⑬もう少しそばに来てくれませんか、君が適切だと思う距離でいいから
シェリーンの体が揺すられる。「んん」と唸ると返事があった。
「ん、じゃねぇ。いつまで寝てんだ、ねぼすけ。もう終わったぞ」
「ん……」
シェリーンが目を開けると、すぐ近くに覗き込む端正な顔があった。黒く癖のある髪がシェリーンの額をくすぐる。
「わっわっ」
慌てて飛び起きると、意地悪そうに笑ったライルが席をたってカーテンのほうへ向かう。カーテンの向こう側に視線を走らせると、ステージには幕が降りていたし、会場の照明も明るい。
「結局どんなストーリーだったの?」
「身分差のある男女が駆け落ちして追われる身になったが、逃亡中に敵勢力の進軍を目撃。逃げるか知らせに戻るかの二択に迫られて……」
「迫られて?」
「そうだな。寝てたヤツに説明する義理もないし、また改めて観に来ようぜ」
カーテンに伸ばした手を止め振り返ったライルの表情は、場内の明かりで逆光となって見えない。ただその色気を感じさせる声音に、シェリーンは顔を赤くした。
ライルと観劇を楽しんだことは今までだって度々ある。もちろん二人きりではないけれども。だがこの誘いが今までの気安いものとは少し違うということくらい、シェリーンにだって理解できた。
しかも、次こそはあの強烈なシーンを回避することはできないだろう。
「う、う、受けて立つわよ!」
「決闘じゃねぇっての」
カーテンを引いたライルがソファーへ戻り、シェリーンに手を差し出して立たせたとき、イヤーカフがロイヤルボックス席の声を拾った。
『では行きましょうか。このあと、ティーショップはいかがですか? 劇の感想を言い合ったり』
『あ……ええ、いいわ』
そして扉の開閉音や足音が微かに聞こえる。ライルがシェリーンの耳に顔を寄せた。
「ターヒルは何を言われても断れねぇ。断れば本来ならお前にかけられた術が解けるはずだからな、偽物だってバレちまう」
「えっ、そういう魔法なの?」
「お前が、あいつの誘いや依頼を断ることがキーなんだ。それを理解しててもなぜか断れないのが、この魔法の怖いとこだけどな」
何か言いかけたシェリーンの唇に、ライルが人差し指で触れた。帰路につく人々の喧騒は少しずつおさまって静かになり、直接耳に届く外の足音が一瞬遅れてイヤーカフからも聞こえるのがわかる。ナヒッドとターヒルは思ったよりもすぐそばにいるのだ。
足音が通り過ぎ、ふぅと息を吐いて脱力したふたりの耳に、またターヒルたちの会話が飛び込んでくる。
『あ……シェリーン? そういえば、ブレスレットがないようだけど』
『えっ! ほんとだ、やだ、どうしよう!』
『どこかで落として来たのでしょう。わたしが探して来ますから、君はここで待っていて』
シェリーンとライルの視線が、シェリーンの左腕に集中する。
「くそっ、ロイヤル席に放り投げてくるわ」
ライルは両の手を使ってブレスレットを引きちぎり、扉ではなくカーテンをめくって舞台側へ飛び出した。
「ちょっと、ライル! ここ2階――」
思わず叫んだシェリーンだが、扉の向こう側から人が走り寄ってくる音が聞こえて口を手で押さえる。
もし彼が素直に扉から出ていれば、ナヒッドに姿を目撃される可能性があったのだ。と理解すると同時に、バタバタと駆け寄る足音が扉の前でぴたりと止まったことに戦慄する。
ノックの音。リズムこそ落ち着いているが、その響きには確信と焦りとが入り混じっている。
シェリーンが息をのんで扉を見つめていると、ドアハンドルがゆっくりと動いた。この劇場の個室に鍵はなく、隠れる場所ももちろんなく、シェリーンはただ扉が開くのを見ていることしかできない。
「ああ……やっぱり。おかしいと思ったんだ。第一幕ではぜんぜん集中できていない様子だったのに、内容をしっかり理解していたから」
扉を開け、目が合ったナヒッドの第一声はそれだった。
「ナヒッド……」
「酷いなぁ、シェリーン。替え玉を使われちゃうとさすがに傷つくよ。そんなにわたしと出掛けるのが苦痛でしたか?」
「そういうわけじゃ」
ナヒッドが個室内へ入って扉を閉めた。イヤーカフからシェリーンを心配するターヒルの声が聞こえる。
『シェリーン、近くにナヒッドがいるのかい?』
しかし返事ができる状況ではない。
「少し話をする時間をもらえますか?」
ナヒッドの言葉にシェリーンは目を瞠った。
話したくないとか、怖いとか、そういう感情は確かにある。しかし誤解を与えてしまったのだから話をしなくてはならないとか、友人なのに怖がるのは失礼だとか、そんな考えが感情を塗りつぶしていくのだ。
それを自覚できても、返答は変えられなかった。
「……ええ、もちろん」
「よかった。もう少しそばに来てくれませんか、君が適切だと思う距離でいいから……そうか、それくらいなんだね」
この狭い個室にあって、シェリーンの歩幅ふたつ分の距離は決して近いとは言えないだろう。
ナヒッドは一瞬だけ天を仰いだが、すぐにシェリーンへ向き直った。その表情はいつもの柔らかなものとは違い、覚悟を決めたような硬質さがある。
「君はわたしを友人だと思ってくれていたと思う」
「そうね」
「あまり親和的でない君にとって友人と呼べる存在はそう多くありません。いかがですか」
「まぁ、うん、そうとも言うかな」
「わたしも同じです。顔見知りは多いが、友と呼べる存在はそう多くない。わたしたちはお互いに良き理解者になり得ると思う」
最終上演の終わった場内は静かだった。ステージからセットを片付ける音と声が聞こえる程度で、シェリーンのイヤーカフさえ沈黙を守っている。
そして再び、ナヒッドが口を開いた。




