咲き初めに 三
三
朝の柔らかな光が差し込み、里を囲む遠くの山々が真っ白な霞に包まれている。草木の葉には、露がしらしらと輝いていた。いまだ冬のような澄んだ空気が肌を刺すが、青々とした香りが高遠の鼻をくすぐる。とても気持ちのよい朝だった。
いつものように体を伸ばそうとして、激痛が全身に走る。反射的に体を曲げた。
「っつ」
息を詰めて耐えていれば、しばらくして痛みは引いていく。昨夜の妖との攻防を思い出して、高遠は息を吐いた。骨は折れていないようだが、打撲にはなっているらしい。任に差し支えなければよいが、しばらくは痛みが続きそうだった。
痛みを紛らわせるように、汲んだ井戸水に手をひたす。身を切るような冷たさを感じたが、かまわず顔を洗った。
「高遠、傷の具合はどうですか?」
したたる滴を軽く手で拭って、高遠は声のした方へ向き直る。戸口に立つ人を見とめて笑みを零した。
「婆様、そんなに心配なさるほどではありませぬ。少し体を打ち付けた程度です」
「あなたが大丈夫だと言うのならいいけれど……」
高遠の言葉にもまだ安心しきれないのか、婆様は苦笑をもらす。
「担ぎ込まれてきた時はお主、死んでおるような青白い顔をしておったのじゃ。あまり無理はせん方がよいぞ」
婆様の後ろから、同じような苦笑を零しながらやってきたのは爺様だ。高遠は気まずそうに頭をかいた。
「いや、爺様には面目もありませぬ」
昨夜、高遠は妖が姿を消した後、不覚にも気を失い、満四郎が家まで運んでくれたらしい。気がつくと家にいて、婆様と爺様が心配そうにのぞきこんでいたのだ。己の不甲斐なさに、深いため息を零した。
高遠に剣の使い方を教えてくれたのは、爺様だ。
本当の名を田村諭平と言い、太刀を持たせれば右に出る者はいないという程の遣い手だ。数年前まで隋身を束ねる役職に就いており、年齢を理由に辞したが、今でも腕は鈍っていない。そんな彼に師事を受けた高遠にとって、太刀まで折ってしまった今回の件は、容易く看過出来る事ではなかった。
「そう言うでない。そなたの活躍、屋敷の者から聞いておるぞ。あの妖に一太刀浴びせたのは、高遠と満四郎殿だけであったというではないか」
「そうですよ。一歩間違えれば、あなたも打撲では済まなかったかもしれないのです」
「あれは、陰陽師殿のご助力あればこそ。俺の力ではありませぬ」
二人の言葉は素直に嬉しい。だがやはり、高遠の気分は晴れなかった。そんな高遠に、二人はやれやれと顔を見合わせる。その瞳は優しげに細められていた。
その時だ。戸を叩く音がして、三人は首をかしげた。
「そなたが田村高遠か」
やってきたのは一人の男だった。男は志麻遠乃介と名乗った。身なりから屋敷に仕える家人だと分かるが、高遠には彼がやってきた意図が分からない。爺様と婆様も分からないようで、成り行きを見守っている。
「はい。ですが私にいったい何の御用でしょうか」
「いや、実はな、兼光様がじきじきにそなたに会いたいと申されておられるのだ」
「兼光様が!?」
藤森兼光。八重の父であり、この里を治める豪族だ。高遠にとっても主にあたる人物だが、低位であり一介の兵にすぎない自分が、易々と会えるような方ではない。
「うむ。そなたの傷の具合にもよるが、動けるようであるならば、今日にでも来てほしいとも申されておる。体調はいかほどか?」
「は、はい。打ち身で済みましたゆえ、私はいつでも参上できる次第です」
「そうか、それは良かった。ではすぐにでも準備をされよ」
「いまからですか」
「うむ」
志麻の態度に、高遠は微かな違和感を覚える。どこか落ち着きが無く、こうしてここで会話している事すらもったいないというように見えるのだ。主である兼光からの任に緊張でもしているのだろうか。だが、これ以上説明するつもりは志麻にないらしく、口を閉ざして視線で支度を促してくる。高遠は立ち上がると、三人へ退出の礼をして部屋の奥へと消えていく。
庭に咲いた山吹の、控えめな甘い香りがしていた。
しずしずと前を歩く女房について、高遠は濡れ縁を歩いていた。
一緒に来た志麻は門前まで来ると、この橘という女房に取り次いで、別の用があるからといなくなってしまった。
一言も口をきかない彼女に居心地の悪さを感じながら、高遠はそっと息を吐く。涼しげな風が頬を撫でていった所で、橘の歩が止まった。
「兼光様。田村高遠殿をお連れ致しました」
「通せ」
橘に促されて、高遠はどうしたものかと迷う。彼女が指すのは廂のさらに奥、主の私室である母屋だ。高遠のような身分の者が簡単に入れるような場所では無い。
「そのようにかしこまらず入って参れ。今日は個人的に呼んだのだ」
兼光の言葉に、高遠は覚悟を決めて格子をくぐる。母屋に足を踏み入れて、あまりの驚きに声を上げそうになった。
部屋には兼光だけでなく、八重まで茵の上に座していたのだ。
兼光は貴族というよりも武士のような気質を持った、豪胆な男だった。御簾の向こうにいる事はほとんどない。彼の性格を表すように、八重も裳着を済ませたからといって、御簾の向こうにずっといる姫ではなかった。だが、さすがにこうして間近に会って話す事は無かったのだ。高遠が驚くのも無理は無い。動揺をなるべく面に出さないようにしながら、円座の上に腰を降ろした。
そんな高遠を強い眼差しで見つめながら、兼光が口を開く。
「まずはそなたの功労、見事であった。褒めてつかわす」
「……ありがたく存じます。ですが、あれは陰陽師殿と静平殿あればこそ。私の力ではありませぬ」
言いながら昨夜の事が思い起こされて、胸が重くなるのを感じた。高遠にとって、あの妖を退治出来なかった事が口惜しく、思い出すたびに己の不甲斐なさに腹が立つのだ。
「ふむ。やはり静平の言っていた通りの男のようだ」
ぽつりと、兼光が呟く。その言葉に高遠は下げていた視線を兼光に向けた。
「早朝、静平を呼んだのだ。そこで、そなたの事を聞いた」
「私の事、ですか……」
何故か、嫌な予感しかしない。
「うむ。高遠は剣の腕は立つし実直な男だが、己の実力を分かっておらぬたわけだと。そういえば、唐変木だのなんだのとも呟いておったな」
「……」
どうやら好き勝手言ったらしい。じわじわと腹の底から怒りが湧いてきて、次に会ったら拳の一つは見舞ってやろうと、高遠は心に決めた。
「はははっ!高遠よ顔に出ておるぞ」
「や、これはかたじけのうございます」
高遠は頭を押さえた。
「さて、戯れはこのくらいにして、そろそろ本題に移るとしよう」
「はい」
高遠は居住まいを正して兼光を見た。厳しい顔つきをした主に、気持ちが引き締まっていくのを感じる。だが、その後に聞いた事は、予想だにもしない言葉だった。
「田村高遠、そなたの実力と人柄を見込んで、頼みたい事があるのだ」
「頼みたい事、でございますと?」
「うむ。高遠も八重が常々、妖に狙われておる事は知っておろう。日ごろから陰陽師の結界にて守護を施しておったが、こ度の妖には今まで通りの守りで守りきれるとは思えぬ」
高遠は頷いた。あの時、確かに妖は結界に阻まれた。だが、結界があると知っていたならば、同じような結果になったであろうかと思う。恐らく、意表を突いたからこその結果だ。それを兼光も分かっているのだ。
「そこでだ、そなたには八重を守るため、常に傍にあって仕えてもらいたいのだ」
「は?」
突然の言葉に、頓狂な声が出た。失礼だと思いつつも、まじまじと兼光を見つめるが、その表情は冗談を言っているようには見えない。さすがに動揺を隠す事は出来なかった。
「私に、姫様の護衛をせよと申されるのですか!?」
「うむ。あの妖がいつ襲ってくるとも知れぬ。屋敷にそなたの部屋を用意いたそう」
眩暈がするとはこの事だ。
「兼光様、お戯れが過ぎまする」
「高遠、私が戯れでそのような事を言うと思うか」
高遠は狼狽した。自分のような一介の兵を姫の護衛にするなど聞いた事が無い。
「何もずっとという訳ではない。八重の祝言を無事終えるまでだ」
祝言、と高遠は心の内で呟く。
八重の祝言が、十六の誕生日に挙げられる事は随分前から決まっていた。この里に暮らす者なら誰でも知っている事だ。十日後に控えて、里内もどこか浮足立ってもいる。どこに嫁ぐのかまでは分からないが、間違いなく殿上人だろう。
「それにな、これは八重が望んだ事でもある」
驚いて、高遠は八重を見やった。澄んだ水底を思わせる瞳が、自分を見つめている。紅を引いたように、濡れた唇。雪のように白い面には、さらりと、濡れ羽色の髪がかかっている。こんなにも間近で彼女を見たのはこれで三度目。こんな状況だというのに、高遠は変わらない八重の美しさに見惚れていた。
「それでもそなたはまだ、戯れだと言うか」
「……いえ」
言いながら、目を伏せる。
迷う。本音を言ってしまえば、高遠も八重の傍に仕えたい。己の手で守りたいと思う。それは幼い頃の無邪気な夢でもあったし、その為に血の滲むような努力をして、剣の腕を磨いてきたのだ。相手が徒人ならば守りきる自信はある。だが、相手は人ならざる者だ。見鬼の才を持たない自分が、いったいどこまで役に立つというのだろうか。
「高遠」
澄んだ声が己の名を呼ぶ。はっとして、高遠は伏せていた視線を八重へ向けた。
「そなたは私の護衛は嫌か?」
「まさか、そのような事あるはずがありませぬ」
「なれば、高遠は今から私の護衛じゃ」
「!」
「ゆくぞ、高遠」
言い終えると、八重は立ち上がって部屋を出て行ってしまった。困ったように兼光へ視線を向ければ、こちらも困ったように笑っている。そうして、視線で後を追うよう促された。ここでこうしていても何にもならないだろう。高遠は立ち上がって、八重の後を追って行く。
一人、部屋に残された兼光は、ゆるゆると息を吐きだした。
「八重を、頼むぞ。高遠……」
吐息と共に零れた言葉は、春の暖かな風に攫われて消えた。
八重に追いついた高遠だったが、声を掛けて良いものか迷っていた。本来ならばこうしてすぐ近くを歩くことすら許されないような方なのだ。どうしたものかと、庭へ目を向けた。
陽を受けて、しらしらと輝く大きな池。その池を囲む木立や野草。池に浮かぶ中島には朱色の高欄をもつそり橋や平橋が掛けられていた。綻び始めた花の、白や薄紅の色がちらほらと庭のそこかしこに見られる。もう、春はすぐ近くまでやってきていた。
ふと、中島の中央に立つ、葉も花もつけていない一本の木が目に入った。
まっすぐ伸びた幹。空に向かって広げた枝。いまだ固い蕾のままだが、凛と立つその姿に何故か心惹かれる。
「あれは八重桜じゃ。一重の桜が咲き終えた頃に花開く」
気がつかない内に立ち止まっていたようだ。前を歩いていたはずの八重が、隣にいて驚く。
「姫…。そうですか、姫と同じ名でござりますね。では、咲いたときは姫のように美しうござりましょう」
「……高遠は、詩を詠むのか?」
「はい?あ、いえ、まさか。私にそのような才はありませぬ」
「そうか……」
再び歩き始めた八重の後を追うが、問いの意味が分からない。高遠は首を傾げた。
東に位置する対屋に着くと、二人の女房がすでに控えていた。一人は先ほど高遠を兼光の前まで案内した、橘という女性だ。もう一人の名前は分からないが、年の頃は八重と同じくらいだろうか。幼さを残した顔立ちだ。その女房に座るよう促されて、高遠は廂に用意された円座に腰を下ろした。
八重は茵に座すと、扇を鳴らす。
格子をくぐってやってきた舎人の手にある物を見とめて、高遠は目を細めた。
ごとりと、重い音をさせて簀子の上に置かれたのは、美しい装飾の施された一口の優美な白造太刀だ。全体を黒漆で塗り込められているが、金具の所だけ塗りこめられていない、珍しい造りをしている。
「これを高遠に授ける」
「これは……」
「我が藤森家に代々伝わる霊剣じゃ。名を、国杜剣と言う。妖や物の気を断ち、浄化する力があるそうじゃ」
太刀を見つめながら問う。
「そのような物を、何故私に?」
「昨夜の争いで、高遠の太刀は折れておったゆえ。それに私をこれから守る為には、このくらいの力は必要であろう」
太刀から視線を外して、高遠は静かに首を横へ振った。
「私にはいただけませぬ。このような大層な物、私には不相応という物でござりましょう」
「それを決めるのは高遠では無い。私がその価値があると思うたのじゃ」
存外に強い声音だった。だが、八重の面は無表情なまま。どんな感情も映ってはいない。
「姫……」
「それとも、高遠は鬼姫と呼ばれる私が恐ろしいか?なれば私も、無理に護衛をせよとは言わぬ」
八重の言葉に、一瞬、頭が熱くなった。太刀を受け取らなかった事が、護衛までも拒否しているのだと勘違いされている。それも、高遠の望まない方向でだ。
「私が、八重様を恐ろしいなどと思うはずがありませぬ。護衛も、嫌だなどと思いもいたしておりませぬ」
高遠の強い口調に、さすがの八重も目を開く。言い切ってから高遠は、はっとした。
「や、これはかたじけのうござりまする」
高遠は赤面した。つい感情的になってしまった自分が恥ずかしい。
「……そうか」
そんな高遠を気にする風もなく、八重は静かに立ち上がると高遠の前へ膝をつく。両手で国杜剣を持ち上げると、高遠へと差し出した。
「なれば高遠、国杜剣はそなたの物じゃ」
目前に差し出された太刀を、高遠は食い入るように見つめた。
覚悟を、決めなくてはならない。
否。八重の為に命を捨てる覚悟ならば、この命に代えても守るという覚悟ならば、とうの昔に出来ている。
高遠は、差し出された国杜剣を左手でしっかりと握った。八重が手を離すと、ずしりと重い感触が腕に感じられる。そのまま己の前まで持ってきて、右手で刀身を引き抜いた。二人の女房が、息を飲む気配が伝わってくる。だが特に気にも留めず、顕わになった刀身を見つめた。
片刃に、刃文は直刃。反りはほとんど無く、珍しい形だ。傷一つ無く滑らかな刃は、吸い込まれそうな程に美しい。
高遠は、しらと輝く刀身に己を映した。険しい顔をした己と目が合う。しばらく見つめた後、高遠は瞳を閉じると、鍔鳴りを響かせて太刀を鞘へ収めた。
そうして八重へ平伏する。
「謹んで頂戴仕る。この身果てても姫をお守り致す事、ここに誓い申し上げる。」




