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思ふ心は 花曇り 一

   一


 琴の澄んだ音色が、たゆたうように聞こえていた。

 まるで音の触れた所から大気が浄化されていくような。そんな美しさを持った音色だ。

 高遠は進めていた歩を止めると、頬をゆるめて軒下から空を見上げた。蒼い空に真白い雲がたなびいている。真上に昇った太陽から下りてくる陽射しは柔らかく暖かいが、ゆるやかに吹き抜ける風は冷たかった。だが、高遠にはそれが心地よく感じられる。大気と同じように、身の内から浄化されていくような気分だった。

 兼光に八重の護衛を任されたのが昨日。今は与えられた自分の部屋に向かっている所だ。瞼を閉じて()に身をゆだねながら、高遠は思う。たった一日程度しか経っていないというのに、あの妖を退けてから随分と変わったものだ、と。

 一介の兵であった自分が、まさか八重の護衛になるなど思いもしなかったのだ。知らずうちに腰に()いた太刀を握りしめていた事に気づいて、高遠は苦笑した。

 ゆっくりと(かぶり)を振って歩きだそうとした時だ。角の先から聞こえてきた言葉に、先ほどまでの心地よさが全て吹き飛んだ。


「おお、今日も姫様が琴を弾いておられるぞ」

「まことじゃ。だがあの無表情で弾いておられるのだろう。感情の無い者に、楽の事が分かるとは思えぬ」

「姫様は妖が見られる鬼姫。楽の事が分かるはずも無かろうて」


 男二人の笑い声に、頭が熱くなる。高遠は一気に角を曲がりきって、二人の前へ躍り出た。

 突然現れた高遠に二人はぎょっとする。目を泳がせたかと思うと、天気がいいだのなんだのと言いながら、足早に高遠の横を通り抜けていった。それを目で追いながら、高遠は小さく嘆息した。


「蜘蛛の子を散らすとは、この事だな」


 呆れたような笑みを浮かべて、入れ違うようにやってきたのは満四郎だ。


「その通りだな。……それにしても、何故お前がここにいるんだ?」


 首をかしげる高遠に、満四郎はにやりと笑う。


「実はな。俺も姫様の護衛になったのだ」


 驚いたのは一瞬の内だった。すぐに納得する。


「そうか」

「なんだ、あまり驚いていないな」

「流石に護衛が俺一人だとは思っていなかったからな。それに、昨日の兼光様の申されようでは、お前が何か命を受けている事は容易に想像もできよう」

「やれやれ。今度は驚かせるだろうと、兼光様に黙っていて頂いたのだが意味が無かったな」

「おい、俺を驚かせる必要などないだろうが」


 じとりと睨むが、満四郎はどこ吹く風だ。今度は深いため息を吐くと、高遠は歩き始めた。


「満四郎も護衛ならば、俺と同じように部屋があるのだろう?そろそろゆかねば、女房殿に怒られるぞ」

「おお、それは困る」

 穏やかな日差しの中を、二人は足早に連れだって歩き始めた。



「随分と遅うござりましたな」


 不機嫌な表情を隠そうともしない女房の橘に迎えられて、高遠と満四郎は苦笑するしかなかった。

 橘の事は、高遠も姿を何度か見た事がある。八重が物ごころついた時から仕えているのだと聞いた事もあるが、こうして面と向かって話すのはこれで二度目だった。だがどうにも高遠は、彼女に嫌われている気がしてならない。


「それで橘殿。私達の部屋はいずこになるのでしょうか」


 空気を変えるつもりで言ったのだが、橘は更に渋面を浮かべて不機嫌になってしまった。


「あなた方の部屋でござりましたら、今、目の前にあるのがそうでござりまする」


 目の前にあるのは、大人が五人は寝られそうな程の広さに区切られた廂だ。二つ置かれた円座と寝具以外、部屋には何も無い。だが、正面にある(ふすま)障子(しょうじ)には歳経()た美しい松が(えが)かれており、金箔が鈍く輝いていた。どこかで見た事のある絵だ。

 記憶を掘り起こすまでも無く、すぐに気付く。この絵が描かれている襖を使っている人物はこの屋敷で一人しかいない。


「……私の記憶違いでなければ、この襖の向こう側は、姫の部屋ではござりませぬか?」

「ええ。高遠殿が申される通りでござります」


 さすがに高遠と満四郎の目が点になった。屋敷内に通されたときに、おかしい気はしていたが、まさか八重の部屋へ続く廂に部屋を設けられるとは露にも思わなかったのだ。夫婦でもない男女が、こんな近くで寝起きを共にするなど考えられない事だった。


「お二方とも、決してこれは間違いではありませぬよ」


 二人が何か言うより早く、橘が早口で疑問をさえぎる。


「兼光様と姫様のご意向です。良いですか、決して……、決して間違いなど起こされませぬよう」


 どうやら、彼女の不機嫌の理由はこれだったようだ。橘の強い口調に、何も反論する事が出来ない。気圧された二人はだまって頷くしかなかった。


「よろしうござります。荷が片付きましたら、まずは道院(どういん)様の所へおゆきくださりませ。そこで今後の事をお話になられるそうですよ」


 一通りの説明を終えると、終始不機嫌だった橘は不機嫌なまま八重の元へ戻っていった。橘の姿が見えなくなると、二人は小さく息を吐く。そして、互いに苦笑を浮かべた。


「橘様を悪く思われないでくださりませ」


 背後から聞こえた声に振り返ると、八重に仕えているもう一人の女房がいた。


「橘様は姫様が母君を亡くされてから、自分の子のようにお育てしてきた方。姫様が心配でならないのです」

「あなたは……」

「梅と申します」


 おっとりと笑みを浮かべる梅は、五年ほど前から八重に仕えている女房だ。少したれ気味の目元が、彼女の性格を表しているように見える。


「橘殿を悪く思う事はありませんよ。姫を大事に思っておられる証拠です」


 高遠の言葉に、梅はほっと肩の力を抜く。


「左様。橘殿は兵の間でもすでに恐れられていたお方。恐れはすれど、悪くなど思うはずありませぬ」

「おい、こら満四郎。何を言うか」


 小声で高遠が制するが、当の満四郎はまるで口笛を吹きだしそうなほど飄々(ひょうひょう)としている。仕方なく高遠が弁明にあたるはめになってしまった。


「や、兵の間と申しても、一部と言いますか」

「……ふふふ」

「う、梅殿?」

「すみません。橘様の評判は存じ上げております。橘様自身、お知りになった時は随分怒っていらっしゃって。その時の事を思い出してしまったのです」


 知られていた事にどう対応すれば良いのか分からず、高遠は頭を押さえた。


「ほれ。ご本人が存じ上げているなら、俺が今言おうが言うまいが変わらなかったではないか」

「……満四郎。何がほれだ。そういう問題ではない」


 満四郎の悪い癖だ。たまにこういう戯言を言う。本人は良いかもしれないが、とばっちりを受ける高遠の身にもなってほしい。

 梅はひとしきり笑うと、二人に向き直った。


「橘様より、お二人を道院様のもとへ案内するよう仰せつかっております。私は控えておりますので、準備が整いましたらお声をかけて下さりませ」


 軽く頭を下げると、梅は部屋から少し離れた濡れ縁へ移動する。その姿を見送って、二人は荷をほどき始めた。



 荷が片付いたのは、陽の傾き始めた頃だった。

梅に案内されて来たのは、西の対にある一角を几帳(きちょう)で区切った部屋だ。部屋の隅には書物が今にも崩れて来そうなほど積み上げられており、高遠達には用途のまったく分からない道具が置かれている。


「散らかっておってすまぬな。常ならばこのような事は無いのだが。なにぶん調べる事やら、やる事が多くてそこまで手がまわらぬのだ」


案内されるまま座した二人の前で、つるりとした頭を撫ながら男が苦笑を浮かべた。

 立花道院。

藤森家に仕える陰陽師達を束ねている人物だ。兼光とも旧知の仲だと聞くが、高遠は護衛の時に会って話しを聞くぐらいで、あまり彼の事は知らない。だが、優れた術を使う事と、人柄の良さは耳にした事があった。


「どうぞお気になさらないで下さい。あの妖を退治るまでは、致し方ありませぬ」

「……うむ。まあ、そうだな」


 歯切れの悪い言葉に、高遠は内心首を傾げる。だがすぐに道院が話題を変えたので、小さな違和感はどこかに行ってしまった。


「今日お主たちを呼んだのは、ただこの後の事を話すだけではないのだ」

「と、申されますと?」

「うむ。これをお主たちに渡しておこうと思っての」


 道院は横に置いた(から)(びつ)を開けると、片手では持ち切れない程の厚さを持った、紙の束を取り出した。二人の前に広げられたそれは、一枚一枚丁寧に文字が書き込められている。


「これは……」

「見ての通り、わしが書いた呪符だ。随分昔から書きためておったのでな。およそ千ぐらいはあると思うぞ」

「ですが、なぜ私達に?道院様がお持ちになられた方が、よろしいのではありませぬか?」


 なぜ呪符を渡されるのか高遠には分からない。自分達には陰陽の知識などなく、呪符の使い方も分からないのだ。そんな高遠の疑問などすでに分かっていたようで、道院は笑みを深めた。


「これは陰陽の知識を持たぬ者でも使えるよう作ってあるのだよ」


 言いながら、道院は己の後ろから弓と矢を一式取り出した。


「満四郎。お主にこれをやろう。わしが清め、魔を祓う真言を彫り込んである。(やじり)に呪符をつけて射れば、妖を退治るのが容易になろう」


 道院が差し出した弓矢をじっと見つめながら、満四郎は礼を言って受け取った。よくみれば確かに、弦の張られた側に文字が彫られているのが見える。


「高遠。お主はこの呪符を衣に縫い付けておくのだ。そうすれば、妖の攻撃を全てとは言わずとも、ある程度は防ぐ事ができよう」

「さようでございますか。では、有り難く頂きます」


 軽く頭を下げて、高遠は分厚い呪符の束を自分の方へ引きよせる。ずしりとした重さが、与えられた任の重さの一部を物語っているようで、身の引き締まる思いがする。

 その後、昼間は二人で八重の側に付き添い、夜は交代で起きて警護をするなど細々とした事を話して、道院との話は終わった。

 二人が部屋を辞そうと立ちあがった時だ。道院に声をかけられて、二人は動きを止める。


「姫様に、国杜剣を授けられたと聞いたが」

「はい。恐れ多い事でござりますが。私が頂きました」

「……使えるか?」


 先ほどから、どうにも要領を得ない質問だ。


「これでも剣術を修めた身なれば」

「刃を、見せてはくれぬか」


 高遠は怪訝に思いながらも、腰に佩いていた太刀を引きぬくと、鞘を滑らせた。

 刃が陽を反射して輝く。

 太刀を見つめて、道院は目を細めた。


「うむ。やはり美しい太刀であったか」

「?」

「いや、こちらの話だ。時間を取らせて悪かったの」


 話は終わりだと言うように、道院は顔の前で手を振った。首を傾げながらも部屋を出ようとして、思い出したように満四郎が歩を止める。


「……あの妖。それほどまでに強いのでしょうか」


 今までずっと黙っていた満四郎が突然口を開いた。まっすぐに道院を見つめて問う。


「だからこその呪符と武器だ」

「分かりました。私達も、より一層に気を引き締めると致します」


 礼をして、二人は道院の部屋を出た。連れだって簀を歩き始める。


「……どう思う?」


 満四郎が再び口を開いたのは、道院の部屋を出てしばらく経ってからだった。


「……あの妖。確かに強い。だが……」

「ああ」


 ちらりと満四郎へ視線をやって、言葉の先を受ける。


「この呪符の量。年単位で用意されたとしか思えぬ。果たして、そんなに昔からこの時の事を予見できるものなのか」


 何かが噛み合っていないような、この妙な違和感。だがそれが何なのかが、分からない。

 冷やりと吹き抜けていった風に、高遠は胸が騒いだような気がした。



 夜の闇に、青白い月の光が滲む。

 微かに吹く冷たい風に、草木が揺れる音がする。

 静かな夜だった。

 息をする度に、自分自身も闇へ溶け込んでゆくような気分になる。

 縁に座し、柱に背を預けていた高遠はゆっくりと闇を吐きだした。それでも息を吸えばまた、身の内に闇が染み込む。だが、不快ではない。


「いい夜だ」


 ぽつりと、誰に言うでもなく言葉を零した。こんな夜はどうにも酒が呑みたくなる。以前、その事を満四郎に言って笑われた事があった。あれはいつの事だったか。

 そうだ。確か名残り雪があって、早咲きの梅が咲いていて。天上に昇った満月からは冴え冴えとした光が降ってきていた。

 そこまで考えて、何故自分は今そんな事を思い出したのだろうかとぼんやり思う。月の青白い明かりに、惑わされているのだろうか。

 突然、草木の揺れる音だけだった世界に木のきしむ音が聞こえて、高遠は月から視線を外した。

 小さな音を立てて開けられた妻戸から姿を現したのは、眠っているはずの八重だ。驚きながらも、慌てて高遠は立ち上がる。


「姫、こんな夜分にいかがなされましたか」

「……高遠か。そなたの方こそ、眠らぬのか?」


 動じた様子も見せず、八重はゆっくりと高遠へ視線を合わせた。まるで庭を満たしている闇の様に、静かな瞳だ。


「今は私が起きて、警護をする番でありますゆえ」


 そうか、と呟いたきり八重は押し黙ってしまった。そうして青白い月へ視線を移す。何か言わなければと言葉を探すが、何も浮かんでこない。諦めて、八重と一緒に月を眺める事にした。

 静かな闇の中、青白い光が頼りなくも優しげに二人を包む。


「美しうござりますね」


 気がついたら口をついて言葉が出ていた。言ってから何やら気恥しくなって、高遠は月から視線を外して首に手を当てる。いつもならば、このような事はないというのに。


「……高遠は、これを美しいと思うのじゃな」

「や、あの、……はい」

「私は……」


 八重が言葉を切る。

 いつまで経っても言葉の先が無い事を不審に思って、高遠は八重を見つめた。


「姫?」

「いや、なんでもない」


 ゆるゆると首を振る。微かな月明かりにも分かる、(つや)やかな黒髪がはらはらと揺れた。


「私はもう一度眠る」


 自室に戻ろうとして妻戸に手をかけた八重は、ふと動きを止める。


「高遠」

「はい」

「……よい、時間であった」


 振り返る事無くそれだけ言うと、八重は部屋の中へと消えていく。

 結局、八重が突然起きて来た理由も、何か言おうとした先の言葉も分からなかった。気にはなるが、聞いたところで教えてはくれないだろう。

 今は、それよりも……。

 知らずうちに頬を緩めながら、高遠は再び柱に背を預けて座ると青い月を見上げた。

 八重もあの瞬間。本当にひと時の間であっても。自分と同じように、美しいと感じていてくれたのだろうかと思いながら。




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