7-1 TS娘と幸せの歌
ハジメに連れられてきた大きな二階建ての酒場は、かなりの賑わいだった。
席はあまり清潔感がなかったけれど、ハジメと二人でいられるならもちろんどこだってかまわない。
酒といくらかの食べ物を注文し、しばらくは二人でとりとめもなく話を続けた。
食べ物も酒も特に素晴らしいわけではなかったけれど、10年という長すぎた時間を経て、こうしてまた同じテーブルでハジメと食事を共にできるようになったというだけで、酒が美味しく感じて仕方ない。
思えばこのサセボに帰ってきて以来、お酒を飲むのは初めてのことだ。
かつてオカヤマで荒れていたころはお酒に溺れてろくなことにならなかったので、それ以降はなるべく控えていたが。
今日は特別。
あまり酒に強いわけでもないのだが、翌日までひどく影響が残るタイプではないし。
酒に溺れていた日々のことは反省しているけれど、少しならいいよ、とハロワの受付嬢も言ってくれていたような気がするし。
この店では代わる代わる、舞台のようになっている壇上に女性が現れ、何かよく知らない歌を歌っていた。
客は思い思いに食事を楽しみながら、一つの歌が終わるたびに雑な拍手などを送っている。
興味もない歌にハジメとの時間を邪魔されているようにも感じてしまっていたが、次に現れた女性は見た目もかなりの美しさで、歌声も素晴らしく綺麗だった。
何より、着ている服も胸元が大きく開けていて色っぽくて。
酒場にいる男たちの視線も、みな彼女に釘付けになっている。
「あの子、めちゃくちゃかわいいね……こりゃ人気にもなるわけだ」
私ももちろん顔だけは負けていない自信はあるけれど。
よく考えてみれば、私が着ているのは仕事上がりの汚れて臭い装備のままで。
こんな姿でよくもまあハジメを誘えたものだと、調子に乗っていた自分を少し恥ずかしく感じてしまうほどだ。
壇上の歌手の女性は、恋や愛なんかがあれば人生は幸せだ、なんて綺麗な言葉ばかりを並べた歌を歌っている。
大昔の人類が作った歌なのだろうか。何もわかっちゃいない。
幸せっていうのはきっと、大切な幼なじみとゆっくり過ごすことができる、今の僕みたいな状態をいうのだ。
「すげえこと教えてやろうかハルさん。この酒場な、金を払えばああいう歌手やら給仕さんなんかに一晩お願いできるんだぜ」
ハジメは酒を飲んで少しだらしなく座った姿勢のまま、いたずらっぽく笑って僕にそんなことを教えてくれた。
確かに先ほどから、店の従業員と連れだって二階へ仲睦まじく消えていく男の姿がちらほら見える。
しかしそれって……。
「……ふーん。ああそっか、それでハジメはこのお店がお気に入りってわけか。あっそ。ふーん」
へー、そういうわけね。
はいはい。
僕はまだグラスにたっぷり残っていた酒をがぶ飲みし、音を立てテーブルに叩きつけるように戻した。
あーだめだ、気に入らない。
これは何か、許せない。
酔いが回ってきているのか考えがまとまらないが、何かダメだ。これはダメ。絶対ダメ。
ハジメらしくないっていうかさ、そういうのは良くない。ダメ。決して許さない。
「いやいや……ハルさんがその、女好きっていうか、そんな感じだからほら、そういう雰囲気の店なら喜んでくれるかもと思ってよ……」
思わずプンプンしてしまった僕に、ハジメは慌てたようにフォローを入れてくる。
そんなの全然喜ばないし。
別にこっちは女好きとかそういうわけじゃないし。
今日はただお前とゆっくり過ごしたかっただけなのに、わかってないな。
そもそも私をダシにして、自分が女を買いたいだけなんじゃないかと。
そう疑わずにはいられない。
「ほんとに? じゃあハジメは一回もああいう子たちを買ってないわけ? 誓える?」
「……買おうか、迷ったことだけはあるけどよ」
そう口にしながら、なんだか恥ずかしそうにうつむいたハジメを見て、僕は一気に胸のあたりがぱーっと暖かくなった。
そうそう!
お前にはそういうの向いてないってば。ヘタレヘタレ!
「さいてー」
からかうように言いながら、ハジメの大きな肩をパンと音がするほど叩いてやる。
たまらずニヤニヤ笑いしていると、ハジメはその火傷みたいなひどい傷痕だらけの顔を上げ、ぐいっと酒をあおった。
「なんでだよいいじゃねえかよ別に! ハルさんだって商売女も買ってたし、この前なんか売りやってるワーカーなんぞにドはまりして……」
こ、こいつ!
こないだまでは優しくしてくれてたくせに、人の弱いところを、もうからかってきやがった!
「うるさいうるさい! 僕には……じゃなくて私にはほら、事情があるんだよ! やむなく! やむなくだから!」
だけどそんな僕の言葉の途中から、ハジメはまた少し驚いたような表情になって、そしてゆっくりとうつむきどこか悲しそうな表情になった。
「……はは。なんかハルさんと話してると、やっぱりあいつのことを思いだしちまうな」
「昔の……相棒さんのこと?」
目が合う。
そしてまたハジメだけがゆっくりと目を伏せる。
「……ああ、ほんとにそっくりなんだ。その泣きぼくろなんかもな」
それは自分でもわかっている。
この女になった身体も顔も、多少は男だったころの自分の要素もありはするのだが。
泣きぼくろだけは、昔から全く変わらない、ずっと自分のままの同じ位置にある。
ハジメの大きな手が僕の右目の下、その泣きぼくろのあたりに当てられて。
ドキリとしたけれど、だからといって今さら過剰に避けるわけにもいかなかった。
自分の心臓が激しく音をたてているのは、正体を気付かれそうになったせいなのか。
それともハジメの男らしい手が、私の顔に優しく触れたからなのか。
似ていると思われるだけなら別にいい。
だけど僕がその幼なじみ本人だと気付かれてしまったら、きっとこのままハジメのそばにいることはできなくなる。
「……ちょっと間抜けな話し方なんかも、少し似てるぜ」
だからハジメがまたそうやってからかうような言葉を紡いでくれて、僕は心底ほっとしていた。
お願いだから、僕のことには気付かないで。
まだ僕を、お前のそばにいさせてくれ。
「……かっちーん。今のはムカつきました。こりゃかちんときました」
心臓はまだうるさいくらいに早く鼓動をたてている。
ごまかすように、なるべくかわいらしく思ってもらえるように、そう上目遣いに返してみた。
なんだか僕は、少し酔いすぎているのかもしれない。
これじゃあかわいいというより、子供みたいになってしまっているかな。
「まあでもあいつと比べるには、あんたちょっと美人すぎるな。なんだよその顔、ちょっとかわいくなりすぎたんじゃねえか?」
また少し、心臓のあたりがきゅっとした。
かわいいと言ってもらえて、嬉しく感じてしまったのも相当あるけれど。
かわいく『なりすぎた』なんて酔ったハジメの言い間違いで、自分の正体がバレたんじゃないかとまた焦ったのだ。
だけど、きっと大丈夫。バレるはずはない。
元は男だった僕がまさかこんな美女に変身しているなんて、考えつくほうがたぶん異常だ。
だから私はもう、昔のハルオという男の自分は捨てて、ハルという女として生きればいいだけなんだ。
そうすればずっとこうして、ハジメと仲良くしていられる。
私にはもう、男だった自分の過去も、大事にしていたハジメとの昔の思い出も、もう何もいらない。
ただハジメがこうして近くにいてくれたら、他には何もいらないんだ。
「何? 私を口説いてるわけ? ……ふふ、ばーか」
だから私がそうからかったとき、ハジメがまた少し曇ったような表情になったことにも、私は気づかなかったことにした。
「……ねえハジメ、あの人たちってどうやって買うの?」
とりあえずハジメの気を反らしたくて、私は壇上に目を向けながらそう尋ねた。
「え? ああ、声かけて自分らの席に呼んで、どかんと金を積んで……って感じみたいだぜ。ただ、いくら払おうが結局選ぶのは向こうだけどな。俺はこんな顔だし、ちょっと不利なシステムだよな……」
理解はしたけれど、それはちょっと腹も立つ。
ハジメは充分過ぎるほどカッコいいだろ。
顔の傷跡がひどいからって気にする必要もない。もっと自分に自信を持つべきだ。
「そんなの……」
言いかけて、私は止まった。
あまり余計なことを言うと、また自分の口からボロが出てしまいそうだったから。
「じゃあ勝負してみようよ」
本当に言いたいことはうまく言葉にならなくて、私の口からはくだらない提案だけが紡がれてしまう。
「あ? 勝負?」
ハジメのぼんやりした声を聞きながら、私は壇上の女性を指差した。
「女の僕と、傷顔のハジメ。どっちがあの子を落とすか、勝負といこうよ」
ハジメは、分かったのか分かっていないのか、実に微妙な表情だったけれど。
僕は構わず、懐からかなりの大金が入った袋を取り出し、立ち上がってそれを目立つように掲げた。
周りのテーブルからの視線が僕に集まる。
壇上で歌を歌い続けている女性もそのままこちらに目を向け、また後でね、と言わんばかりに手を振ってくれた。
なんともかわいらしい姿だけど、嬉しさは特に感じない。
もちろん、ハジメに勝てるつもりも勝つつもりもさらさらない。
あの歌手の女性は確かに素敵だとは思えるけれど、なぜだか今日は、性欲的な意味では彼女に何の欲求も感じていなかった。
ただなんとなく、ハジメとそんなおふざけみたいなことをしてみたくなっただけだ。
男だったころの自分の感性を、かつて親友としてふざけあっていた僕たちの記憶を、最後に惜しんでいるみたいに。
「はは、なんだよそりゃ。ま、せめてハルさんが失敗するように、必死に邪魔してやろうかな」
ハジメも仕方なく思ってか、私に続いて立ち上がる。
同じようにたっぷり今日の報酬が入っていそうな袋を、壇上の女性に向けた。
私とハジメ、お馬鹿なワーカー二人が、悪ノリしているようにしか見えない状況だ。
壇上の女性はハジメにも目を向け、同じように軽く手を振っている。
だけど、もしもハジメのこの誘いが受け入れられてしまったならば。
想像するだけで胸が苦しくなって、なぜだか涙腺まで熱くなった。
恋だとか愛だとか、いまいちピンとこない言葉にまみれたつまらない歌がようやく終わり、壇上の女性がまたかわいらしく頭を下げる。
周囲のテーブルから拍手と口笛と歓声が広がる。
壇上の女性が周りに愛想よく微笑んで手を振りながら、ゆっくりとこちらのテーブルへ歩いてくる。
私はハジメが今どんな顔をしているのか見ることができなくて、ただ立ち尽くしたまま、こちらに近づいてくる女性の方へ目を向け続けていた。
もしもハジメが、この女を抱いてこの夜を過ごすことになったなら。
いったい私はどんな気持ちで、その背中を見送るのだろう。




