49 10月30日 太田城 午〈うま〉の刻(午前12時ごろ)
政宗と共に太田城に来ている。この太田城こそ佐竹氏の本城だ。だが規模こそ南北約1kmと大きいが極端な要害ではなく、東側に沼地こそあれど南北にのびる標高差の小さい丘陵の一部分を切り取り空堀と郭を連ねただけの、どちらかと云えば政庁としての機能を重視した立地になっている。戦国時代の城としては非常に珍しい立地だ。現実に、過去、城の付近で争乱が起きた場合も城に籠城した事例は殆どなく、周囲に散らばりゲリラ戦を展開して撃退する事が多かったらしい。
正面に座すは隠居…とは名ばかりの佐竹義重だ。つい最近まで佐竹家の武力を発動する場合の主将でもある。黒田家が官兵衛に心酔する豪傑が多いのと同様、佐竹家でも一定数の剛勇が従前と変わらず義重に従っている筈だ。
「治部少輔殿には此度も世話になり申す。だが、よもや伊達殿を援軍に連れて来るとは…ふ、ふ。やはり最早儂の出しゃばる時代では無いかのう。」
佐竹と伊達は人取橋の戦いで死闘を演じた宿敵だ。伊達の援軍は義重には信じられぬ思いだっただろう。
「ご冗談を。佐竹の武勇は義重殿抜きでは語れませぬぞ。義宣殿も後ろに義重殿が有ればこそ安心して徳川と対峙出来ると云うもの。」
「ふふ。義宣の戦いなど楽なもので御座るよ。なにせ此度は大戦では有れど負けの無い戦。水戸で勝とうが負けようが、義宣の武功になる。」
やはり戦国生え抜きの義重だけの事がある。既に大きく関東が包囲されつつある今、徳川勢がたとえ水戸を抜いたとて其処が攻勢限界点。常陸の北の端まではとても息が続かない事を見切っている。
「流石、義重殿。お見事な見立てで御座る。されど、どうせなら佐竹家でも独自に武功を挙げられては如何かと思い、罷り越しました。」
「ふむ?勿論、武功は挙げるが良いに決まっているが…わざわざこの義重を引っ張り出さねば成らぬ手立てなど………?」
「単刀直入にお尋ね致す。この常陸から西に進軍して宇都宮の背後を直撃する事は出来ませぬか?」
「何?西へ直撃とは………治部少輔殿は軍略は不得手と聞き及ぶが、なかなかに奇想天外な事を思いつかれる。ふうむ。西へのう………結城へなら、行けぬ事は無いが。」
水戸から結城へは後世に結城街道と呼ばれる道がある。現在の国道50号線とほぼ重なる経路で谷間を繋いで西に辿っていくと結城に出る事ができる。だが此れでは南にズレ過ぎていて宇都宮に奇襲する事は出来ない。そこで昨夜描いておいた略図を広げて説明する。
「その谷間を繋ぐ経路では南に寄りすぎて敵中に孤立してしまいましょう。そこでこの道で御座るが、ご存知有りませぬか。」
「ううむぅ?何だこの道は。地形を無視して山地を真っ直ぐに伸びているではないか。こんな馬鹿げた道など造る奴が居るのか?だが他の道は確かに今有る道だが………。治部少輔殿、この図はいったい誰が描いた物なのだ?」
「義重殿。この図は千年前の大君が命じて造られし官道の記録で御座る。この通り、理に叶った道が殆どで御座るが、当時の役人も常陸が南北にしか繋がって居らぬ事を危惧したのでしょうな。常陸から真西に道を造り下野国府に繋いだ様子。実はこのような今は使われなくなった道の記録が日ノ本にいくつか有り申す。皆地形を無視して真っ直ぐに拠点間を繋ぐ道で御座る。」
「そうだったのか。真壁氏幹をこれに!」
程なくして真壁氏幹が呼び出される。真壁氏幹は下野方面の戦線で武名を挙げた武将だ。義重と縁が深く此度も義重の側付きで居残っているのだろう。先祖累代の所領も下野に近い場所にある。
「氏幹、これを見よ。このような道をうぬは聞いた事が無いか?」
「………?こんな場所に道など御座らぬが………。」
「千年前には官道が有ったらしいのだが。」
「ほぅ。千年前の道で御座るか。」
「通れそうもないか?」
「いや………此処までは確実に行けまする。」
氏幹が大神駅のやや手前を指し示す。
「此処にちょっとした集落がありまする。確か………おお、そうそう、上古内とか。此処には正に千年前からと言い伝えのある鹿島神社が御座るので、常々一度は行ってみたく思って居り申した。」
なんでも此処の鹿島神社は幾多ある鹿島神社の中でも特別で、この地域の木材を使って全国の鹿島神社が維持されているとのこと。祀られている神様は勿論武甕槌さま。天児屋命が鎮斎したと云うから大和王権草創期にまでさかのぼる。ここを官道が通っていたとしても全く驚くに値しない。
「おお、やはり千年前!、大当たりでは御座らぬか、義重殿!」
一気に場がどよめく。
「お待ちくだされ。確かに上古内までは行けまする。そして、そのずっと西、そこには確かに宇都宮の真東付近に当たる下野の茂木庄が御座る。が、上古内と茂木の間の国境には険しい山地が有るばかり。道も川も無く、とても軍勢の移動は叶いませぬ。」
「ふむ…やはり駄目なのか…せっかく整備された官道が放棄されるにはそれだけの理由が有ると…」
「義重様は茂木に軍勢を運びたい、そう云う事で御座るな?」
「うむ。その通り。徳川方に知られず密かに宇都宮の側面を衝きたいのだ。」
「いや、各々方、その前に茂木庄に軍勢は駐屯して居るのか?敵方が駐屯していては行く意味が無く成ってしまうが。」
「治部少輔様、おそらく茂木庄には軍勢など居ませぬ。茂木庄は古い集落で御座るが今も鎌倉殿以来の御家人地頭が代々治めているだけの戦国から取り残された田舎村で御座れば。」
「そうか、ならば敵兵の心配は不要か…」
「治部少輔様、義重様。軍勢を茂木に進めるのなら、いっそ那珂川を遡上されては如何か?茂木庄のすぐ北を那珂川が流れておりますぞ。」
「何?氏幹、それは真か?那珂川はもっと北西を流れて居ると思うていたが。」
「義重様、那珂川は全体としては北西から流れて来て居りまするが、この茂木庄まで南下してきて急に東に曲がって居るので御座る。」
「そうだったのか。」
この当時現代のような正確な地図などは無い。細かな地形は地元の人間しか詳しくは知らないのだ。
「那珂川は大河で御座れば軍勢も川筋伝いに遡上出来ましょう。上杉殿の志駄義秀殿も此度最上川を遡上して大功を挙げられているとか。我ら佐竹もその顰に倣うのが宜しいのでは。」
河川伝いであれば河岸段丘や自然堤防も利用出来る。ほぼ平坦な道同然なので軍勢も楽に進める。道に迷う心配もなければ飲用水もその場で補給出来る。多少遠回りになっても時間的な距離は山中を直線的に強行突破するよりはずっと短いだろう。なにより直近に成功体験も有る。
「それだ! 流石、真壁氏幹殿。漸く現実的な作戦が練れそうですな。」
「氏幹、河伝いであれば、万が一の場合の退却も問題なさそうだな。」
「はっ。宇都宮の東側に敵が出現するとは誰も考えますまい。退路を絶たれる恐れは御座るまい。やや遠距離の移動ですが五千程度が一回や二回の補給は茂木で現地調達も出来ましょう。那珂川の道中まで小荷駄を運び込んでおけば万全かと。」
やはり五千か。志駄義秀の隊も似たような規模だったはず。これが現実的な数字なのだろう。
「うむ。となると、残りは何時攻め寄せるのが最も効果的か?だが。会津中納言殿(上杉景勝)が宇都宮に取り付くのはいつ頃になりそうでしょうな、伊達殿。」
「そうですなぁ、我らの倍近い兵力の移動なれば、今頃やっと下野国境を超えた当たりで御座ろうか。おそらく宇都宮以外の周辺の城は半ば放棄されていようが、大田原城はきっちり落とさねばならぬ。大関高増の黒羽城は宇都宮への経路から微妙に外れているため、案外厚かましく兵を置いているやもしれぬ。となれば会津中納言殿は黒羽城も落としてから南下するだろう。成田泰親の烏山城は堅城だが大きく離れて居る。此処に兵を置いても遊兵になるだけなので僅かの留守居以外は宇都宮に詰めて居ろう。烏山城は無視できる。」
義重に話を振られた政宗がサクッと上杉勢の動向を予想する。ここらは大軍の運用経験のある政宗に一日の長が有るようだ。
「成る程。ならばそう慌てて出陣する必要は御座らぬな。氏幹、そういう事なので部隊編成と補給物資をしっかり準備してくれ。準備でき次第出立致す。」
「応!」
言うやいなや真壁氏幹が席を立つ。久々の大戦に武人の血が騒ぐのだろう。
「義重殿。詰めの城の役目を担うこの太田城周辺から五千も引き抜けば、万が一水戸を抜かれた場合困りませぬか?」
政宗が意外にも常識的な発言をしてくる。どういう積りなのだ?
「なに、会津中納言殿と同じよ。伊達殿がわざわざ全力を出して水戸の援軍に向かって居るからこそ、会津中納言殿も安心して全力で南下しつつ有る。ならば、我が佐竹とて後背に兵力を残す必要は無い。寧ろ、最初から後背に気を使う必要が無い安芸宰相殿(毛利輝元)が何故に大阪城に未だに居座って居るのか、そのほうが余程に奇異で御座るよ。」
そう言いつつ政宗と談笑している。成る程、本来は宿敵の二人だ。改めて腹の底を見せあって打ち解けねば成らぬ…そう云う物かも知れぬ。………しかし毛利輝元か。確かにグズで愚鈍な面があるとの世評だが、この関ケ原の戦いの前哨戦での四国への手配りなどは目を見晴らせる切れ味だった。父や叔父が立派すぎて輝元の評価が不当に低い感じも有る。本当に輝元は愚鈍なだけで大阪城に居座っているのだろうか。…まさか輝元は輝元なりに、何かを感じ取っているが具体的証拠が無いので動けない?…だとするとその可能性が有るのは………
「くそっ!!やはり茶々かっ!」
考えてみれば、再西上が現実的に不可能な家康が打てる手立ては政略しかない。豊臣家の最大の弱点は茶々しか無いじゃないか。佐竹攻めも関東籠城も囮か。西方の主だった者を大阪城から遠ざけて何らかの政治工作で逆転を今も虎視眈々と狙っている、そういう事だったのか。
「どうされた?治部少輔殿?」
「済みませぬ、取り乱しました。お二方のお話を聞いていて気が付きました。おそらく、家康が大坂に手を突っ込んで来るでしょう。」
「なに?大坂に?」
「…大坂か………成る程…治部少輔殿の危惧は正鵠を得ているやもしれぬ。義重殿も申された通り、最早戦で徳川が大勝することは望めぬ。良くて引き分け。だがそれを唯唯諾諾と受け入れる内府でも無い。となれば残るは謀略。今大阪城はかろうじて安芸宰相殿(毛利輝元)が抑えて御座るが豊臣生え抜きの芯となる家臣が不在じゃ。儂(政宗)が内府であっても大坂城を引っ掻き回すに違いない。」
「…やれやれ、いまさらに謀略か。せっかくの戦に水を差されたようで不愉快だが、内府も事、此処に及んで本性を隠す意味もなし。治部少輔殿は急ぎ大阪に戻らねばなるまい。」
「義重殿、政宗殿。戦を見届けられぬは無念なれど、致し方御座らぬ。大坂へ急ぎ戻りまする。」
「うむ。それが良かろう。だが…戻るとなるとこの太田は如何にも都合が悪いのう。目の前に海はあれども犬吠埼は超えれまい。陸路は徳川の支配地を大きく北に回り込まねばならぬ。」
政宗が言う通りだ。現状ではこの太田の地は大坂から最も遠い地とも言える場所なのだ。
「参った…なにか手立ては御座らぬか、義重殿………。」
「………手立てのう………全く無いでも無いが………しかしのう………。」
義重をじっと見る。
「仕方ない。上手く行かずとも恨まれるな。」




