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望月昇りて 咲き覆いけれ 四の一

   四


 はらはらと、闇を裂くように真っ白な花びらが散っている。

 辺りは闇に塗りつぶされていて、花びらが散っている以外には音すらも聞こえない。その光景は美しいと言うよりも、どこか恐ろしさを感じさせた。


「かあさま」


 闇の中に突然聞こえたのは幼子の高く澄んだ声だ。


「かあさま」


 また声が闇に溶ける。幼子はただ、無感情に母を呼ぶ。親しみも、寂しさも、悲しさも滲んではいない声。なのに何故か、この幼子は泣いているのだと思った。

 闇を裂いていた花びらがやむ。そして闇の中に、床に伏せった女と、その横に座り込む幼子がぼんやりと浮かび上がった。幼子は背中を向けているせいで、面差しは分からない。だが女は、見目にわかるほど憔悴している。辺りを塗りつぶしている闇とは違う、黒い霞が女に纏わりついていて、そのせいで弱っているようだった。

 幼子もそれが分かっているのだろう。再び母を呼ぶ。その声に反応するかのように、女の瞼が震えて目を開けた。幼子に顔を向けると、淡く微笑む。


「そんな風に女が泣いてはいけませんよ。女は強くあらねばなりません」

「……かあさま。わたしは泣いてなどおりませぬ」

「確かに涙は出てないわね。でもこの母様の目はごまかせませんよ」

「……」


 女が真っ白な手を上げて、幼子の頬を撫でる。この幼子が愛しくてたまらないという仕草だった。ちらりと、女の手首で薄緑色の(ぎょく)が二粒光り、玉に挟まれた小さな鈴が鳴る。細い糸で結び合わせた飾りのようだ。


「かあさまは、わたしのせいでいってしまうの?」


 幼子が感情の無い声で問う。女は切なげな笑みを浮かべると、頬を撫でていた手で、堅く握られた膝の上の小さな手を包む。


「母様はどこにもいきませんよ。例えこの身が亡びても、母様はあなたとずっと一緒です」

「かあさま。人は死ねば土にかえるだけです。道院が言っていました」

「そう。人は土に還る。そしてまた再び芽吹く。そうやってこの世界は廻っているのです。でも、想いは違う」

「ちがう?」

「そう。想いは人だからこそあるもの。魂とも呼ぶもの。この身が土に還ろうと、この想いは消えない」

「想いは、きえない?」


 女が、柔らかく微笑んで頷く。


「あの庭の八重桜が今は枯れているのと同じ。母様も一時、姿が見えなくなるだけ。でも春には必ず花が咲くように、見えなくともここにいますよ」


 幼子の胸に、女の白い手が置かれる。幼子はその意味を必死に理解しようとしているようだった。


「ずっと、見守っていますよ。八重」


 それが、最後だった。

 女の手が床に落ちていく。同時に、二人の姿も霞のように霧散していった。




 闇の淵から(すく)いあげられるような目覚めだった。

 先ほどまで見ていた夢の余韻が抜けきらず、茫洋と見慣れない天井を見つめる。そうして、どうして自分はこんな所にいるのか疑問が頭をもたげた。確か自分は八重を連れ去ろうとする妖と対峙して――。

 そこまで考えて、一気に記憶が戻る。

 高遠は飛び起きた。

 自分は死んだのでは無かったか。身体に触れて確かめるが、痛みも何も感じない。それどころか傷一つさえ無かった。あれだけ深かった背中の傷すらも無い。混乱した頭で辺りを見渡すと、一本の桜の木で目がとまった。あれは確か、八重桜では無かったか。それが今、満開に咲き誇っている。おかしいと思う。高遠の最後の記憶の中ではまだ、あの桜は蕾のままだったのだ。

 黄昏に沈む世界の中。薄紅の花びらが、風も無いと言うのに舞い散る。その美しさは儚げで、どこか現実味がない。

咲いている筈の無い桜。

現実味の無い、美しい光景。

 やはり自分は死んだのだ。だから、世界はこんなにも儚く美しい。

 ふと、腰のあたりに何かの気配を感じる。見下ろして高遠はぎょっとした。

 八重が自分の腕を枕代わりにして眠っていたのだ。どうしてここに、それも自分のすぐ近くで彼女は眠っているのか。

 声をかけるべきかどうか迷っていると、八重が身じろいで目を覚ました。ゆっくりと頭を持ち上げる。まだ寝ぼけているのか、高遠をぼんやりと見つめた。


「八重、様」


 高遠の声に、焦点の定まらなかった八重の瞳が定まっていく。そうして驚きに見開かれた後、透明な雫が頬を伝った。

 八重が、泣いている。


「高遠……」

「はい」

「もう二度と、目を覚まさぬかと思うた」

「……申し訳ありませぬ」


 ほろり、ほろりと澄んだ雫が、八重の瞳から溢れては零れ落ちて行く。その涙を止めたいと思った。例え高遠が作り出した幻想だとしても、もうこれ以上、泣いて欲しくない。


「泣かないで下さりませ」


 困ったように笑いながら手を伸ばすと、高遠は八重の涙を拭う。

 今度こそ、拭う事が出来たのだと無性に切なくなった。そうして疑問に思う。本当にこれは高遠の作り出した幻想なのだろうか。


「高遠お前、目が覚めたばかりだと言うのに、やるな」


 突然聞こえた声に、高遠はずざっと音を立てて後ずさる。いつの間にか濡れ縁に、呆れ顔の満四郎が立っていた。自分の顔が紅潮していくのが分かる。


「まったく。高遠がこんなに手が早いと思わなかったな。それとも一度死にかけて、性格が変わったか」


 何やら勘違いしている満四郎に、高遠は半眼になって睨む。


「……満四郎、お前はなんという事を言うのだ」


 これでもかと言うほど睨みつけるが、満四郎はどこ吹く風で面白そうに笑っている。今の満四郎に何を言っても無駄だ。高遠は大きなため息を()いた。

 そんな高遠に、満四郎は持っていた湯呑みを差し出す。中には白湯が(そそ)がれていた。


「二日近くも眠っていたのだ。目が覚めた時は喉が渇いているだろうと思うて、用意してもらっておいた」


 言われてから、喉の渇きを覚える。高遠は素直に湯呑みを受け取ると、白湯を口に含んだ。全て飲み干すと、ようやく人心地ついたような気分になる。


「……俺は、生きているのか」


 ほう、と吐きだした息と共に、ぽつりと呟きが零れる。


「そなたは、確かに生きておる」


 一人言のような呟きに答えたのは八重だった。存外に強い声音にはっとする。

 あの時、確かに高遠は死を覚悟した。それほどの傷だったのだ。なのに高遠は今、確かに生きている。


「なにゆえ、私は助かったのですか」

「それは私達にも分からぬのだ」


 背後から聞こえた声に振り返れば、兼光と道院が簀の上を歩いて来た所だった。その後ろから橘と梅も歩いてくる。高遠が礼を取ろうとするのを手で制して、兼光達は部屋の中に腰を下ろした。


「だがあの時、高遠に渡した玉が砕け散ると同時に、桜の花びらが触れた所から傷が癒えていったのだ」

「まさかっ」


 にわかには信じられない事だった。それほどにあの時の傷は深かったのだ。だが確かに高遠の懐には玉が入っていた。そして、今ここに自分がいる。信じられない事だがこれが夢で無いのならば、真実なのだと信じるしかない。


「……あの玉はいったい何だったのでござりますか」


 高遠の呟いた言葉に、兼光は目を細めると八重桜を見やった。その瞳に(うれ)いの様な物が(にじ)む。ふと、夢の情景が高遠の脳裏をよぎった。あの夢の中の女性の手で光った二つの玉は、道院から受け取った玉に似てはいなかったか。


「予想は出来る。だが今となってはもう、それを確かめる事は出来ぬ」

「……左様にござりますか」


 これ以上、触れる事は出来そうに無かった。そもそも高遠にとっては夢なのだ。兼光が話さないのならば、あの夢の真偽を確かめる術も無い。だが、それでも良いと思った。一度、死を覚悟した自分がここで生きている。それが一人の人間の想いが()した事なのだと、高遠が信じていれば良い。それは兼光達にとっても同じである気がした。


「それで、身体の方は大丈夫なのか」


 道院の言葉にはっとしながらも、高遠は軽く頷いた。


「今は、痛みも何もありませぬ。唯一、問題があるとすれば……」

「何じゃ」


 それまで静かに会話を聞いていた八重が言葉を発する。高遠は頭を押さえて苦笑した。


「腹が減ってなりませぬ」

「はっはっは。分かった、すぐに何か用意させよう」

「すみませぬ」

「飯は用意させるとしてだな。先に高遠達に話しておく事がある」


 真剣な顔つきになった兼光に、高遠と満四郎は背を正した。


「妖も退治し、鬼神も倒した。だが、八重の霊力は無くなっておらぬ」

「はい」

「八重はこれから先も妖に狙われる事があるだろう」

「はい」


 その通りだった。鬼神は退治たが根本的な物が無くなった訳ではない。八重の高い霊力はそれだけで妖を惹きつける。だが言葉を切った兼光は、言いにくい事なのかその先を言おうとしない。怪訝(けげん)に思う高遠達を見て、道院は苦笑したようだった。


「兼光様。見苦しうござりますぞ」


 道院の言葉に兼光は憮然とする。高遠には意味が分からず首を傾げるしかない。だが満四郎は何やら気付いたのか、面白そうな顔をしている。ようやく心が決まったのか、渋面を作りながらも兼光が再び口を開いた。


「ゆえに、高遠と満四郎にはこのまま、八重に仕えてもらいたいのだ」

「それは、兼光様……」

「護衛の任を続けて欲しいと言うておる」

「ですが……」

「そなた、嫌なのか!?」


 兼光が(つば)を飛ばして激昂(げっこう)する。


「いえ、滅相もござりませぬ。ですが、私などで宜しいのですか」

「……そなたで無くてはならぬ」


 高遠達から目を逸らし憮然(ぶぜん)としながらも、兼光は言いきった。高遠で無くてはならない理由は良くわからない。だがもし許されるのならば、己の気持ちは決まっている。


「高遠」


 鈴の様な声に、八重の方を見やる。澄んだ湖水を思わせる優しげな瞳が、高遠を見つめていた。

 高遠は平伏する。


「謹んで拝命仕る。この身果てても姫をお護り致す事、ここに再び誓い申し上げる」




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