114 リーンハルト邸にて(アレクサンダー視点)
王宮でリリアナと会ってから三日後。アレクサンダーはカーテンを閉め切った室内で、最愛の王女の名前をただひたすらに呼び続けていた。
「リリアナ様リリアナ様リリアナ様リリアナ様リリアナ様リリアナ様リリアナ様」
執事が激しくドアを叩き、時折「アレクサンダー様!」と絶叫する声も聞こえてくるが、ただ一心に呟き続けるアレクサンダーの耳には、他人事のように感じられる。
頭に浮かぶのはただ、リリアナと出会ってからの日々のこと。
学院長から「この方がリリアナ殿下よ。慣れるまで貴方が面倒を見て差し上げてね」とストロベリーブロンドの少女を紹介されたこと。くるくる変わる表情や明るい笑い声、破天荒な言動に、気が付けば魅了されていたこと。リリアナの周りには次第に人が集まるようになったが、リリアナはいつだってアレクサンダーを一番に優先してくれたこと。共に挑んだ様々な冒険。他愛もないお喋り。試験前は勉強を教え、実践演習ではグループを組み、創立祭ではエスコート役を務め、そして――。
――ねえアレク、私たち、死ぬまでずうっとお友達よ……!
そして追憶はいつもそこで唐突に幕切れを迎える。
あれだけ一緒にいたのに、誰よりも特別な絆があったはずなのに、リリアナは近い将来アレクサンダーの元から居なくなる。新しい国に行って新しい男と手を携えて、新たな冒険へ繰り出すという。
そして残された自分は――自分は一体どうなるのだろう。
――ユージィン殿下が国王となった宮廷で、文官になるつもりなのかい? 一生下っ端のままでこき使われるのが関の山だな。いや出世できないだけならまだいいよ。国王から露骨に毛嫌いされている文官なんて、同僚や直属の上司からよってたかっていびり抜かれて、退職にまで追い込まれるに決まっている。
――君がぺらぺらとラングレー嬢に喋った地下神殿の一件は、当然ユージィン殿下にも伝わっている。そして大いに問題視されているはずだ。ユージィン殿下はあの通り融通の利かない石頭だし、邪神の脅威を大真面目に考えているからな。あれに関わった人間が王宮で出世することを絶対に許さないだろう。
――あとはどこぞに婿入りするしかないわけだが……今さら君を婿として迎え入れる家があると思うか? いつもリリアナ殿下を優先し、婚約者をないがしろにし続けた挙句に婚約解消された君を。
オズワルドの嘲り声が、アレクサンダーの耳によみがえる。
彼が言っていた通り、リリアナと結婚できなければ、アレクサンダーの将来は絶望的だ。文官にもなれず、婿入りも出来ず、一生公爵邸の部屋住みで、兄夫婦や甥姪たちに厄介者扱いされながら、身を縮めて暮らす羽目になる。そして時折リリアナが夫のヴィクターと共に刺激的な毎日を楽しんでいることを、風の噂で聞くのだろう。
(……嫌だ!)
アレクサンダーは思わず床を拳で叩いた。
(嫌だ嫌だ嫌だ、そんな未来は真っ平だ!)
しかし拒んだところでどうにもならない。
リリアナはすでに選んでしまった。もはや誰にも止められない。
「なんでリリアナ様なんでリリアナ様俺の方がリリアナ様を俺の方がその男よりずっとずっとリリアナ様を」
仕方ない。リリアナはずっとアレクサンダーのことを「お友達」と言っていたのだから。ただアレクサンダーが期待しすぎただけ。自分がリリアナの伴侶に選ばれるだなんて、勘違いする方が悪いのだ。
――いや、勘違いする方が悪いのか? 本当に?
リリアナはいつも当然のようにアレクサンダーに腕を絡め、手を繋ぎ、嬉しいときには抱き着いてきた。「顔が赤いわよ、熱があるんじゃない?」といってこつんと額をくっつけてきたこともあれば、「眠いんだったらここで寝てもいいわよ」といって膝枕をしてくれたこともある。「これは秘密だけど、アレクにだけ教えるわね」と耳に息がかかる距離まで唇を寄せてきたこと。「それ美味しそうね、一口ちょうだい」といって、アレクサンダーが口をつけたグラスから果実水を飲んだこと。初めて屋台で買い食いした時は、慣れない食べ物に悪戦苦闘するアレクサンダーを笑って、「ふふ、アレクったらほっぺに付いてるわよ?」と頬についたクリームを指ですくって、ぺろりと舐めたことさえも。
あれは本当に「ただの友達」の距離感だろうか。勘違いをした自分が全て悪いのだろうか。
元婚約者であるクローディアも言っていたではないか、「友人にしては距離が近すぎます!」と。あのときは「下種な勘繰りをするな」と腹を立てていたものの、心の底ではアレクサンダー自身、リリアナに友達以上の扱いをされていると感じていたのではなかったか。
そうだ、悪いのは自分ではなくリリアナだ。思わせぶりな態度でアレクサンダーを散々振り回しておきながら、素知らぬ顔で他の男と結婚するなんて、あまりに身勝手な振る舞いだ。
とはいえ、リリアナにそんなつもりはなかったのだろう。どこまでも無垢で純粋だから、異性との距離感が人とは少し違うのだ。地上に降りた天使のふるまいを人間の基準で判断したアレクサンダーがやはり悪いのだ。
リリアナが悪い。リリアナは悪くない。リリアナのせいだ。自分のせいだ。可愛いリリアナ。無神経なリリアナ。天真爛漫なリリアナ。身勝手なリリアナ。
相反する感情がせめぎ合い、頭がおかしくなりそうだった。
ただ確かな思いはひとつだけ。
「あの男には渡さないあの男には渡さないそれくらいならリリアナ様をいっそこの手でリリアナ様を――」
次第に声が大きくなり、目は限界まで見開かれ、そして――
「アレクサンダー様!」
いきなり肩を叩かれて、アレクサンダーは思わず悲鳴を上げた。振り返ると白髪頭の執事が困惑した表情を浮かべて立っていた。
「なんでここに……鍵を閉めておいたはずだぞ!」
「何度お呼びしてもお返事がなかったので、合鍵を使わせていただきました」
「なにを勝手なことを――」
怒りの声を上げるアレクサンダーに、執事は「王太子殿下とその婚約者であるラングレー様がお見えです」と重々しい声音で告げた。
「ユージィン殿下と、クローディアが……?」
「王族と準王族の方がわざわざ足を運んで下さったのです。今、サロンでお待ちいただいておりますので、どうかお顔を見せるだけでもお願いいたします」
執事はそう言って深々と頭を下げた。
アレクサンダーがサロンに入ると、ユージィンは「久しぶりだね、リーンハルト」と柔らかな笑みを浮かべて言った。
「ご無沙汰しております、ユージィン殿下、それからクローディア……いえ、ラングレー嬢も」
つい慣れた呼び方をした途端、ユージィンから冷ややかな目で睨みつけられて、アレクサンダーは慌てて言い直した。
「ええ、久しぶりですわね、リーンハルト様」
クローディアがユージィンの隣で挨拶を返す。
「体調が悪いときにいきなり押しかけてすまないね。今日は君に伝えたいことがあって来たんだ。他でもない地下神殿の一件だ」
その言葉に、アレクサンダーの背筋に戦慄が走る。この二人は一体なにを言いに来たのか。
「君たちがあの神殿でしたことは、クローディアから聞いている。君たちは生徒の規範となるべき立場でありながら、立ち入り禁止区域に入り込んで邪神の地下神殿に足を踏み入れ、あろうことか邪神の眷属を目覚めさせた。早い段階で巨人を破壊できたから良かったものの、下手をすれば国中に被害が広がっていた可能性もある。そのことについてはきちんと反省してほしい」
「はい。もちろん、あのときのことは深く反省しております……!」
「ただ、その件で最も責めを負うべきは、首謀者であり、王族であるリリアナだ。そのリリアナがなにも咎められることなく隣国の王太子妃となるというのに、君が一人で責めを負うのはあまりに不公平だと思う。だからあの件で君に不利益を課すつもりはない」
「え……」
思いがけない言葉に呆けているアレクサンダーに対し、ユージィンは「――だから、もし君が将来文官の仕事に就くつもりなら、君が不当な扱いを受けることのないように取り計らうつもりだ」と言葉を続けた。
「君は本来まじめで優秀な人間だと思っている。あの失敗を糧として、今後は皆の模範となるような立派な働きぶりを見せてくれることを期待している」
「は、はい! ありがとうございます。ご期待にお応えできるように精進いたします……!」
アレクサンダーは感動に震えながら頭を下げた。
絶望的だと思っていた状況で見えた、一筋の光明。それがまさかユージィンによってもたらされるとは、信じられない思いだった。
一体どういうことだろう。ユージィン・エイルズワースからはあまり好感を持たれていないと思っていたのだが。
(……もしかしてクローディアが取りなしてくれたのか?)
アレクサンダーがクローディアの方に視線を向けると、彼女はにこりと微笑んだ。
やはりそうだ。クローディアが取りなしてくれたのだ。
「ところでリーンハルト様、今日は私からもお話がありますの。つかぬことをうかがいますが、最近変わったペンダントを渡されたことはありませんか?」
「ペンダントを? いや、知らないが」
「それなら良いのですが……実は最近、失恋に効くとか、触れると気持ちが高揚するとか、頭がすっきりして集中力が高まるとかいった効能を謳ったペンダント型のアミュレットが出回っているらしいんです。でも実際は怪しげな代物で、健康被害も相次いでいるため、問題になっているんだとか。もし誰かからおかしなペンダントを贈られたとしても、けして身に着けたりせずに、私かユージィン様にお伝えいただきたいのです」
「あ、ああ。分かった。そんなものを持ってくる人間が居たら、君に伝えることにする」
「ありがとうございます、お願いしますわね、リーンハルト様」
クローディアは再びにっこりと微笑んだ。
その後ユージィンは「長居すると君の身体に障るから」と言ってクローディアと共に公爵邸をあとにした。
二人が帰宅したあと、アレクサンダーは空腹を覚えて、厨房にスープを用意させた。リリアナと会って以来、実に三日ぶりの食事である。失恋の痛みは相変わらず胸を苛んでいたが、これまでのような悲壮感はなくなっている。
ゆっくりとスープを味わいながら、アレクサンダーは先ほどのクローディアの言葉を思い返した。唐突になにを言い出すのかと驚いたが、要は自分を心配してくれているのだろう。
ユージィンの隣で控えめに微笑む姿はしっとりとしてたおやかで、美人だな、と素直に思えた。
自分は何故あんなにもクローディアを毛嫌いしていたのだろう。
クローディアに「お前を見ていると虫唾が走る」と告げた時の、絶望に歪んだ表情を思い出す。もしあんな風に罵倒しなかったら、「リリアナ様とはただの友人だ」と言う程度に留めていたら、彼女は今でもアレクサンダーと婚約していたのだろうか。
(馬鹿な……俺はなにを考えているんだ)
アレクサンダーは頭を振って、今しがた浮かんだ考えを追い出した。
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