68 ルーデンス領防衛戦
少し時を遡って、ルーデンス領主都の一軒では賑やかな話し声が上がっていた。
「クリフさん、どうですか。上手くなったでしょう?」
そう言いつつ笑う少女は、トゥッカの妹ミシェリーである。彼女は兄とクリフから貰った楽器を随分と練習したようで、張り切って発表したところだった。
「とてもトゥッカの妹とは思えないな」
「おいおい、いきなり人の妹に向かって下手くそとは何事だ」
「ミシェリーじゃなくてお前が下手だって言ってるんだよ」
言い合う二人を見て、ミシェリーはくすくすと笑う。
この少女はとりわけ美しいとか可愛らしいとかいうわけではないが、こうして笑っているところなどは愛嬌がある。
「次に見せるときはもっと上手くなってますから!」
張り切るミシェリーに、男二人は楽しみにしていると言うほかなかった。なんせ、二人は音楽に親しくないため、良し悪しを言われてもさっぱりわからないからだ。そして女心というものに関しても。
そんな時間を過ごしていた三人だったが、突如、クリフとトゥッカが立ち上がった。
風読みの魔術がこの都市全域にまで及んだのだ。
ルーデンス領では各都市に魔術師が数名ずつ待機しており、風読みの魔術を用いて連絡が取れるよう連絡網を形成している。
そしてその連絡網を使用するときは、非常事態が起きたときだ。これまで訓練では用いたことがあったが、実際に使われたことは一度たりともなかった。
「すまない、用事ができてしまった。今日はこれで失礼するよ。また来たときに聞かせてくれ」
クリフが出口に向かうと、トゥッカが続く。
ミシェリーは寂しげな表情を浮かべたが、「行ってらっしゃい」とだけ告げた。そこは自分の領分ではない、黙って待ち、帰ってきたときに温かく迎えるのが役目だと思っていたから。
クリフとトゥッカはすぐさま家々の上に跳び上がり、駆け抜けていく。詰所に飛び込むと、慌ただしく動いている少年らのうち、できるだけ暇そうなものを捕まえて状況の確認を行う。
「どうなってる?」
「東で魔物と例の異形が確認されています。一つの都市が襲撃を受けており、近隣から増援が向かったところですが、劣勢の模様です」
「予備の戦力を残し、すぐに出られる者を向かわせる」
まだ敵の全貌は明らかになっていないため、全兵力をもって敵を掃討するわけにはいかない。魔術師ならば装備も少なく移動も素早く行えるため、敵との接触まで時間がかからないが、何度も行ったり来たりさせるわけにもいかない。しかし、それは敵も同じことだろう。
クリフが魔術を用いると、あっと言う間に幾何模様はルーデンス領全域を通り過ぎ、ルーデンス魔導伯が支配する領域すべてを網羅する。そしてそこから風読みの魔術が発動していった。
かの片腕と言われるのは、名ばかりではないということだ。魔術の才能、そして知識、貪欲に上を求める向上心。魔術師隊の隊長は、領内にいる誰よりもうまく魔術を用いることができた。
「かなり押されているようだ。中隊を向かわせる」
クリフが告げたときには、すでにトゥッカが待機の魔術師を纏めていた。
「俺が行く。状況を見て増援を送ってくれ」
「ああ、そちらは任せる。頼んだぞ」
「任せておけ。必ずや、俺たちの都市を守ってみせる。お前こそ、絶対にここを落とすなよ」
トゥッカが魔術師を引き連れて東へと移動し始めると、クリフはあれこれと指示を出し始めた。ヘイスは今西方におり、そちらの防備を固めている。ルーデンス魔導伯が手にしている土地は東西に長いため、戦力の融通を利かせることはできなかった。
東に魔術師が偏っている今、なにかがあってもヘイスたちにはある程度、その戦力で耐えて貰わねばならない。だが、あいつならばやってのけるはずだと、クリフは信頼していた。
そしてここルーデンス領主都にはもう一人の隊長もいる。敵を迎え撃つには十分な態勢であろう。
「魔術師を都市の外へ。市外で迎え撃つ」
「都市内部の防備は?」
「ディートに小隊を預け任せる。準備が整った者から、移動を始めろ。場所は――」
クリフが命令を出すなり、魔術師たちは素早く行動を開始した。ヴィレムがいない今、軍事的な行動に関しては、クリフの権限が一番強い。それが一番ふさわしいとヴィレムが決めたことなのだが、単にディートやヘイスがやりたがらなかったということでもある。
しかし今になって、クリフはその役割をありがたく思っていた。
大勢の命を預かる重圧を感じる一方、それを守ることができる大役なのだから。
あっと言う間に空になった詰所にいたクリフは、それにしても、とため息を吐いた。ルーデンス魔導伯はいつもこのような責任を感じながらも、涼しい顔をしてなにもかもやってしまう。いったいどれほどの研鑽を積めばあのようになるのだろうか。
「一生追い付けやしないかもしれないな」
そんな独白をするクリフ。
彼が学べば学ぶほど、かの存在はより遠くに感じられる。しかしだからこそ、彼の下で働くことが誇らしく、魔術師たらんと常に思うのだ。
と、そんな彼は空の向こうに動くものを見つけた。
竜だ。それも人を軽く丸呑みできそうなほど大きい、百に近い数の飛竜が一斉に近づいてくる。
羽ばたきの音がゆっくりと響くようになると、魔術師たちだけでなく、都市に住まう者も戦いの気配を感じ取らずにはいられない。
これでは市壁は機能しない。そして一度内部に入られてしまえば、入り組んだ都市は敵の破壊活動に有利に働いてしまう。
さすがに動揺を隠せない魔術師たちに対し、クリフは泰然と構えていた。いや、そう見せていた。上に立つ者が不安を見せれば、下の者たちまで広がってしまう。
だから彼もまた、ルーデンス魔導伯のようにあらんとした。勝利の象徴でなければならなかった。
「もう少し引き付ける。竜の攻撃が街に当たらないよう、防衛してくれ」
自分で言っていて、そんな無茶な、と思わないでもないが、彼らならやってくれるだろうという信頼があった。ルーデンス魔導伯が無理難題ばかりを言ってくる気持ちも今ならわかる。が、普段からそれでは参ってしまうだろう。この戦いが終わったら、もう少し優しくするよう進言してもいいかもしれない。
そう思った瞬間、遠方の飛竜の口が赤く染まった。炎だ。
火球が勢いよく放たれると、都市へと真っ直ぐに飛んでくる。魔術師たちは素早く風の魔術を用いて被害が出ないよう抑えるも、それがいつまで上手くいくかはわからない。
彼らに焦りが浮かんだとき、都市から幾何模様が浮かび上がってきた。それらは幾重にも絡み合いながら少女が持つ杖に集まっていく。
風竜翼の魔術を用いるための道具だ。オデットはこれをルーデンス魔導伯から武器として貰っていた。彼女が戦うための唯一の力と言ってもいい。
その幾何模様の完成はこれまで用いられたときと比べると、遥かに速い。今はただのレム教の信徒ではなく、魔術師見習いとして前線にこそ立たないものの訓練を受けている者が、魔術の形成に携わっているからだ。
迫ってきた竜が判断に迷っているうちに、幾何模様が撃ち出された。それらは絡み合い風の刃を生み出しながら、近くの空気を取り込んで肥大化し、ますます速度を上げていく。
飛竜との距離はあっと言う間に詰められた。
風の刃は強固な竜の鱗をずたずたに切り裂いていく。そのまますべてを巻き込んでいくかに見えたが、竜はそのとき一塊となって飛んでおり、中にいる個体にまで影響を与えることはできなかった。
都市に向かっていく竜の群れは巨大な生き物にも見え、あたかも鱗が剥がれるかのように傷を負った竜が大地に向かって落ちていく。
そうして集団から離れ高度を落としていく竜の群れから、一際大きな個体が都市へと急接近を始めた。
比較的外側にいたのだろう、全身は切り裂かれて赤く染まり、尾も中程から断たれている。だがそれでも、目は敵意に血走り、口から血を糧に炎を吐き出しながら、力強く羽ばたいた。
風竜翼の魔術が終わったのを確認すると、クリフは素早く魔術を起動させた。風読みの魔術を発動させたとき、あちこちに散らばらせておいたものだ。いくつにも分かれていた幾何模様が幾重にも重なりあい、一つの繋がった鎖のように変化していく。
都市を覆うように形成された幾何模様は、あたかも吸い上げるかのように、土を動かし壁を作り出していく。そして薄い膜のように半球が形作られると、錬金の魔術同様に少しずつ土が変質していき、強固な守りとなる。
が、たった一か所だけ、丸くぽっかりと空いた状態になったところがある。先ほど風竜翼の魔術が放たれたところであり、まだ避難が済んでいないオデットがいる場所だ。そして飛竜が突っ込んでいく場所である。
魔術の完成には間に合わないと見たクリフは、他の部分まで破壊されるよりは、とあえて防御しないことを選んだのである。
先に魔術師見習いたちの避難を済ませたが、最後まで残っていたオデットは、迫ってくる飛竜を見てなにもすることができなかった。
魔術に優れているわけでも、身体能力に優れているわけでもない。そもそも、こんな危険な場所に出てくるより、安全なところに引きこもっているほうがよほど正しい選択だったのだろう。
けれど、彼女は力になりたいと思った。自分にできることをしたいと思った。
その結果がこれならば悪くはない。でも――
飛竜が口中に炎を宿らせた瞬間、正面から飛来した緑の塊が竜の喉を突いた。体勢を崩した竜に、いくつもの塊が立て続けにぶち当たり、その勢いを弱め、腹から都市へ向かっていくような形に持っていく。
竜がオデットを見失ったとき、彼女の前にゆらりと影が現れた。
無造作に羽織っただけのちっともオシャレじゃないローブがひらひらと風に揺れていた。見慣れた無愛想な少年が剣を抜いていた。オデットの不安など、とうに掻き消されている。
「この怨嗟を糧に嘆け! 風の魔剣、リーズ!」
ディートの手首から絡みついていた黒の魔剣は、ひゅうひゅうと音を立てながら刀身に黒い風を纏わりつけ、どこまでも膨れ上がっていく。
向かってくる竜が体勢を立て直さんとした瞬間、ディートは跳躍した。
竜との距離は大きく、このままでは届きはしない。だが、彼が剣を振り上げたときには、すでに足元に竜銀が浮いていた。
それを足場にぐっと踏み込み、一気に竜の頭上に躍り出る。そして魔剣を振り下ろした。
黒い風が飛竜を飲み込む。無数の風の刃は瞬く間に竜を刻み、物言わぬ塊へと変えていった。たった一滴の血を撒き散らすこともなく、貪欲に血肉を求めた風は、ゆっくりと消えていく。
肉塊を纏っただけの骨が、市壁にぶつかって大きな音を立てた。
「ディートくん! ありがとう!」
感激するオデットを一度だけ振り返るとディートは、
「危ないから下がってろ」
ぶっきらぼうにそれだけを答えた。やがて土が穴を覆い、二人の間はすぐに塞がれる。
もう見えなくなったオデットを案ずることもなく、ディートは空を見上げた。迫ってくる竜がいる。
「ディート。これでお前も戦いに参加できるだろう?」
「……こんな魔術が使えるなら、あいつらもさっさと撃ち落とせ」
「無茶言うなよ。まあ、こっちは俺がやる。お前の相手は――ほら、新手のお出ましだ」
向こうから駆けてくる集団は、大きく膨れ上がった肉体を持っているが、僅かばかり人間らしさが残っている。彼らが、ルーデンス魔導伯が言っていた異形の化け物であろう。
加えて、今度はただ暴れるのみならず、身体強化の魔術を使っていることが窺える。それ以外の魔術すら使ってくるかもしれない。
こちらは数で勝る劣勢だ。敵の出方もまだはっきりとわかってはいない。
けれどディートはそれらを見て、負ける気などしないとリーズをくるりと回した。風の吹き抜ける音が寂しく響く。
「この剣の前で、そのような小細工など無意味と、思い知らせてやる」
少年らしい勇猛さで告げたディートは、珍しく感情を見せていた。今は自分次第でやれることがある。成せる結果がある。だから心だけは折れてはならなかった。
クリフはディートになにも言わずそれ以外の魔術師らに指示を出し、ディートの支援をさせるとともに、都市へと近づく竜の残党狩りを行うのだった。




