42 10月21日 桑折(奥州-羽州街道)追分 午〈うま〉の刻(午前12時ごろ)
米沢から東南に戻ってしまう道程になるが、羽州街道を桑折まで上り奥州街道との追分(分岐点)に来ている。現・南部氏の居城の盛岡城がある不来方へ行くには山形から羽州街道を横手まで北上、後の平和街道を伝って黒沢尻(現・北上市)に出るほうが距離的には近いのだが…。
「確かに羽州街道から奥州街道に入れば大道だけで不来方へ行けるが、随分遠回りになる。軟弱者の治部にも困ったものだ………と実物の治部に接するまでなら思っただろうな。」
「ほぅ?すると今はそうは思わぬのか。小太郎。」
「太閤の腰巾着だった治部など褒めたくもないが、治部が己の楽を求めて到着を遅れさせる事など無いとは知ったからな。」
「では、この治部が何故にわざわざ遠回りしていると、小太郎は見る?」
「伊達政宗を過大評価して居るのではないのか、治部は。」
「と、云うと?」
「政宗が我らの動きまで掴んでいて、すでに奥州街道を南下して居る…そう言いたいのだろう?だがそれは無いぞ。政宗の間諜に動きを知られるほど風魔は鈍って居らぬ。」
「それは頼もしいな。儂も小太郎が側に居ながら政宗の間諜の跳梁を許すなどとは、露ほども思いはせぬぞ。だが、なればこそ侮れぬのだ、政宗は。」
「?」
「奴は際どい処で鼻が効く上にそこそこ運が良い。理屈でない勘が働くのだろう。伊達は普通なら政宗の代で二度やそこらは滅んでいるぞ。」
「ふむ。確かに人取橋の戦いで政宗討ち死にも十分有り得たし、小田原遅参で首が繋がったのも奇跡に近いな………。」
人取橋の戦いは今から14年ほど前の、伊達勢約七千対蘆名・佐竹勢を主力とする南陸奥連合軍約三万の戦い。さしもの伊達勢も兵力差4倍の野戦は如何ともし難く惨敗、壊滅寸前まで追い込まれたが南陸奥連合軍の佐竹の陣中で惨殺事件が起き、さらに小田原北条氏蠢動の報も入ったため伊達は九死に一生を得たのだった。
「そうだろう。故に既に政宗が三千や五千を率いて南下中の可能性が五分五分有ると見る。我らの動きを得ずとも独自の読みで動く可能性がな。」
「南部攻めは片倉景綱に任せて自身は馬廻りと精鋭のみ率いて南下か…不可能とは云わぬが南部を舐め過ぎではないか?未完成の盛岡城を放棄して要害の旧居城、三戸城に籠もられたら如何する?伊達本軍が移動するだけでも三倍近い距離になってしまうぞ。」
南部氏は三戸城が本拠地だったが、2年前から不来方の地に盛岡城の建設に着手した。勿論、まだ未完成だ。
「理屈ではそうだな。だが、南部にとって幸か不幸か南部信直と云う武将は単に延命を図るような俗物では無い。信直は南部の家督に執着して居らぬのでな。三戸城に籠もってジリ貧の道は選ぶまい。」
南部氏周辺の北陸奥には南部が頼れるような味方が居ない。小田原城や大阪城のような巨郭で何年でも耐えられる城ならともかく、要害でも通常の山城や平山城では援軍の見込みがないと1年と保たずに落城してしまう。
「それはそうだろうが、南部と津軽とは犬猿の仲。北陸奥を津軽に奪わせぬ、その一点で三戸城に本拠を戻す可能性も有るだろうに。」
「凡庸な武将ならそれもあり得るだろうがな。5万石や10万石に縮小してでも延命したいならそうするだろう。だが南部信直が最大の脅威である伊達を放置して津軽に備える選択などするまいよ。」
「治部があの傾奇者の伊達政宗をそこまで評価していたとは、意外だったわ。」
「勿論、好きではないがな。先が見えている一人である事は疑いようがない。」
「成程の。南部を席巻するのは津軽と挟撃できる今、比較的容易い。それを恒久的に我が物と成すには家康の天下も阻まねば成らぬ…政宗ならば其の程度は読む。家康の天下を阻むには佐竹を支える必要がある。ならば逸早く北関東に出て家康次男の結城秀康を牽制する動きを見せる必要がある…。か。ん?おい、上杉領が伊達の行く手を大きく阻んでいるではないか。」
「そうだ。」
「そうだ…??………まさか、治部、貴様、景勝殿を恫喝して伊達勢を無傷で通させる積りか!」
「恫喝とは心外な。丁重にお願いするだけだ。なにせ『義』を旗印とされて居られる景勝殿だ。家康の天下を阻む『大義』の為であれば、白石城で干戈を交えた伊達勢であろうが、阻まれる事は有るまい。」
流石の小太郎も余りにも厚かましい儂(三成)の構想に呆れている。
「…まあ良いわ。其の無茶が通るか否か、見物させて貰うとしよう。」
「ああ。まあ楽しみにして居れ。」
「そうだ、言い忘れて居たわ。真田の親父がまた城を得たぞ。」
「流石だ。真田の勝手知ったる海津城とは言え、こうも鮮やかだとそら恐ろしいな。」
「海津城ではない。手子丸城を復興させ、兵を入れた。これで吾妻郡は盤石だな。沼田と上田は細々と岩櫃城経由で繋がっていたが、岩櫃山の南の手子丸城を抑えたので街道で繋がる事になる。」
手子丸城は元々岩櫃城と共に吾妻郡支配の要の城で真田昌幸も熟知の城だ。小田原征伐以降兵を置く必要が無くなり放棄されていたが、情勢の変化で再び光が当てられる事に成った。
「手子丸城か。確かに要所だが小城とは云え真田に兵を分ける余裕は無かろうに…。」
「ふふっ。治部もまだまだだな。手子丸城に入ったのは真田信之の沼田の兵よ。」
「!なんだと!沼田の信之と真田の親父は手切れではなかったのか!」
三成挙兵後、真田昌幸は真田信之の居城の沼田城入城を拒絶されて居り、昌幸と信之は完全に袂を分かったと認識されていたのだ。
「ああ。その真田信之にわざわざ真田昌幸の手引で手子丸城に兵を入れさせた。判るか?この意味が。まるで落ち目の家康の見限り方を諸将に教えているようではないか。」
「…只でさえ手兵が少ない小大名が兵を分ければ城下を敵勢が通過しても阻止出来ぬ。其の結果中立の立場だったと云う証拠が生まれる。兵に余裕が無くなるので家康の招集を断る口実にもなる。惣無事令以降は全国いたるところに放棄された城が有る。近在の廃城に兵を出すだけで中立の立場を得られる………そういう事か………。わざと自ら身動き出来ぬ状況を作って寄り親から離れる、なんと悪辣な………。しかも、この手は秀頼様相手にも使えるではないか。」
「くっくっ。馬鹿正直な治部の策とは切れ味が段違いよのう。これでは好むと好まざるにかかわらず、大大名の側から小大名のご機嫌取りをせねばならぬ。横柄者で名を轟かす治部も普段の態度を改めねばなるまいて。」
「抜かせ。しかし、これで家康は関東での新たな徴兵もままならぬか。関東での防衛戦なれば、新たに数万は徴兵して来ると思うていたが…。」
「今まで大大名に唯唯諾諾と従うしか無かった小大名が逆らい方を知ったのだ。楽しみが増えたではないか。」
「まあ、それはそうだが…」
「ふふ。秀頼の心配など不要だろうに?元々生まれた時からの貴種だ。家康のような吝嗇には成れぬ。其の上自分より上の身分や身代の者も居らぬ。小大名を粗略に扱う事などそもそも頭の隅にも有るまい。まあ、大大名と小大名の区別も付かぬだろうがな。」
「………」
「おお、もう一つ有ったわ。当たり前過ぎて忘れていたが、島津が九州の大掃除を終えたぞ。唐津城を接収したので寺沢広高の手勢も日々痩せ細って居る。」
この時期の唐津城は戦国以来の唐津城で寺沢広高が大々的に改修した後の唐津城ではない。
「そうか。龍伯(島津義久)様は流石に手堅いな。留守城でも逐一接収していけば遠征の将士は家族縁者が気になり戦えぬ。夜毎脱走兵が相次ぎ軍勢は崩壊しよう。九州の次は四国に向かわれるだろう。宇和島や大洲に手が届けば藤堂高虎とて、いつまでも家康に尻尾を振っては居れまい。」
家康の虚名で水膨れした東軍も結局は関東二百五十五万石の家康本来の実力に収斂するか。だがそうなると愈恐れていたもう一つの問題をどうするかだが………。
「小太郎。急ぎではないが、宇都宮に潜入出来る手練の手配を頼む。」
「!宇都宮?だと。貴様、何を考えている………」
小太郎にも読めぬか。ならば目があるか。
「頼んだぞ、小太郎。」




