宣言 2 そして痛み
今の状況が、飲み込めない。
だって、私は今、碧さんに抱きしめられている。
彼の温かなぬくもりと香りに包まれている。
彼の囁きは、限りなく優しくて、こんなにも甘やかなのに。
「・・・はい?」
「・・・俺、もう綾ちゃんには近づかないから。今までごめん。」
「・・・・なんですか、それ。」
私は、彼の胸から顔を上げた。
なのに彼は、私の髪にうずめている自分の顔を上げようとせず、頬をそのまま、私の耳に滑らせた。
彼の吐息が、私の髪に絡まる。
「最初に近づいてきたのは、そっちですよ。」
「うん。」
「訳分かんない事言いだして、私を混乱させたのは、あなたじゃないですか。」
「・・・そだね。」
「それを今度は・・・何なんですか?」
「・・・もう、限界なんだわ、俺。」
低く、掠れた様な声。
それは私が初めて聞く、自信に満ちた碧さんの、揺れ動く呟きだった。
弱音。
「本当は、あの夏の日・・・あの日に会って、それで済ませるつもりだったんだ。でも君は・・・・。」
そこまで言って、彼はやっと顔を上げた。
射るように見つめる私の眼差しを、切なげに柔らかく受け止める。
私の髪を、優しくそっと掻き上げた。
「君もわかってんだろ?俺は、君を傷つけると思う。なのに今更、止まる事は出来ない。知りたい気持ちを無視する事は出来ない。」
「・・・・・。」
「でも君が近くにいると、・・・色々、気持ちが揺らぐんだよ。・・・やめたくなるんだ。やめて・・・君に触れたくなるんだ。」
「・・・・。」
「真っ直ぐな君を、壊したくない。・・・・ごめん。」
彼が指しているのは、事件の事。
まるで自分の気持ちを持て余しているかの様に、とつとつと言葉を繋いでいく彼。
そしてゆっくりと笑う彼はやっぱりとにかく綺麗で、こんなに素敵な人がいるんだと惹かれずにはいられなかった。
なのに、その自分勝手な言動。
「・・・言ってる意味が、全然わかんない。碧さんの何が、私を傷つけるっていうの?」
「・・・・。」
「私が事件を何か知っていて、それで傷つくの、私?」
「・・・綾ちゃん・・・。」
この人は、最初っからそうだった。最初から自由奔放で自分勝手で、私を振り回していた。
私は、自分の殻が破けていくのを感じた。胸が、焼けつくように痛い。
「・・・・碧さんは、ズルイ。」
私は、私の髪を掻き上げながら撫でている碧さんを、精一杯睨みつけた。
怒りのあまり、唇が震えているのが分かった。
もう、言葉が止まらない。気持ちが止まらない。
進みだした事態は、止められない。
「碧さんばっかり、言いたい事言って、碧さんばっかり、聞きたい事訊いて、碧さんばっかり、私を混乱させておいて。都合が悪くなったら、逃げて。」
「・・・・ああ。」
「傷つけたくない、とかさ、壊したくない、とかさ、ただの言い訳じゃない。自分が傷ついたり、壊れたりしたくないからだけでしょ?」
「・・・・ああ。」
「私の何を知っているって言うんですか?私の何を見ているって言うんですか?馬鹿にしないで下さい。私、自分の始末くらい、自分で付けられますっ。」
「・・・・ああ。」
「そもそも、会わない様にするって、まだ3回しか会ってないしっ。そんなの、宣言しなくったって済む事だしっ。黙って消えれてくれればいいじゃないっ。」
ああ、冷静に筋の通った事を言い続けているハズだったのに。
今まで想い溜めていた事を相手にぶつけているハズだったのに。
もう、自分が何を言っているのか分からない。
すごく、取り乱している。喚いている。
これじゃ、別れ話で手のつけられなくなったヒステリー女と同じじゃない。
碧さんの胸を叩こうと両腕を上げた瞬間、彼の両手が私の手首を掴んだ。
気付くと、歩道脇の建物の壁に、体ごと押し付けられていた。
彼の、荒々しいキスが降ってきた。
私は、言葉も息も、彼に絡み取られてしまった。
「わかったよ。そうだよ。俺が悪かったよ。・・・だから、泣くなよ。」
言われて気付いた。自分が泣いている事に。
悔しいっと思う気持ちも、目の前の出来事に掻き消されてしまう。
「馬鹿にしないで下さいっ。私っ、大人ですっ。」
私はまだ喚き続けた。
彼は私の唇の端ギリギリの所に、まだ甘さの残る自分の唇を滑らせてくる。
「うん。そうだな。」
「自分の独りよがりで、守っちゃっている様な事、言わないで下さいっ。」
「うん。そうだな。」
「碧さんなんて、最初に会った時から、嫌いですっ。」
「うん。そうだな。」
彼の唇が、再び私の唇を軽く掠めた。
「知ってるよ。でも・・・。」
彼は少し顔を離して、私を見た。
その瞳は、潤んでいてとても色っぽいものなのに、眉根に皺を寄せて私を見つめるその表情は、まるで少年っぽさを覗かせている様だった。
そのアンバランスさに、状況もわきまえずにドキンとする。
「俺は、最初に会った時から、・・・・君が頭から消えないよ。どうしようもなく。」
そう言って再び、今度はとても、甘い、甘いキスが降りてきた。
涙が、出てくる。
不甲斐無い相手に、涙が出てくる。
独りよがりの相手に、涙が出てくる。
あまりの甘いキスに、熱い吐息に、痺れる舌先に、涙が出てくる。
恋愛っていうものは独りよがりで。
誰もが相手に振り回されながらも、自分のルールで動いていて。
それが上手く、タイミングが合わない限り、先には進めないんだわ。
きっと、私達は、タイミングが悪すぎた。
彼が自分のルールで、私達の間に幕を引こうとするのであれば。
私が、先手を打ってやる。
私の人生は、私が決めたい。
この時の私のそれは、碧さんに縋りつく事ではなく、彼と離れてでも対等に立つ事だった。
長い、長い、目眩を誘う様なキスを終えた後、私は揺れる瞳で、まだ焦がれる様な唇で、彼に告げた。
「私、15年前に人が刺された所を見ました。」
彼の息が止まったのが分かった。
瞳が大きく見開かれ、驚愕の色が見てとれる。私は言葉を続けた。
「一人の男子生徒が、倒れている生徒の上に覆いかぶさり、ナイフか何かで刺している所でした。」
「・・・・・。」
「私は怖くなってその場を逃げました。後の事は知りません。それでいいですか?」
「・・・倒れている生徒を、刺していたのか?」
彼の口調はもう甘さを残してはおらず、低く、鋭い声色だった。
彼の中で、何かがオンになったのが分かった。
「前後関係はよく分かりません。そもそもよく見えてなかったので。裸眼だったんです。そう見えました。」
「・・・・・・。」
「正当防衛には、見えませんでした。いいですか?これで。」
私はまた、自分の視界が濡れ出したのが分かった。情けない。
「これで、もう、貴方とは会わずに済みますか?貴方の事、考えずに済みますか?貴方の事・・・・。」
真剣な表情で私を見つめる彼。
私の、精一杯の告白。最初で最後だから。
「想わないで済みますか?」
彼の瞳がキュッと細くなった。奥歯を噛み締めている様だった。
「ごめん・・・・ありがとう。」
こめん。ありがとう。
なんて典型的なフリ文句かしら。校舎裏の高校生じゃないのよ、私達。
そんな突っ込みを心の中で出来る私に、私は安心する。
大丈夫。まだ立てる。
私は自分の足で、まだ立てる。
「俺が言える台詞じゃないが・・・もう忘れるんだ。この件も、見た事も、全部。」
彼は私の両肩を両手で掴み、体を曲げて、覗き込むように私の瞳を捕らえた。
「全て、忘れろ。君にはもう、関係ない。」
よく言うわね。あなたが思い出させたくせに。
そもそも、私は殆んど忘れていたのよ、あなたと出会うまでは。
なのに、どこまで自分勝手な事を言うの?
「その顔、好きだな・・・すごく。」
彼は切なげにふわっと微笑むと、私をそっと、でもしっかりと抱きしめた。
彼の指が、私の髪の中に埋まって、爪を立てる。
プチン。
私達の唯一の繋がりが、切れた音がした。




