*1600年10月5日ごろの情勢(近畿・若狭)
ご覧の通り、大混乱です。
木下姓はキリが無いぐらい多いので他は割愛。(誰が独立しているのかも良く判らないし・・・。)
この図であれっ?と思い出したのが木下勝俊ではないでしょうか。関ケ原に近いこの場所の8万石は結構大きいのに両陣営から放置プレイされてます。寧々に溺愛されていたとの話もあるので、多分、情実人事でしょう。一番情実人事が酷い家康は勿論、信長も秀吉も結構やらかしてます。若狭を隣の大谷吉嗣に与えていれば、だいぶ史実も変わっていたかも。
*宇喜多秀家は播磨西部に旧浦上家領の一部を保有している。
*山名氏政。秀頼に近侍。大坂の陣でも豊臣方で参戦。
*宮部長房は因幡に隣接の但馬二方郡も保有している。
*木下家定。ねね(高台院)の兄。姫路城主。中立を貫く。史実では領地配分で高台院と揉めており、この面でも高台院が家康に加担していない事が伺われる。
*加藤嘉明は淡路に16700石。淡路水軍の一部を保有。
*杉原長房はねね(高台院)の従兄弟。但馬国豊岡城主。播磨三木城の城代。田辺城攻撃に消極的ながら参戦。家康に内通とも云われる。
*小野木公郷。丹波福知山城主。西軍。
*織田信包。丹波国氷上郡柏原城(陣屋)主。秀吉の御伽衆。田辺城攻撃に参加。大坂冬の陣直前に大坂城内で急死。史実では田辺城攻撃の責を家康に問われておらず、急死の時期も相まって家康に内通していた公算も大。
*谷 衛友。丹波国何鹿郡1万6,000石。田辺城攻撃に参加も史実では東軍に内応。
*山崎家盛。摂津国三田城主。近江愛智郡で1万4000石。三成の挙兵を家康に通報しつつ、田辺城攻撃に消極的参戦。
*青木一重。摂津国豊島郡麻田陣屋主。三方原の戦いで高天神城を守備。戦後出奔し丹羽長秀→羽柴秀吉と主君を代えていく。この時期七手組の組頭。家康に内通の公算が大。
*小出秀政。和泉岸和田城主。豊臣秀吉とは同郷の尾張中村出身。秀頼の補佐。西軍であるが、次男秀家に兵300を与え家康に従軍させている。
*杉若氏宗。 紀伊国田辺上野山城1万9000石 西軍
*堀内氏善。新宮2万7,000石 西軍
*桑山一晴。和歌山城2万石 東軍
*木下勝俊(木下長嘯子)。ねね(高台院)の甥。若狭国後瀬山城8万1500石。鳥居元忠に伏見城入城を拒絶される。以後、参戦しておらず中立の体裁だが、両軍から見捨てられた形。
*氏家行広。伊勢国桑名2万2,000石。当初中立も西軍の伊勢方面軍来寇を前に西軍に参加。
*稲葉道通。伊勢岩出城主。2万石。 東軍
*滝川雄利。伊勢神戸城主。2万石。滝川一益の臣。西軍
*織田信重。伊勢林城1万石。織田信包長男。東軍
*分部光嘉。度会郡ほかで約1万石。伊勢上野城主。関ケ原の戦いでは安濃津城で籠城。開城後高野山へ蟄居。上野城は放棄されている。
*蒔田広定。雲出城主。1万石。豊臣秀吉の小姓頭。西軍




