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7-3 TS娘と幸せの歌

 鎖帷子すら身につけずに外に出るなんて、何年ぶりのことだろう。

 私を殺したいやつがいるなら、狙うのは今が大チャンスだ。



 私は酒場の近くの通り、薄暗い廃墟の影に入りこみ、そのまま荒れた地面に座りこんだ。


 辺りは一応人の暮らす領域のようで、いきなり害虫に出くわすことはなさそうな雰囲気だ。


 荒い息のまま、廃墟の隙間から空を見上げる。

 ハチか何かの影が、旧サセボアーケードのあたりを飛んでいくのだけが小さく見えた。


 地面の雑草にはまだ朝露が少しだけ残っていたようで、座りこんだ私のお尻のあたりに染みる感触がある。

 投げ捨てるみたいに、中身がぐちゃぐちゃのバックパックを下ろした。



 私は、なんてことを。


 大切な大切な幼なじみのハジメを。

 身体は別として、中身は男同士だというのに。


 こうしている間にも、昨晩の記憶はだいぶ戻ってきてしまっていた。


 昨晩のお酒の影響はほとんど身体には残っておらず、むしろゆっくりと眠れたことで頭は普段よりすっきりしているくらいだ。


 この世界で一番に信頼しているハジメのそばにいられたのだから、安眠できたというのはまあ自分自身納得できる。



 だけどこの身体が慢性的に抱えていた、ムラムラとくすぶる性的な意味での欲求不満がさっぱりと解消されてしまっていることは納得がいかない。


 男に抱かれたことなんて、思い返すのは嫌で仕方ないが何度もある。

 そのときにはある程度大きな快感を得てしまっていたのも、悔しいが認めざるを得ない。


 だけどこんなにも、全身がすっきりと満たされたような朝は、もうたぶん私が男だったころ以来初めてのことだ。


 めちゃくちゃに、気持ちがよかった。

 そのまま死んでしまってもいいくらい、幸せを感じた。


 自分がそう感じていた昨晩の記憶も、もうほとんど思い出してしまっている。


 私は照れ隠しみたいに、近くに生えている雑草をむしっては放り投げた。



 まあ少なくとも、一人の女として振る舞えはしたはずだ。

 この女の身体を見れば万が一にも、私が幼なじみのハルオかも知れないなんて考えはしないはずだ。


 だけど私を抱いているときのハジメの表情は、少し曇っていたのではなかったかと。

 その部分の記憶が、どうにも引っ掛かっている。



「あらお姉さん……ハリューさんでしたっけ? おはようございます。昨日はお話楽しかったですよ。ありがとうございました」


 急に横から誰かに声をかけられ、心臓が縮み上がった。


 焦って反射的に飛び退き、懐にいつも身に付けている短剣を手に取ろうとしたが、そもそも今日はその短剣さえバックパックの中だ。

 情けない、無用心にもほどがある。


 幸い、私に声をかけてきたその人は、全くこちらを害するつもりはなかったようだから助かった。

 もし相手が悪人であれば、今の呆けたような私なんて簡単に殺せただろう。


 急に身構えた私を見て驚いているその人は……記憶が確かならば、昨晩私とハジメがテーブルに呼んだ歌手の女性だった。


「すいません、脅かしちゃいましたね?」 


 声も記憶の中のその人と相違はない。

 私はふうっと息を吐き、気を緩めてまた雑草の上に腰を下ろしなおした。



 その女性は朝からすでに身綺麗にしていて、薄汚れたままの姿の自分が情けなく感じる。


 例えば私なんかじゃなくて、こういういかにも女性らしい美しさのある人が相手だったら、ハジメはもっと喜んでくれていただろうか。


 だけどそれを想像するだけで、自分の胸の奥が気持ち悪いくらいざわざわした。


 少なくともハジメが昨晩この女性の身体を買うことを邪魔できたことだけは、僕のファインプレーだったんだろう。



「……ねえ、昨日は僕、ハジメに……あの大男に、なんか変なこと言ってなかった?」


 女性はなぜかここから立ち去ろうとしない。


 せっかくなので自分の昨晩の記憶をたどりながら、あいまいな部分を彼女に確認してみることにした。


 座りこんだまま彼女を見上げると、彼女は朝の日差しで艶やかな髪を煌めかせながらおかしそうに笑っていた。


「何かっていうか……ふふふ、最後のほうはハリューさん、私じゃなくてあの大きな男の人を口説いてましたよね? すごくかわいらしくて、わたしまでドキドキしちゃいました」


 ああ……やっぱりね。

 なんとなく、思い出してはいたけれど。


 ハジメはこの女性を前にしても、なんだかあまり興味がなさそうな感じだったのだ。

 私のほうばかり見ていたし。


 だけど、それがもしかしたらハジメの作戦というか、気のないそぶりをしてカッコつけてるんじゃないかとか。

 疑いだしたら止まらなくなって、なんとかハジメとこの女性が夜を過ごすのを妨害しようと必死だったのだ。


 口説いたつもりはなかった、と思うけれど。

 かわいいのはまあ私くらい顔が整っていれば、そりゃ何をやったってそれなりにはかわいくは見えるだろうし。



「ハリューじゃなくて、ハルね……」


 一応、言い直しておく。

 たぶん昨晩は呂律が回っていなかったせいで、自分の名前すらうまく言えていなかったんだろう。

 少なくとも、ハルオ、だなんて名乗ってはいなかったようで助かった。


 とはいえそんなことより、重要なことが一点。


「ていうか、もしかして僕、じゃなくて私から、誘ってた?」


 ここ、重要だ。


 私の魅力に負けてハジメから誘ってくれたのだったら、まあ昨晩のことは百歩譲ってハジメのせいだと言えなくもない。


 自分が大事な大事な幼なじみであるハジメに対してそういう気分になってしまっていたことは、できれば認めたくはないし。


 ハジメにも、私が男を気軽に誘う尻軽だなんてふうには思われたくもないし。

 

「はい、まあどう見てもハルさんから誘ってましたけど……」


「あああああ……うわあああああ……」


 だけど案の定の彼女の答えに、薄々わかってはいたものの、私はもう呻くことしかできなかった。



 もう何もかも煩わしくなってしまい、そのままだらしなく雑草の上に寝転ぶ。


 ゆっくり目を閉じてまた開いて、もうどうにもならないこの現状が夢ではないことを改めて確認した。


「でも、本当にかわいらしい口説き方だったんですよ? 僕を選んでよ、僕にはお前じゃなきゃだめなんだーって。ふふ、なんだか男の子みたいなしゃべり方でしたけどね。」


 聞いてもいないのにひどい追い討ちの情報を聞かされてしまい、もうため息しかでない。


「あなたは……あの後結局、他の男のとこに行ったんだっけ?」


 興味もないのだが、そんな言葉を発して話題をずらそうとしてみる。


「ええ、おかげさまでちゃんと稼げましたからご心配なく。ハルさんに買って頂いて女の子同士というのも、ちょっとだけ興味はあったんですけどね。ふふふ」


 彼女はそういたずらっぽく笑うが、そういう魅力を彼女に対しては、昨晩も今も全く感じなかった。


 間違いなく彼女は美人だし、声ももちろん美しくて、めちゃくちゃタイプなはずなのに。


 最初のほうはたぶん私も彼女を口説くようなそぶりだけ、気持ちは乗らないにしても形だけはやっていたつもりだったのだけれど。



「でもハルさん結局昨日は良かったですね? あの人にほら、たくさん抱いてもらえたんでしょう? ふふ、実はお部屋がとなりだったんです。幸せそうな声が私がいた部屋まで……」


 良くないんだよそれが。


 なぜこの人は、私をもう放っておいてくれないのだろう。

 私からわざわざ変なことを聞いてしまったのが悪いのはわかるけど。

 あれか、ガールズトークというやつなのか。私はこれでも心は男のままのはずなのだが。


「もう言わないで……」


 たくさん声を上げてしまったことも、びしょびしょにシーツを濡らしてしまったことも、もうとっくに思い出している。


 記憶の範囲でも間違いなく二回、おそらく三回か四回は、私からあいつのことを求めてしまったということも。

 一度の過ちと言うには、ちょっと回数も多すぎたから。



 二回目からは間違いなく、ハジメもめちゃくちゃ嬉しそうに私を求めてくれていたはず。

 思い出すとこちらまでニヤニヤしてしまいそうになるくらいには記憶が鮮明だから、たぶん間違いない。


 ただ、ずっと引っ掛かっている部分がある。


 ほんの数秒だけ、最初の一回目、ハジメの顔がなんだか寂しげに歪んでいたような気がしたのだ。


 そして自信はないが、私がハジメを誘っていたというそのあたりのタイミングでも、ハジメは同じように寂しげな表情をしていたのではなかったか。



「ねえ、私に誘われたときさ、ハジメ……あの男はどんな顔してたか覚えてる?」


「……ふふ、どうでしたかね?」


 雑草の上に寝転んだまま彼女に尋ねてみたが、微妙な表情でそうごまかすみたいに返されてしまう。


「ですけどお二人はなんだか、すごくお互いが大事みたいな雰囲気で、うらやましくなっちゃいましたよ」


 彼女がそうフォローしてくれたから、もうそれ以上は深く考えないことにした。


 まあ、そりゃあ私はこれだけ美人なのだから、ハジメが大事にしてくれるのも妥当というものだ。


 私にとってハジメが大事だなんて、そんなのはもう滲み出てしまっても当たり前のことだし。

 ハジメは僕にとって世界でただ一人の相棒で、家族同然の幼なじみで、自分の命よりずっとずっと大事な存在なんだから。



 ただしこんな風に、男女の関係にだけはなるつもりはなかった……はずなのだけれど。


 求められればそりゃあ悪い気はしないし、こんな私でもいいのならいくらでも性欲の捌け口にしてもらって構わない。


 あいつの方から求めてくれるなら、きっと私はどんなことだってできる。

 別に今日の朝みたいに恋人扱いされたところで、嬉しくはあっても嫌だなんてことは一切ない。


 私にとっての幸せというものはきっとハジメのそばにいることで、たぶんもうこの世界にそれ以外は一つもないのだから、そういう未来も悪くはないに決まっている。

 


 いや、それはダメ。さすがにまずいだろう。

 何を期待してるんだよ私は。


 もう頭の中がぐちゃぐちゃにこんがらがって、自分自身何を考えているのやら。


 そもそもこんな私が相手では、ハジメに対して申し訳なさすぎるだろうに。



「素敵な恋ができてるんですね。今もすごく幸せそうな顔ですよ?」


 彼女がそんなことをからかうようなそぶりもなく言ってくるから、私は自分の頬がいつの間にか緩んでいたことを自覚せざるを得なかった。


「別に……そんなんじゃないよ」


 ふてくされたように言ってみるが、その自分の声が嫌になるほど女々しく感じてしまう。


 今の状況を、嬉しくなんて感じてはいないはずなのに。

 それを認めてはいけないはずなのに。


「そうなんですか? でも幸せって、粗末にしていたらいつの間にか消えてしまいますからね」


 見上げる彼女の顔は急にどこか寂しげで、昨晩のハジメがほんのわずかに見せていたそんな表情とだぶって見えた。



「……ねえ、あなたはどうしてここで働いてるの? こんなに綺麗で歌も上手なら、他にいくらでも……」


 本当は何の興味もないくせに、無闇に彼女の事情に踏み込むような言葉が口にしてしまい、途中でそれを止めた。


 誰にだって多かれ少なかれ事情というものはあるのだ。


 見た目が美しいというだけでも何の仕事もせずに生きていくことはできるかもしれないが、それを本人が幸せだと感じられるかは別問題。


 私だってそうであるように、誰もが何かを抱えて生きている。


「ふふ、私ね、毎朝ここで歌を練習してるんです。夜に私を買った男の人に何をされたって、ここでリセットできます。……ハルさんも、一緒に歌いますか?」


 彼女はぶしつけな私の問いには答えずに、そう言って笑った。


 私が元男であることを誰にも言えないように、彼女も彼女なりの言いづらい事情のなかで生きているのだろう。


 それを私が知ったところで何ができるわけでもなく、全く興味も持てはしない。


「……やだよ。私、音痴だからさ」


 それ以上問い詰める意味なんてないから、私はそのまま手元の雑草をむしり、目の前に力なく放り投げた。


 彼女はそのまま少し前に歩き、私なんていなかったかのように背を向けたまま、ゆっくりと音がするくらい深く息を吸い、歌を歌い始める。



 人は恋をして、愛を知って、それだけで幸せになれるのだと。


 昨晩も酒場で聞いた、あまり好きにはなれない歌だった。


 きれいな歌声だというのは、間違いなかった。


 だけど恋だとか愛だとかで幸せになるなんてあまりにも単純すぎる歌詞は、今の私にはちっともしっくりこなかった。



 オカヤマで死んだ、かつての私の恋人の願い。

 私が幸せに生きること。


 そのために必要なのはきっと、間違いなく、ハジメのそばで生きることだ。


 だけど、それはこういうことじゃない。


 抱かれるのは嫌じゃない。僕がハジメを愛しているかどうかで言えば、もちろんこの世界の他の誰よりも愛しているし大事に思っている。


 だけど、私は元は男なんだし。

 それがハジメに知られたら、もう僕は生きていけない。

 


 彼女の歌声が止まっても、私はそれからしばらく呆然としていた。

 

 風が少し吹いたあと私はようやく身体を起こし、雑に数回だけ拍手をしてまた空を見上げる。


 さて、これからどうしたものか。


 自分がやらかしてしまったこと。

 ハジメが今の私をどう思っているのか。

 もしもこの状態で、自分の正体がバレてしまったとしたら。



 自分自身の感情も、今は全く言葉にならない。


 だけど少なくとも、この女性が歌っているような恋だとか愛だなんて。そんな陳腐でありふれた言葉だけでは、今の私の心の中のぐちゃぐちゃは表現できないはずだ。


 すでに思い出してしまった、自分が昨晩の営みの中でうわごとのようにハジメに伝えてしまったたくさんの言葉。


 その、愛してる、大好き、なんて女の甘えて媚びたような言葉だけは、私の本心から出たものではないと信じたいのだけれど。



 廃墟の隙間から覗く空に、遠くでまたハチか何かが飛んでいるのが見えた。


 危険な距離ではないけれど、無用心な装備の状態でこんな屋外でだらついているのを咎められたような気持ちになり、私はようやく重い腰を上げた。


「またお店にいらして下さいね。お二人のお話、また聞かせて下さい」


 朝日の中でそう言って微笑んだ彼女は、やっぱり相当に美しい。

 だけどさすがに、またくるね、とは言えず。


 私は廃墟郡の雑草の上に投げていた重い荷物を拾い上げながら、うつむいて辛気くさくため息をつくしかなかった。

TSっ子の感情はぐしゃぐしゃでどんどんクソ重になってきています。彼女には今、心を安定させられる何かが必要です。


それは読者の皆さんからのブックマーク、ご評価。

もちろんご感想も頂けたら最高です。

ぜひ。この機会に。なんとか。どうかお恵みを。


なろうのアカウントがないからできない?

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