと話しているようだ。
〝サナ〟とか〝わかるか?〟とか言っている。
相手の声は聞こえない。
「警察には……」
葉子の問いに、焦ったふうな声が答えた。
『ありがとうございます。葉子さんのおかげで、なんとかなりそうです。――急ぎますので、いったん失礼します』
「あ、あの……」
すでに電話は切れていた。
立ったまま、だらりと腕が下がる。
カヨッペはどこにいるのか。
無事なのか。
お兄さんはどうやって相手の車を探すのか。
ぐるぐる思考が廻る。
あまりの事態に、頭が追いつかない。
暫くの後、ハッと我にかえり、携帯を覗き込む。
〝RINE〟アプリを起動し、変顔をした加代のアイコンをタップする。
三学期が始まる前日のやり取りが、画面に浮かぶ。
もう、ずいぶん昔のことのよう。
葉子は迷わず、文字を打った。
【カヨッペ、無事なら返事して! お願い!】
ベッドに座り、そして待った。
だが、いつまで経っても〝既読〟はつかない。
「カヨッペ、返事してよ……」
呟いたとき、握りっぱなしだった手紙に気づいた。
汗でしっとりとした紙を開いて、目を落とす。
【じゃあ、また明日! 変態さんに掴まらないようにねッ!
PS:わたしは走って逃げるから心配無用! なんたって陸上部なんだからッ!】
そう書かれた箇所を読み、想像した。
走って逃げるカヨッペの姿を。
そして、暴漢にあっけなく掴まるカヨッペの姿を。
もし、そうなったら……。
葉子の全身がブルブル震える。
「鈍足のあんたが、走って逃げ切れるわけないじゃない、バカヨッペ……」
呟いたとき、葉子は違和感を感じた。
言葉通り、葉子の知っているカヨッペは、足が遅い。
それも、とんでもなく遅かった。
恐らくクラスで一番足が遅いのは、カヨッペだ。
なのに、〝陸上部〟?
ひとつの疑問を呼び水に、次々に謎が湧き上がる。
いつ、どうして、カヨッペは陸上部に入ったのか?
どうして、カヨッペの席は、〝窓際最後尾〟に決まっているのか?
どうして〝塩田トメ子〟は、カヨッペにちょっかいをかけるのか?
どうして、葉子達三人は、〝トメ子〟を憎みきれないのか?
そして、一番の謎は、〝どうして、みんな、この違和感に気づかないのか?〟だ。
――こんな不思議なことを、なんで……。
そこまで考えたとき、また違和感が湧き上がった。
記憶が、急速に薄れている?
いったいなにが……。
まるで、目が覚めた瞬間に、夢で見た出来事を忘れていく感覚だった。
――えっと、なにを考えてたんだっけ?
気づいたときには、すっかり忘れていた。
今では、なにかを疑問に思っていたと、ボンヤリ感じるくらいだ。
釈然としないモヤモヤが胸を覆う。
だが、今考えるべきことは、カヨッペの安否だ、と葉子は頭を振った。
もしかしたら、〝豚の美沙〟や〝樹利亜先輩〟が関係しているのだろうか。
それを、お兄さんに伝えるべきか。
――いえ、ダメよッ、それだけはしちゃダメッ。
お兄さんは、妹思いなことで有名だ。
もし、カヨッペの現状を知れば、どうするか。
失踪の件が片づいたとしても、間違いなく、お兄さんは学校へ乗り込んでくる。
そうなれば、タダでは済むまい。
最悪、お兄さんが殺されてしまう。
それを恐れて、カヨッペはイジメの件を、お兄さんに言っていないはずだ。
なら、わたしにできることは……と葉子は悩んだ。
なにも思いつかないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
こんなとき、今話題の〝ヒーロー〟が来てくれたら……。
時計を見る。
いつの間にか、午後9時を廻っていた。
携帯を見る。
〝RINE〟の既読は……ついていない。
「カヨッペ、どこにいるの……」
ギュッと携帯を握りしめ、呟いた。
そのときッ! 画面が切り替わり、着信音が鳴り響いた。
危うく携帯を落としそうになった葉子は、画面の文字を見た。
先の番号――お兄さんだ。
「――もしもしッ、葉子ですッ! 加代ちゃんはッ?」
立ち上がり、叫んでいた。
心臓の音がうるさいくらい聞こえる。
――お願いッ……お願いします。どうか、カヨッペを……。
『――もしもし、加代は無事です。今、家でご飯を食べています。……もしもし? 葉子さん?』
聞き、葉子はヘタヘタと床に崩れ落ちていた。
はぁ、と深い安堵の息を吐き、ようやく返事ができた。
「よかった……本当によかった……」
『葉子さんのおかげです。ほんとうにありがとうございました。そして、ご心配をお掛けしました。――加代の携帯は壊れたらしくて、よかったら、この携帯から電話させましょうか?』
お兄さんの優しい言葉に、葉子の胸は激しく痛んだ。
カヨッペと話をしたかった。
でも、カヨッペは、決して電話をしないだろう。
そうなれば、お兄さんに怪しまれて、事情を知られてしまうかもしれない。
「いえ……あの、お兄さん、実は……」
葉子の声はそこで止まった。
――実は、加代ちゃんはいじめられてて、
――実は、わたし達は加代ちゃんと接触を禁止されてて、
そう言いたかった。
でも言えなかった。
言い淀む葉子に、
『……ここ最近、加代の携帯に誰からも連絡が無いことと、関係があるんですね?』
「ど、どうして……?」
わかるんですか、の言葉を葉子は呑み込んだ。
『そのことを、葉子さんは僕に言えないんですね? ――加代も、ずっと僕に言えないでいたんですね?』
「……はい」
『なるほど……事情はわかりました。――もう大丈夫です』
「だい、じょうぶ……? どう言う意味ですか?」
『僕はなにも聞いていません。これから先、聞くこともないでしょう』
「……え?」
葉子は、安心したような、ガッカリしたような気分になった。
お兄さんは事情を理解していた。
その上で、妥当な判断を下したのだ。
もう、お兄さんの身に危険が及ぶことはない。
大丈夫とは、そう言う意味だったんだ。
これは、葉子の、そしてカヨッペの望んでいることだった。
でも……と葉子は思う。
でも、カヨッペのイジメはなくならないんだ。
でも、明日大好きな親友に会っても、おはようの挨拶すらできないんだ。
そう落ち込んだとき、信じられない、耳を疑う言葉が聞こえた。
『でも、約束しましょう。近いうちに――早ければ明日にでも、問題は解決します』
お兄さんが断言した。
その声は、言葉は、どうしてだか信頼できた。
またカヨッペと笑い合うことが――お弁当を一緒に食べることができる。
そんな幸せな未来を確信させる力が、お兄さんの言葉にはあった。
でも、どうやって?
混乱する葉子に、お兄さんは、言った。
『葉子さん、加代の友達でいてくれて、ありがとう』
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
葉子の部屋のドアから、強めのノックが聞こえた。
『ヨーコ、入るわよ』
返事を待たずに、母親が入ってきた。
葉子はベッドの中で布団にくるまっている。
そのベッドへ母親が腰を下ろし、溜息をついた。
「お弁当のおかずだけどね……」
母親の言葉に、葉子は上体を起こした。
母親が、ギョッというふうに目を見開く。
どうしたの、という母親の言葉を、葉子は抱きつき、遮った。
「――おがあざんッ! おがあざんッ! うわぁぁぁぁぁん!」
涙でぐしゃぐしゃな顔を、葉子は母親に押しつけ、泣いた。
――ごめんなさい……。
泣きながら、心の中でお兄さんに、そしてカヨッペに謝った。
――わたしはカヨッペの友達でいる資格なんてないんです……。ごめんなさい……。ごめんなさい……。
「……バカな子だねえ。なにも泣くことないじゃない。お弁当は、なんとかしてあげるから、泣かなくていいんだよ」
誤解した母親が、葉子を抱きしめた。
どうやら、お弁当が豪華になるらしい。
葉子は、母親に誤解させたまま泣き続けた。
そして、嗚咽が落ち着いた頃。
「――なにかリクエストはある?」
頭を撫でてくれる母親に、
「ヒック……大きなハンバーグ……」
ちゃっかり言ったのだった。




