【ユミルとニック】ニック視点③
片付けるものなどなく、右から左に机の上のものを動かしたりと無駄な行為を重ねた末、俺はソファに倒れていた。
考えなければいけないことはあるのに、不安と期待とが交互に思考を遮り、それどころじゃない。
(……くそ)
扉を叩く音に、跳ねるように起き上がる。
「ユミル……」
「ニック卿、わた、わ……たし」
部屋にやってきたユミルはまた泣き出し、俺は咄嗟に扉を閉めながら引き寄せて、抱き締めていた。
(……ああもう!)
どうやら彼女に泣かれると俺は、マトモに考えることができなくなるらしい。
「わたしは……っ」
「……落ち着いてからでいい」
ユミルの身体は柔らかくて。
仕事終わりにすぐ来たのであろう、お仕着せのままの彼女からは、ユミルの汗と石鹸と、日常でつくあれこれの混ざった香りがする。
(──なんでだ……?)
欲望は、今もさっきも確実にある。
だが最初に涙を見たときは、邪魔なお仕着せを剥ぎ取って、滅茶苦茶にしてしまいたいほどに荒ぶった気持ちですらあった。
今、俺の肩で子供のように泣いているユミルに、そんな激しい気持ちはない。
あるのはもっと穏やかで凪いだ、仄暗い満足感のようなもの。
(……泣き方が違うからか)
無表情に涙を流しながらも、淡々とやるべきことをしていたあの時とは違い、感情を露に俺の肩で泣いている。
俺の一番は主であるにも関わらず、彼女がそうあるのが許せなかったのだろうか。
(いや、少し違うか?)
だが、かなり近い。
ユミルの気持ちが欲しい。
暴くのも抱き締めるのも、その本質は同じだ。
その形が彼女の行動で、少し変化しただけで。
誰よりも優しくしてあげたい──それは変わらないのに、その裏にある身勝手で残虐な心を理解した気がした。
色々理由をつけていたがおそらく本当のところは、きちんと優しくできるように、俺はユミルに判断を求めていたのだ。
受け止めるには、まず委ねてくれないといけないから。
ひとしきり泣いたあと、ユミルは顔を上げた。
涙で貼り付いた髪を避けるように、頬を撫でる。そのまま行為へとなだれ込みたい欲望に蓋をし、身体を離すと彼女をソファの隣に座らせた。
「……聞かせてよ、君のこと。 知りたい」
「ニック卿……」
たどたどしく、ユミルは話し始めた。
俺やティアレット様が羨ましかった。
縁談は受けるつもりでいたが、向けられる好意が苦しかった。
条件だけで自分を欲してくれたなら良かったのに、そうではないと期待をするのが怖かった。
仕事も中途半端で、どうしようもない。
──みたいなことを、ポロポロと断続的に零す。
正直なところ、俺にはあまり理解できない。
好意はないよりある方がいいし、仕事は充分よくやっているように見える。執務室に来た時だって、それこそ涙が止められないくらい心が乱れていたのだろうに、俺への説明はよくまとまっていた。職務への高い意識が根付いていると感じる。
だから聞いていて『なんて面倒臭いことを考えているんだ』と思った。
だが幸い、俺はもっと面倒臭い人間達を知っている。
(それに俺自身、表面上はともかく、深いところでは面倒臭い奴ではあったわけだしな……)
もし最初の泣き顔みたいな無表情でユミルが泣いていたら、乱暴に暴いていたような気がして……自分でも怖い。
それが怖いとか悪いとかいう認識すら、できなかったに違いないのだ。
話を聞きながら、ソファの背もたれに伸ばした方の手で、気付かれない程度にユミルの髪を弄ぶ。
気付かれて、批難するような目を向けられた。ちゃんと聞いているよ、と苦笑して答える。
「別に退屈とかじゃなくて、なんか落ち着くんだよ」
それは嘘ではなく、いやらしい気持ちからではない。今のところは。
むしろ「私は落ち着きません」と拗ねたような顔をするせいでちょっとそんな気になってきてしまい、慌てて話を戻した。
「ユミルの悩みなんてきっと俺にはわからないけど……理解するよう努力はする」
なにより告げてくれるのが嬉しかった。
誤解をされないよう、そのへんの気持ちをなるべく上手く、真面目に伝える。
──でも、顔を向けられるとダメだ。
顔を、表情を見てしまう。
落ち着きを取り戻しつつあるユミルの、身に付いているポーカーフェイス。それを崩すのは普段から堪らないというのに……油断しているのかちょいちょい出てくる、意識していない綻び。それに色々擽られる。
「だから俺にだけ話して」
真面目な顔で言おうと思っていたのに、つい耳元で囁くと、ユミルは真っ赤になった。
ああもう、そんな顔をしたら駄目だろう。
主に、俺の理性が。
(大体今の状況、わかってるのかな?)
手を出されたって文句は言えない状況だ。
ただ、出す気はない。
少なくとも、悩みを聞いている間は。
時折沸き起こる悪戯心から、余計に生殺しになるという自縄自縛だが、それにもひたすら耐えるのみ。
今後の信頼の為である。
そして俺は、きっちり我慢をした。
──悩みを全て吐き出し、落ち着くまでは。
その後ちょっと手を出したが……大体我慢をした、が正しい。
うん……アレだ。髪を弄ぶくらいで終われるわけがないのである。
ユミルは主と比べて不満を口にしたが、俺はあの人とは違う。
俺の『大事にする』はそういうことじゃない。どちらが間違いとかではなく、価値観の違いだ。
「でも君が嫌なら、これ以上しない」
割と当然のことを堂々と言ったようだが、俺なりの配慮である。
ユミルは多分、俺が求め『嫌?』と一言聞けば、本当に嫌でない限りは流されるのだろうと思う。
今は悩みを聞いたばかり。
ちょっと惜しいが、そういうのはまたでいい。まあ……そのうちする。
「ニック卿……」
「名残惜しいけど……部屋まで送るよ」
「……」
立ち上がろうとした俺の身体に、予期せぬ軽い抵抗。
振り返るとユミルが、俺のシャツの裾を握っていた。
「──違います! そうじゃなくて!……そういうのは、まだ……でも」
慌てふためき顔を赤らめて弁解したあと、不貞腐れるように逸らし、こう言った。
「……もうちょっとだけ、一緒にいたい……」
「──」
可愛さの暴力だ。
価値観は違えど、主を本気で尊敬した。
そのあと、ただ同衾した。
『これは無理だろ』と思ったが、意外と悪くない……むしろ、割と良かった。
翌日──
「……ニック、脱げ」
「ええええええええええええ」
物凄く切羽詰まった感じの主に、『たまには運動をしよう、そうしよう』と強引に誘われ剣技の稽古に付き合わされた。
ユミルが言っていたことから色々察した俺は、身体が鈍っていることもあり付き合ったものの、更に強引に上半身裸に剥かれた。
「なんすかもう……寒い! やだ!! ジロジロ見ないでッ!」
「いいぞニック、なかなか気持ち悪い。 目に焼き付けておく」
「…………」
この人はこの人で苦労しているようである。
上半身裸になった主の肉体は見事だった。
俺もそれなりには鍛えているし、いざというときの為に鍛錬は行っているが……細いしひょろい。比べ物にならない。
(別のいざという時の為に、もうちょっと頑張るか……)
多分、主よりその時は早い。
なにぶん、価値観が違うので。
今日ユミルはいつもよりツンツンしていて、俺はニヤニヤしてしまう。
隙を見てこっそり『部屋に来たくなったら、鍵を開けとくから先に言ってね?』とか言おうかな~などと考えて、その際のユミルの反応を想像する。
なにかを察したらしい主に、そんな元気がなくなる程稽古をつけられたので、『執務に影響が出る』とティアレット様経由で文句をつけておいた。




