思ふ心は 花曇り 四の一
四
抜けるように青い空が広がっていた。
花の甘い香りを含んだ風は、心地よい冷たさで吹き抜けていく。
花見には申し分ない程の快晴だ。
「姉上と花見にゆくのは初めてです」
時定の高い声が、ごとり、ごとり、と進む牛車の中から聞こえてくる。牛車の前を歩いていた橘が、時定をたしなめようと近づいた。
「時定様。あまり羽目をお外しになりませぬよう」
「む、橘。私とてそのぐらいは分かっておる」
簾を少し開けて反論する時定の頬は紅潮していて、見目にも興奮している事が分かる。余程、八重と外出する事が嬉しいのだろう。
「思いのほか、大所帯になってしまったな」
満四郎が高遠の傍にやってきて小さな声で言う。
初めは高遠達の三人だけで花見に行こうと思っていたのだ。だがまず女房の橘に反対され、稽古をつけてもらおうとやって来た時定がついて行きたいと言いだした。そしてついには、六人と言う人数になってしまったのだ。
「まあ、仕方あるまい」
高遠は苦笑する。だが心なしか浮足立った橘の背を見ていると、来てよかったのだという気持ちになった。
「高遠は本当ならば二人でゆきたかっただろうに、残念だな」
高遠は目を剥いた。咳込みそうになるのをなんとかこらえて、満四郎を睨みつける。
「満四郎、お前はなんという事を言うのだ」
「なんとは何だ」
「とぼけるな。お前、俺が姫と二人でゆきたがっていると言ったではないか」
「はて、俺は二人、とは言ったが。姫様と二人、とは言っておらんな」
ぐっと高遠は言葉に詰まった。
確かに、満四郎は二人とは言ったが、姫とは一言も言っていない。どうやら満四郎の罠に引っ掛かったようだった。
うまい言葉が浮かばず、諦めて高遠は長く息を吐いた。してやったり、という顔をした満四郎が気に入らないが。例え何か言った所で奴を面白がらせるだけだろう。先ほどよりも長い息をもう一度吐いていると、牛車がごとり、と止まった。
いつの間にか道は狭まり、牛車では通れなくなっている。
簾を上げて、八重はためらわず土の上に降りた。ならうように時定も牛車を降りる。道の先は森が深くなっているせいか、少し暗い。だが、八重の足取りに迷いは無かった。橘と梅にも特に迷いは無いらしく、何も言わず八重の後についていく。時定だけが、少し不安そうにしていた。
森の中には時折、人が入っているらしい。しっかりと道が出来ており、歩くのに苦労する事は無かった。
草木の、濃い青々とした匂いが満ちていた。苔の生えた石がちらほらと点在し、背の低い草が大地を覆っている。その上を、高い木々の葉が揺れる度、ちらちらと陽の光が踊っていた。道から外れた場所には濃い影になっている所もある。なのにそれすらも美しいと感じさせる、不思議な森だった。森自体に命が宿っているような。もしここに神が坐のだと言われても、疑問にも思わないだろう。
高遠にとってこの森は、初めて来る場所のはずだった。だが何故だろうか。空を覆い茂る、葉の隙間から見える青い空に。命の息吹が満ちた苔や草木に。高遠の中にある記憶が揺さぶられる。
しばらく八重を先頭に歩いて行くと、道の先に明るい光が見えて来た。
その道の先に足を踏み入れて、八重以外の全員が感嘆の声を上げる。
高遠は、信じられない気持だった。
視界を埋め尽くす、今にも零れ落ちそうな程に咲き誇った満開の桜。
抜けるように青く、雲ひとつない澄んだ空。
むせ返るほどの、甘い桜の香り。
天国かと見紛う程に美しい場所。
見間違えるはずなどない。
「ここは」
八重と高遠が初めて出逢った場所だ。
「どうした高遠」
訝しむ満四郎の声にはっとする。
「や、なんでもない」
まさか、という思いが湧いてくる。
八重は自分と会った日の事を覚えているというのか。
高遠がこの場所に倒れていたのは、十歳になった頃。八重は八つだった。覚えているはずはないと思う。だと言うのに、期待している自分がいた。
満四郎はそれ以上何も聞かずに、橘達のもとへ行く。敷物を敷くのを手伝うらしかった。高遠も小さく頭を振ると、手伝うべく彼らのもとへ向かった。
桜雲。
まさにその言葉が当てはまるような光景が、眼下に広がっている。
高遠達は小高い丘の上に敷物を敷いて、弁当を広げていた。丘の上から見る桜達はまた美しさが違う。桜の群れがまるで空をたゆたう雲のように見えるのだ。風が吹くと桜雲はたなびき、その度に薄紅の花びらが数枚、空へ舞っていく。遠い国にあるという、桃源郷を思わせるような光景だった。
「これ、満四郎。お主、私の握り飯を喰ろうたであろう」
「はて、私には何の事か分かりかねまする」
「とぼけるでない!見よ!私の目の前にふたつあったはずの飯がひとつに減っておる」
「と、申されても、私には何のことやら。食べたと申されるならば、橘殿や梅殿も近くにおられまする」
「橘も梅も、そのような事はせぬ!」
「はて」
「満四郎、お主っ」
「時定様。握り飯一つでそのように騒がれるのはおやめくださりませ。はしたのうござります」
「だが橘」
「時定様。これも一つの試練にござりまする」
風情のある景色だが、見る側の会話には一欠片も風情が感じられない。だがどこか微笑ましいやりとりに、高遠の頬も緩む。意外だったのは、満四郎が子供の相手を得意としている様な所だった。あまり子供好きにも見えなかったが、人は見かけによらない物らしい。
食事を済ませた高遠は一人、太刀を自分の体に立てかけて敷物の端に座していた。頬を撫でていく風が気持ちいい。はらり、と花びらが空へ舞う。自分が死にかけていた場所に再び来ると言うのは、不思議な心持ちだった。あの時の記憶は八重と出会った事以外あやふやで、自分がどこに倒れていたのかも覚えていない。
「何を見ておるのじゃ」
八重は高遠のすぐ傍まで来ると、腰を下ろした。
「まるで雲の如き桜を見ておりました」
「そうか」
「美しい景色にござりますね」
「私には、よく分からぬ。じゃが……」
一度、八重は言葉を切る。高遠は桜に向けていた視線を八重に移した。
「高遠と来たい、と思うた」
強い風が吹き、風に乗って花びらが何枚も舞った。
「それは、なにゆえにござりますか」
八重も、桜へ向けていた視線を高遠へ移す。
「高遠と出逢うたのは、ここであろう」
高遠は瞠目した。花びらが雪のように舞っている。
まさか、という思いしかなかった。覚えているなどと思わなかったのだ。それでもよいとずっと思っていた。高遠が覚えていればそれだけで良かったのだ。例え八重が覚えていなくとも、高遠が覚えていればあの日の事が消える事は無い。
「覚えて、いらしたのですか」
「私が、忘れる筈も無いじゃろう」
「……私は、一度も忘れた事などありませぬ。あの日、姫が私を見つけて下さらなければ、今の私はおりませぬゆえ」
今、自分はどんな顔をしているだろうかと不安になった。胸に溢れた感情を隠すので精一杯だったのだ。それきり、互いに何も話さない。夜、二人で月を眺めている時と同じように、ただ景色を眺める。
「姫様。琵琶でもお弾きになられませぬか」
声をかけて来たのは橘だった。抱えた琵琶を八重へ差し出している。風はやんでいた。
「姉上が琵琶を弾かれるのですか」
橘の声を聞いたのだろう、時定の声が弾んでいる。
「琵琶、か」
「私も姫の琵琶が聞きとうござります。ぜひにも弾いてくださりませぬか」
「そうか」
八重は橘から琵琶を受け取ると、弾き始めた。
さざめく様な桜の揺れる音に、嫋嫋と琵琶の音が重なる。二つの音が溶け合って、一つの音色になっていくようだ。
高遠は目を閉じる。身を包む美しい音色に酔うのが、心地良かった。
二人に、明るい陽の光が差していた。
嫋。
嫋。
と、琵琶の音がたゆたう。橘は琵琶を弾く八重を見つめながら、微笑んでいた。
「宜しいのでござりますか」
声をかけられて、橘は振り返った。予想だにしていなかった、満四郎の真剣な眼差しを受けて橘の心臓が跳ねる。
「宜しいとは、いったい何の事でござりまする」
「高遠と、姫様の事にござります」
橘は目を伏せた。
「あれほど警戒心を顕わになされていたのに、今ではそのようなそぶりもありませぬ。いったい、どのような心境のご変化が?」
満四郎の言葉も、もっともだろうと思う。だが橘にとっては八重が全てなのだ。八重にとって、高遠の傍にいる事がよい方向に行くのであれば、橘に不満などない。
「姫様がよいと思われるのであれば、私もよいと思いまする」
「ですが、姫様は四日後には嫁がれるのです」
「……ええ。分かっておりまする」
橘は袖に隠した手を強く握りしめた。分かっているのだ、痛い程に。
八重は高遠を護衛にしてから、変わった。
どこが、と聞かれても答えられない。それでも確かに変わったのだ。以前の八重ならば花見に行こうなどとは思わなかっただろうし、ましてやここで琵琶を弾こうなどという事もしなかっただろう。
無表情で何にも関心を示さない。
人形の様な「鬼姫」。
だが、その八重が変わりつつある。それはずっと、皆が望んで来た事だった。それをどうして橘に止める事が出来ようか。
押しつぶされそうな感情を、叫んでしまいたい衝動に駆られる。深く息を吸い込んで、橘は青い空を見上げた。
嫋嫋と、八重の弾く琵琶の音が橘の感情を宥めるように響いていた。




