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政略婚~身代わりの娘と蛮族の王の御子~  作者: 伊簑木サイ


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エウル、覚悟を決める

 耀華公主のベッドにもぐりこんでも、叔母上は何も言わなかった。俺がそうしなければ、きっと叔母上自身がこうしただろう。

 彼女はこんこんと眠っていた。傷を押さえる布越しに、彼女の頭に唇を押しつけて、寄り添う。

 規則正しく繰り返される呼吸が、回復するための眠りを欲しているからなのか、死にゆく体の最後の反応なのかがわからず、ただただ、行かないでくれ、と願うしかない。


 ふと、死んだら彼女はどこへ行くのだろう、と思った。

 俺達は蒼天へ還る。けれど、竜血の治める地で生まれた彼女は、もしかしたら、別のどこかへ行ってしまうのかもしれなかった。


 ……だったら、彼女の魂が飛び去る前に、捕まえなければ。

 どことも知れない場所になど、行かせるものか。俺が蒼天へ連れて行く。


 衝動的に手を伸ばして、枕元をさぐった。気が立っていたから、剣も小刀も手放す気にならず、頭上にひとまとめにして置いてある。

 小刀の位置を確認して、また彼女の背を抱いた。その寝息に耳を澄ます。


 長い夜だった。どのくらいたったのか、もう時間の感覚がなかった。

 彼女の息が、ふいに乱れた。小刻みにせわしなくなり、苦しげなそれに、背筋が凍る。

 他にどうすることもできず、彼女の頭を抱え込んだ。


「耀華公主」


 呼び止めたくて、囁く。すると、それまで力をなくしていた彼女の手足が、あがくように動いた。うー、とも、んー、ともつかない声音で唸る。そのうち、すう、と大きく息を吸い込み、彼女の腕が、あてどなく伸ばされていった。


『やっ、あっ、エウル、助けて、エウル!』


 思わずその手を取り、彼女を強く引き寄せた。

 スウリに殴られた時も、きっと俺を呼んだのだろう。たまらない後悔に苛まれる。


「大丈夫だ、耀華公主。もう大丈夫だ」


 彼女に起こったことを、なかったことにはできない。それでも、今見ている夢の中だけでも、助けに行けたら。

 公主の手が今度は意思を持って伸ばされ、懸命な様子で抱きついてきた。


『エウル? 本当に、エウル?』

「ああ、そうだ、俺だ。耀華公主」


 彼女の頭が動いて、目をこらしているのがうかがえた。炉の火はほとんど落ちて、輪郭以外何も見えないだろう。だから、声でわかるように囁きかける。


「ここは天幕の中だ。俺はあなたの傍に居る。もう怖いことはない」


 しばらくすると、彼女の体の緊張がとけた。甘えるようにすり寄ってくる。ふ、う、としゃくりあげる声が聞こえてきた。俺は彼女を抱きすくめた。

 泣いているせいか、彼女の体は汗ばんで熱かった。生きていると伝えてくるそれに、もう大丈夫だと実感する。

 彼女はひとしきりぐすぐすと泣いていたが、ゆっくりと背を撫でていたら、そのうち静かになって、また寝息をたてはじめた。健やかな呼吸が繰り返される。


 俺は安堵に満たされるまま、はあ、と息を吐いた。

 これで翌朝もおかしな様子がなければ、……誰も殺さないですむ。

 気がゆるんで、奥の方に押し込めておいたはずの本音が顔を出し、傷ついた公主を抱きしめながら、そんな安心をしている自分に気付いて、歯を食いしめた。


 スウリのことは許せない。公主を殺そうとし、傷つけた。殺したいと思うほどの怒りに駆られる。

 ……けれど、幼なじみなのだ。スウリの父親( ルツ )にも母親(レイナ)にも、幼い頃から世話になった。スレイは兄弟も同然だ。

 断ち切れない情がある。こうなってしまっても、彼らを殺したり傷つけたいとは、どうしても思えなかった。


 スウリについては、どうにもならない。

 公主や俺に近づけさせないようにという命令を遂行できなかった、ルツやレイナも。

 スウリに協力したニーナも。

 それ相応の罰を受けてもらわなければならない。


 だが、スレイは、スレイだけは、黙っていてくれたらよかったのにと思わずにはいられなかった。

 馬車の側に居るスウリとニーナを見たことを。そして彼女らを疑っていたことを。黙っていてくれさえすれば、罪を問わずにすんだ。

 だけど、己の妹を、婚約者を、両親を、見捨てられる男ではない。家族の犯した罪を関係ないと言い切れる、そんな男ではけっしてないのだ。

 そして、疑わしいことを俺に黙っていた、たったそれだけの裏切りさえ、己に許しはしない、高潔な忠誠心の持ち主でもある。


 ……ああ、あの時、俺は、どれほど軽い気持ちで、「裏切られるのは、俺の自業自得だ」などと言っただろう。

 何もわかっていなかった。

 俺があいつらに殺されるなら、それはしかたないことだとしか思っていなかった。

 裏切った方が望んでその報いを受けようとするなんて、そんなこと、思ってもみなかった。


 ……だからこそ、俺が罰を下すと決めた。

 公主をもらい受けるのは王命で、親父様()に裁きをゆだねることもできた。しかし、親父様の許までこの件を持ち込めば、スウリやニーナは死罪をまぬがれず、ルツ、レイナ、スレイも、もっと重い罰を受けただろう。財産を没収された上、放逐される。その先には、死しかない。


 親父様に報告する前に、罰を済ませておけば、たとえ刑の可否で責を問われても、それは俺が引き受けるべきことになる。追って彼らに罰が与えられることはない。


 スレイはきっと、スウリやニーナを生かすため、自分も生かすはずだ。罪人の印を刻まれた者が生きていける場所など、どこにもないのだから。

 殺してやった方が楽なのかもしれない。でも、俺は、どうしてもスレイに生きていてもらいたい。


 俺は覚悟を決めて、夜明けまでの短い時間に一寝入りした。




 朝、公主は元気に目を覚ました。ころりと寝返りを打って、傷のある方を下にし、痛みに飛び起きたのだ。

 寝ぼけて、わけがわからないという顔で頭をさわり、巻いてある布に、思い出した表情になる。


「痛そうだな。血は止まっているから、大事にしておけば、すぐに良くなる」


 涙目で見上げてくるのが可愛らしくて、苦笑しながら、傷にさわらないように、その手を取って下ろさせた。


 そっと彼女の目の前に手をかざし、左右にゆっくりと振ってみる。不思議そうに、つられてちゃんと目で追う様子に、おかしなところはなく、密かに胸を撫で下ろした。

 頭の中に異常があると、視線が定まらなくなり、物を目で追えなくなることが多いのだ。そうした場合、数日のうちに亡くなるか、生き延びても体に不具合が残る。


「公主! 目を覚ましたのかい!? ああ、よかった! よかったよ!」


 日が昇って以来、今か今かと待っていた叔母上は、白湯と馬乳酒を持って、大急ぎでやってきた。


「どうだい、飲めるかい?」


 俺は公主を寄りかからせて、背を支えてやった。公主はまず水を受け取って、こくりこくりと飲み干し、続けて馬乳酒も平らげる。

 しばらく様子を見たが、吐き戻さなかった。酷い頭痛に襲われていることもなさそうだった。


「心配なさそうだね」


 叔母上が安堵の溜息をこぼして笑った。

 壁を見上げれば、天窓から入る光が、屋根と壁の境目――壁の頂――に当たろうとしていた。そろそろ時間だ。

 俺はベッドを下りながら彼女を横たわらせ、また俺の上着と上掛けを掛けて整えてやった。

 離れがたくて、彼女の頬を撫でる。


「公主、今日はゆっくり寝ているといい。俺は少し用があるから、行ってくる」


 彼女は、「行ってくる」を聞き分けたのだろう。いつものように見送ってくれようと身を起こそうとしたが、その必要はないと首を振って示して、肩を押さえこんだ。

 俺を一心に見上げる彼女を見つめたまま、叔母上に呼びかける。


「叔母上」

「ああ、わかっているよ」


 今日は、俺がいない間、叔母上に付き添ってもらうつもりだった。

 俺は剣と小刀を取って自分のベッドに行き、服を整えた。するべきことをしてこなければならない。


「エウル?」


 心細そうな声で呼ばれた。目線も見慣れない鎧用の上着の上をたどっており、不安そうに俺を見ている。

 俺は努めて何でもないように笑んでみせ、彼女に近付き、屈んで額に、……いや、恥ずかしそうにぎゅっと目をつぶったので、悪戯心がわいて、とっさに鼻先に口づけた。


「すぐに帰ってくる。そうしたら、今日はもう出掛けない。一緒にいよう」


 公主は真っ赤になって鼻を押さえた。少々非難のまなざしなのは、思わず笑ってしまったせいか。

 ……そうだ、あのリボンを。

 傷を手当てするときにはずした物と一緒に、ヘッドボードに掛けておいたものを手に取り、差し出した。


「手に巻いてくれ」

「て?」

「そうだ。手に」


 彼女は起きだして、掌に二周させて甲の部分で結んでくれた。

 今日はロムランの声を使うつもりはなかった。けれど、もし使うことになった時、これが力に引きずられるのを防いでくれるだろう。……ニーナを壊しそうになった糸を、ゆるめてくれたように。


「行ってくる」

「いってらっしゃいませ」


 いつもと同じやわらかな笑みに見送られて、俺は為すべき事を成すために、外へ出た。

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