⑩これを観終わったとき、あなたとの関係が
ロイヤルボックスというだけあって、ステージ正面の2階席は広く快適だった。開演までにまだ時間があるとのことで、シェリーンとナヒッドは食事をしながら歓談を楽しむことに。
「今日の戯曲がどんなストーリーかご存じだったかな」
「すごく情熱的な話だって聞いたけれど」
給仕が二人の前で肉を切り分けようとするのを、ナヒッドが制止した。給仕は小さく礼をとって隅に控える。
「我が領地クライシュでは、ホストが肉を取り分けるんです」
ナヒッドはそう語りながら、慣れた手つきで肉を切った。前菜となる鴨肉のローストを3切れずつふたりの皿に乗せ、ナイフを置く。
「ありがとう」
「で、なんだったかな。ああ、この戯曲についてでしたね。愛し合う二人で見ないといたたまれない気持ちになるが、恋人と供に見ればその愛は深くなるとか」
「一体どんなお話なのか、ちょっと怖くもあるわ」
ナヒッドはグラスへワインを注ぎ足し、顎に手をやって眉根を寄せるシェリーンに勧めた。
「わたしはこれを観終わったとき、あなたとの関係が……そうだな、少なくとも『いたたまれない』と感じなければいいなと思ってる」
「それは――」
どういう意味か問い返そうとシェリーンが口を開いたたとき、開演を知らせるブザーが鳴って一部の照明が落とされた。
階下では慌てて席に着く者がバタバタとうるさくしていたが、そのうちに段々と静かになっていく。
シェリーンはワインに伸ばした手をピタリと止めた。体に異変を感じたのだ。具体的には、尿意。
「どうかしましたか」
「あ……えっと、これって確か2幕構成、だよね」
シェリーンの問いに、ナヒッドがパンフレットをめくった。足元の薄明かりをたよりにプログラムを確認して頷く。
「ああ、そうですね。全て終わるまでに2時間と40分で、幕間には20分程度の休憩を挟むとか」
「た、楽しみね」
シェリーンは椅子に深く座り直して、膝の上で手を握った。横からナヒッドが覗き込む気配があったものの、ステージの幕が上がって正面を向く。
舞台は主人公が国のために剣を振るう戦闘シーンから始まる。ヒロインは主人公が傭兵として加わった舞台の司令官の娘であり、これは身分違いの恋の物語だ。
主人公とヒロインが出会い、少しずつ距離を縮めていく中で、シェリーンは自らの手を握る力が強くなっていく。
座り直すたびに横目でナヒッドの様子を伺うが、その灰色の瞳はステージから離れない。シェリーンはストーリーの内容よりも、いつ幕が下りるかばかりに気がいって、あちこちに視線を泳がせてしまう。
「ん?」
観客席をぐるりと見回したとき、シェリーンは右手側のどこかに見慣れた黒髪が見えた気がした。
ギラス子爵の後援する劇場なのだから、ソハラなら席を用意することは難しくない。つまりソハラとライルが観劇デートしていてもおかしくないのだ。
その考えはシェリーンに少しの間だけ尿意を忘れさせたが、そう長くは続かなかった。
気を紛らわせる目的でもう一度、憎たらしい黒髪を見つけられないかと場内に視線を走らせるが、もはや集中することさえ難しい。気を紛らわせるどころか、その一点にのみ意識が集中してしまう。
「大丈夫ですか?」
「へぁっ!」
握りしめているシェリーンの手へ、ナヒッドが自らの手を重ねた。
シェリーンの全身の毛が逆立ち、反射的にその手を払ってしまう。彼女がハッとしたとき、ちょうどステージの幕が下りて場内の照明が点った。
「シェリーン、顔色が……」
「ごめんなさい! ちょ、ちょっとお花を摘みに」
勢いよく立ち上がり、振り返ることも淑女らしい所作もマナーも全て忘れてロイヤルボックス席を出る。
どうにか人間としての尊厳を失わずに済んだシェリーンは、鏡の前に立って身だしなみのチェックをする。
ぎゅっと掴んだスカートに少し皺がよっていて、それを両手でぴちぴちと伸ばす。
「結局、ぜんぜんストーリーわかんなかったな……」
深いため息をひとつ吐き出して、通路へと出る。微かにライルの声が聞こえたような気がして、足を止めて周囲を見回すが誰もいなかった。
2階は全てボックス席となっているが、幕間に通路へ出てくる人物はいないらしい。
もと来た道を戻って最初の角を曲がったとき、死角に立っていた人物と思い切り衝突してしまった。
「いった……」
シェリーンはぶつかった弾みで後方へと体が傾いた。が、ぶつかった相手がシェリーンの腕をとって支え、転倒を免れる。
「ありが――」
自身の右腕を掴む大きな手から順に、シェリーンの瞳が上を向く。シンプル故に素材の良さが際立つジャケットと広い肩幅。すっきりと長い首に黒くて少し癖のある毛先は、シェリーンにとってなじみ深いものだ。
ライル・ド・ベーダス。その名を呼ぼうとしたシェリーンの口を、ライルの大きな手が覆う。腕を掴んでいた手がシェリーンの腰にまわり、密着した状態で彼が囁く。
「静かに。事情はあとで話すから、来てくれ」
「んー! あいいっへ」
「シッ」
シェリーンは半ば担がれるようにして、その場を離れた。ロイヤルボックスから数えて4つ分の個室を過ぎた先の部屋へと入る。
「……どういうこと?」
じろりと誘拐犯を睨みつけると、ライルはすっかり締めきっているカーテンの端を持ち上げた。




