29 暁前の静かなる攻防
読者の皆様、お読みいただきありがとうございます!
逃げる方法を考えようとして……酷い悪臭が漂ってきた。そのことに、思考能力が一瞬止まってしまった。
何この圧倒的悪臭。
いや、これが所謂『死臭』なのだろうか。
オーク鬼の死臭はまるで、生魚をハラワタも除かず炎天下の天日下に不衛生な路上で放置したかのような悪臭。鼻奥を鋭利な針先で突く様な痛みも覚え、涙が出そうになった。
奇妙に思い空気清浄フィルターを確認するが、ちゃんと貼られている……なるほど、フィルター越しからでも感じ取れる大変質の悪い悪臭なのか。最悪だ。
あまりの悪臭に吐き気を催し、口を咄嗟に抑えた。
これは王子の悪臭がなければ異世界悪臭ランキング1位に君臨していたレベルの公害的な悪臭だ。そのくらいに酷い。だって臭いを通り越して痛いのだから。これぞ痛い臭みってやつだ(意味不明)
王子の悪臭にさらされていなかったら私も耐えられなかったかもしれない(逆に言えば、王子はどれだけ臭かったかということ、感謝する気にはなれない)
『#!”%#$!$”%!$”%”$#!%!』
まるで呪われた電子器具の様な声が響き、周囲の体感温度が一気に下がっていく。生暖かかった空気は、息が白くなるくらい凍てついた。
音と寒さへ私は、ビクリと震えた。
せめてもう少し暖かい格好をしてくればよかった。
『!!!』
『!!?』
麓の草に震えだした手が当たり、ガサガサとしたその音へ一斉にオーク鬼の視線が向かった。殺意を帯びた、どこまでも無機質な、紅色の目が。
やばい、やばい、やばい……マジやばい
死にたくない!
咄嗟に掴んだ石を、投げた。前みたいな、カッと腹の奥が熱くなる感覚に合わせて。
思いの外良く飛んだ石。
カン、ボスッ……音を立てて、樹木に当たって麓へ落ちた。
『『『『『!?』』』』』
途端、着地したばかりの石へと集い出したオーク鬼。
あっという間の出来事だった。
石の当たった樹木はオーク鬼に触れられるとその場所から黒ずんでいった。そして葉が枯れ、あっという間に乾涸びていった。
最後に残ったのは僅かばかりの塵だけ。それも一瞬で風化した。
唖然と樹木の跡地を見るが、本当に何も残っていない。
冷や汗がツーっと背を伝った。
あ……あ、あぶなかったなよぅ!
今度こそ駄目かと思った(涙目)
過呼吸一歩手前な息を強引に整え、こぼれかけた涙を拭う。だが、涙は止まらない。声だけは、必死に抑えた。
泣いている場合ではない。
ばれないよう逃げ切らないと、今度こそ本当に死んでしまう。
さて考えねば……どうすれば逃げられる?
それに、時間はあまりかけられない。
悪臭もあるが、それ以上にこの冷気が厄介過ぎる。
ドライアイスの中に閉じ込められたかの如く、ひんやりゾワリと足元を伝って体の芯から冷えていく。この感覚が今は厄介極まりない。
あまりに寒いので、さっきから手足の感覚が鈍っている。このままではすぐにでも、転んで物音を立てて、オークを呼んでしまうかもしれない。
それにもう、ユールが限界である。
意識がないユールを撫でる。その体はびっくりするほど冷たい。
首元や手首の脈拍だけが、彼女が生きていることを示していた……それもさっきより、随分と弱まって来ている気がした。
体積が小さく、妖精らしく軽装姿のユールは、予想以上に冷え切るのが早かったのである。だから、あっという間に意識を失い危険な状態となった。
何故もう少し早く、気がついてやれなかったのか。
必死に温めようといるが、焼け石に水。全然体が温まらず、息も弱くなっている気がした。
加えて私も指先の感覚はほぼない。
私でさえこんな状況なのである。このまま放置すれば凍傷ができてしまうことが容易に想像できた。ますますユールの夢である女騎士が遠ざかってしまう。
もうこうなったら一か八かで逃げるしかない、か。
震え始める足を叱咤して、思考を巡らせる。
せめて、どの方向へ逃げるかだけでも考えよう。
逃走ルートの完全な確保は無理だが、敵の位置くらいはわかる。
ふむふむ。前方にはオーク、後方にはオーク、ついでに左右にもオーク……なるほど、四方八方オークが多数いるな。つまり四面楚歌、と。
見事状況が悪化していることだけは理解した。
逃げなれない?
いや、諦めるのはまだ早い。まだ2方向、上下方向が残っている。
観察すると、オーク鬼はどうやら飛べないし、潜れない様である。ならば、潜る方は無理でもオーク鬼の頭上にいれば、何とかやり過ごせるか?
……よし、少し生存への希望が見えてきた。
では上下のうち、上を選択。
背の高い木がすぐ隣にあるので、これを登ればいいか。幹の位置と太さから、可能かと判断できる。このくらいならば、私1人分を乗せても折れないだろう。
問題は、さっきみたいに木を枯らした現象。
さて、この木をどうやって保護する?
オークを近づけさせないためにはどうする?
そうだな。
簡単ではないが、音を立てないように消音機能のある『結界』を貼ればいい。ただ、私の力では全力でやっても保って5分。魔力を残すことを考えれば3分くらいか。
3分以内にこの大木を登るのか……前世なら兎も角、貴族令嬢な現状私にできるか?
いや、やらねばどの道死あるのみ。
それに、私が死ねばユールも道連れ……絶対完遂せねば!
登る時の音は『結界』術式を組み立てていく。
消音は、可聴領域の波長に対して反対の波長を自動発生させる方法で消すように。加えて、質量がある(と思しき)オーク鬼が空気抵抗を受けるよう、結界への物理的接触で土石の壁が生じるよう設定。
生物への効果は絶大なオーク鬼だが、石や土地への影響はどうやらないらしい。さっき投げた石も風化せず、また、奴らの通った場所が抉れていないのが証拠だ。
チャンスは一度きり。
やるか、やるぞ!
発動。魔力を流していく。
『!!!』
付近の奴が早速何かに気づいたように舞う。魔力を使うと空気の組成が若干変わるのまで感知するのか……厄介な。
石を再び投げて攪乱する。やはり、大きな音へ反応しやすいらしい。
石の残弾数は後2個。
魔力エネルギーで術式を起動させると、起動した通りの効果が次々発揮されていく。
今回だったら、結界に関する『種類』『範囲』『対象』『時間』『開始タイミング』を命令文へと書き込んでおいた。そして、その通りに発動した。
ここで少し安堵する。
術式に過不足があれば良くて起動せず、悪くて誤作動を起こして爆発する。今回は即興だったので不安だったが、何とかなった。あんまし得意な分野ではないが、うまくいってよかった。
その状態を維持したまま、今度は木を登っていく。
前世では経験があるも、今世では初めての体験となる。
だがあまり心配はなかったようだ。火事場の馬鹿力で、ひょいひょいと登って行った。
途中令嬢の柔らかい指へささくれ立った樹皮が早速刺さる感覚がした。それに多分、このぬめり気は手汗だけなく、血も含まれているだろう。
だが、アドレナリンがドバドバ出ているのか痛みはない。
ただただ、結界稼働時間が気になり、またオーク鬼が来ていないかが心配になった。
思わず下を見て、見たことを後悔した。
『#!”$”!$!”#!!”$”!$!$!”%!$#%#$”%#』
土石の結界に阻まれ、機械音を荒げるオーク鬼たち。
霧状の黒い靄が土石へぶつかるたびに、軋むような音が聞こえた。一応強度は煉瓦並みの耐久度を想定し、一枚岩構造にしたが、それもどこまで保つか。
ポケットにしまっておいた石を取り出し、なるべく遠くへ投げた。
石残弾数は2個。
カン!
小君いい音が鳴り響いた。
オーク鬼は音の発生源へ一斉に振り返った。
そしてそこへと向かっていく。
その様はまるで黒い奔流が一気に押し寄せるようで、恐ろしくなった。それに、こうして上から見ればわかるが、オーク鬼はまだ続々と、湧いてきている。
絶望感が一瞬押し寄せるが、何とか耐えた。
そうだ、まだ私は生きている!
魔力はもう限界。さすがに結界の維持はもうできない。
でも、ほぼ登り切った。
ここなら一応、木が死ななければ私も死なない。奴らを寄せ付けなければ、生存フラグは立つ。
それにもう空は白い。後もう少しで暁が見える。
夜行性と思しきオーク鬼も陽光下ならば、逃げ切れるかもしれない。
木へと体を凭れさせ、カバンから取り出したハンカチで血だらけの手を拭い、別のハンカチへとユールを包んで懐へ入れた。
まだ冷えているが、さっきよりはマシ。
やはりあの冷気はオーク由来のもの。だってここは空気が生暖かいままである。
……早急に離れて正解だった。きっと、想像以上に危ない状況に私もユールも置かれていたのだろう。
後もう少し、もう少しだけ頑張ろう。




