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思ふ心は 花曇り 三の一

   三


 男は一人、森の中を駆けていた。

 高い木々が生い茂っているせいで、月の光さえ届かない。辺りは黒々とした闇に沈んでいた。その中を、男は灯りすら持たずに駆け続ける。まるで何かに追われているかのようだ。

 駆け続けたせいで息が上がったのだろう。木に手をついて足を止めると、背後を窺った。だが、男の背後には黒々とした闇が広がるばかりだ。静寂が耳に痛い。男のごくりと飲み込んだ唾の音が、辺りに響いてしまうような錯覚さえ覚える。

 ふと、闇を睨んでいた男が息を飲む。ある筈の無い光景だった。闇がそろそろと男の足元に這い寄って来ていたのだ。男は恐怖に足が竦むのが分かった。だが、ここで闇に捕まる訳にはいかない。懐にしまった物を握りしめて、己に課せられた使命を思い出す。

 己の足を叱咤して、男は再び走り始めた。



 庭に風を切る音が聞こえている。

 高遠は汗を拭うと、再び木刀を構えた。空はすでに明け、山の端から太陽も見え始めている。それでも無心に木刀を振った。

 昨夜の、八重の後ろ姿が脳裏から離れないのだ。思い出す度に、自分でも理由の分からない焦燥が胸を満たす。どうする事も出来ない感情を、落ちつけようとしているのだと思う。


「もうそのくらいにしておいたらどうだ?」


 満四郎に声をかけられて、高遠はようやく素振りをやめた。乱れた息を整えるように、大きく息を吐きだす。振り返ると苦笑した。

 八重が縁に座して、高遠を見つめていたからだ。

 高遠に言われたからだろう、今日はちゃんと袿を羽織っている。こんなただの素振りを見て何が面白いのか分からないが、部屋に戻るように言っても八重は聞かないのだった。


「姫、そろそろ戻らねば橘殿が心配なさります」

「うむ」


 一つ頷くと、八重は立ち上がって自分の部屋へ戻っていく。八重の姿が消えると、満四郎が口を開いた。


「今日は随分と熱心だったな」

「……そういう日もある」


 それ以上、満四郎は何も言わなかった。高遠はあらかじめ用意しておいた、水を張った桶に布を(ひた)して汗を拭う。とても冷たいが、火照った体を冷ますには丁度良かった。

 着替えを済ませると、満四郎にしばらく八重の事を頼んで、高遠は道院のもとへ向かった。


「高遠ではないか」


 簀を歩いていた高遠に声をかけたのは、前からやってきた兼光だ。


「このような所で何をしておるのだ」

「兼光様。実は道院様にお聞きしたい事があり、部屋へ向かっている所でござります」

「なるほどの。だが、道院は夜が明けてすぐここを出立した」


 思ってもいない言葉だった。


「出立とは、道院様はいずこへゆかれたのですか」

「……結界を強固にするため、必要な物を手に入れに行ったのだ。おそらく、三日は戻ってこれぬだろう」

「それほど遠い場所へゆかれたのですか」


 驚きを隠せなかった。妖がいつまた襲ってくるとも知れないこんな時に、道院が屋敷を離れるなど考えられない事だ。


「高遠の考えも分かる。だが、どうしても必要な事なのだ」


 兼光の瞳に強固な光が宿っていた。


「それはいったい、どのような」

「兼光様」


 声に振り返れば、一人の舎人が小走りにやってくるところだった。二人の元に来ると、舎人は兼光に耳打ちする。小さく頷くと、兼光は高遠へ向き直った。


「少し用事が出来た。私はこれで失礼するとしよう」

「はい」

「高遠、道院がおらぬゆえ、負担が大きくなるかもしれぬ。だが、そなた達ならば大丈夫であるとわしは思っておる」

「……それは、過分な評価にござります」

「そなたはもう少し、自信を持つべきだな」


 からからと笑いながら高遠の肩を軽く叩いて、兼光は去っていく。どうにも釈然としないが、仕方なく部屋へ戻る事にして、高遠はその場を後にした。

 濡れ縁を歩いていた高遠は、視界の先。(つり)殿(どの)に座る八重を見て、自然と笑みが零れた。近づいてみれば、うつらうつらと船を漕いでいるのが分かる。まっすぐ八重の元へ向かわず、一度部屋に寄ると衣を一枚手に取った。

 高遠にまったく気づいていないのだろう。八重の瞳は閉じられたままだ。持って来た衣をそっと掛けると、起こさないよう注意を払って腰を下ろした。

 ひんやりと澄んだ空気に、花の甘い香りが漂っている。空から包むように降り注ぐ陽の光は暖かく、心地がいい。ゆったりと時間が進んでいくようだった。ふと、無性に八重の真黒く濁りの無い瞳が見たくなって、八重の横顔を見つめた。だが、八重に起きる気配は無い。諦めると、空へ視線を戻した。

 何故、八重は自分を護衛に任じたのだろうかと思う。うぬぼれる訳ではないが、確かにこの里で爺様を抜いて高遠に剣で勝てる者はいない。だが、こうして一日中一緒にいるのならば、もっと適した者がいるのではないか。自分のような余所者は外から守っていればいい。それだけで、自分は充分だったのだ。

 そこまで考えて、高遠は随分と自分の事を卑下している事に気付いて苦笑する。不安なのかもしれない、と思った。分からない事が多すぎるのだ。なのに、そろそろと大きな闇だけが音も無く近づいている気がする。気付いた時には闇に囚われて、身動きが出来なくなっているのかもしれない。それが、怖いのだ。

 八重の身じろぐ気配を感じて、高遠は物思いに沈んでいた思考を浮上させた。

 八重は閉じられていた瞼を開けると、焦点の定まらない瞳で周囲を覗う。そうして高遠に気付くと数度瞬(またた)いた。


「私は、眠っておったのか?」

「はい」

「高遠が来た事にも気付かぬほどに?」

「はい。姫はここで何をされていたのです?」

「……庭を、見ておったはずじゃが。いつの間にか寝ていたようじゃ」

「そういえば、女房殿と満四郎の姿が見えませぬが」


 まだ完全に目覚めていないのだろう。しばらく考えた後、口を開いた。


「確か、橘に何か手伝うようにと言われて、満四郎は連れてゆかれた」


 満四郎が橘に小言を言われながら働いている姿が容易に想像できる。笑いをこらえていると、八重が首を傾げた。


「そういえば、高遠はどこへ行っておったのじゃ」

「ああ、聞きたい事がありましたので、道院様の所へ行っておりました。すでに外出された後で会えなかったのですが」

「……そうか」

「それにしても」


 高遠は庭へ視線を送る。つられたように八重も視線を庭へ向けた。


「桜が美しうござりますね」

「私には、分からぬ」

「……明日、花見にゆきませぬか」

「花見……」

「はい。よい場所を知っております」

「だが」

「私と満四郎がおります。何かあれば、満四郎を盾にして逃げればよいのです」

「おい高遠。そこは自分を盾にして逃げてくだされと言うべき所ではないか?」


 橘の用事を済ませた満四郎が、二人の後ろに立っていた。


「俺は姫を護らねばならん」

「そなた達は、面白いな」


 ぽつり、と八重が呟く。その瞬間。八重の周りの空気が柔らかくなった気がした。


「そうじゃな。そなた達がおるのなら、花見もよいかもしれぬ」

「では、明日は弁当でも作ってもらいましょう」


 高遠は立ち上がると、八重へ手を差し伸べる。


「あまり風に当たると体によくありませぬ」


 しばらくためらった後、八重はおずおずと高遠の手へ自分の手を重ねた。



 八重と共に部屋へ向かっていた高遠は、何かの気配を感じて一歩下がった。同時に目の前を小さな影が通り抜けていく。まさか高遠が避けるとは思わなかったのだろう。小さな影はその勢いのまま態勢を崩して、簀にぶつかるように転がった。驚きながらもよくよく見れば水干(すいかん)姿の(わらわ)だ。

 凄い音に振り返った八重が、童を見て(またた)く。


(とき)(さだ)。何をしておるのじゃ」


 藤森時定。

 八重にとってただ一人の弟であり、藤森家の嫡男だ。あまり体が強くなく、(よわい)十になると高遠は聞いているが、数えるほどしか会った事が無い。

 よろよろと時定は立ちあがった。鼻を強く打ったのだろう。真っ赤になっている。


「ふんっ。そこの男、中々やりよるではないか」


 涙が溢れそうになるのをこらえているが、口調は随分と不遜だ。


「時定、そなた具合はもうよいのか」


 もう一度八重が声をかけると、時定に満面の笑みが浮かぶ。なるほど、と高遠は胸中で納得した。


「姉上。ご心配をおかけしました。熱は下がりましたゆえ、もう大丈夫でござります」

「ならよいが、なにゆえここに()るのじゃ」

「それは……」


 さまよった視線が、高遠で止まる。高遠は口を開いた。


「時定様。なにゆえ私に向かって来たのでござりますか」

「お主のような奴に名など呼ばれとうない!」


 叫ぶように言うと、先ほどまで浮かべていた満面の笑みはどこへやら、そっぽを向いてしまった。


「時定」


 八重が短く時定を呼ぶ。時定はうなだれて、下を見つめてしまった。


「この者の、実力を知ろうとおもったのです」

「それでここに?」

「……はい」

「なにゆえその様な事を」


 八重の声にせめるような色はない。だが時定には怒られているような気がしているようだった。


「……姉上を守るのは、私です」


 消え入りそうな声でぼそりと呟く。勢いよく顔を上げると、高遠を睨んで叫んだ。


「こんな、余所者などに姉上を守れるわけがありませぬ!」


 どこかで高遠の出自を聞いたのだろう。時定は高遠を睨んだまま顔を真っ赤にしている。どうしたものかと悩んでいると、満四郎が一歩前に進み出た。


「時定様。そのように申されても、高遠の腕前は兼光様も認められるほど。時定様より強いかと思いまする」

「何を言う!」

「おい、満四郎」


 高遠が制止に入ろうとするが、満四郎に目で止められる。


「ほう、時定様の方がお強いと申されまするか」

「あたり前だ!これでも私は師について剣をならっておる。いつも筋がよいとほめられるのだ!」

「なるほど。ではこうされてはいかがですか、時定様。ちょうど部屋に木刀が二本ありまする。それで互いに打ち合ってみるというのは?」

「……ふむ」


 何やら時定は満四郎にのせられている気がする。満四郎の奴はいったい何を考えているのか。


「よし。では私が勝ったら、お前には護衛を辞めてもらおう」


 高遠は頭を抱えたくなった。



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