ルイスの軌跡
神に選ばれたのは19歳の時だった、とルイスは記憶している。
「キミが、ボクの勇者になるんだよ」
光をまとって夢の中に現れた幼い神は、簡潔に告げて、あっさりと去った。
ルイスを勇者に選びながらも、ルイス自身にはまるで興味を持っていないともとれる態度に、ひどく困惑した覚えがある。
けれど、戸惑いの中で迎えた翌日も、その次の日も何も起こらなかった。
ルイスの不安をよそに、過ぎ行く日々は驚くほどにいつも通りで、だからルイスはただの夢だと思う事にした。
花壇に畑に薬草園。裏庭から続く広大な森。そこに息づくルイスの愛すべき植物達。探さずともやるべき事は山のようにある。
たった一日で大きく姿を変える植物の成長を見逃さぬよう、心を傾けていればおかしな夢のことなどすぐに忘れる事ができた。
そうやって、のほほんと過ごしていたのが悪かったのかもしれない。
次いで夢に現れたのは、銀の髪が美しい娘だった。
少女というには大人びていて、けれど女性というには少し幼い、小柄な娘。
姿かたちはルイスよりもずっと年下に見える彼女は、けれど不思議な事に驚くほど老成した空気をまとっていた。
まるで高名な学者か、智を追い求める研究者のようだ。
紡ぐ言葉から豊かな知識と経験に基づく絶対の自信を感じる。
海色の瞳に宿る光は、理知というよりも英知に近い。
思慮深く、明敏で、心優しい人だ。
神と名乗った件の幼子よりもよほど神様らしい、とルイスは思った。
「勇者として歩むあなたの未来に、どうか光がありますように」
イステと名乗った娘の祈る姿は神秘的で、特別な月の夜にしか咲けない蒼幻花のようだった。
天の国にはこんなにも美しい人がいるのか、と幸せな気持ちで迎えた次の朝。
ルイスの枕元に大きな鎌が突き刺さっていた。
声も出せずにピキンと硬直したのは、別にルイスの肝が小さいわけではない。
それくらい至近距離にあった、という事だ。
この銀色の美しい鎌が勇者としての武器らしいのだが、出来ればもうちょっと別の方法で渡してほしかった。
ルイスの寝相が悪かったなら、永遠に目覚められなかった可能性すらある。
「現実逃避の二度寝すら許してくれなかったもんなぁ……あの鎌」
思慮深く、明敏で、心優しい彼女は、どうやら意外と大雑把であったらしい。
* * *
ルイスが生きる世界は、平和だった。
倒さなければいけない強大な悪も、世界を脅かす異変もない。
勇者としての活躍の場なんてどこにもない、安穏とした緩やかな日々。
けれど、鎌を手に入れた日からすべてがひっくり返った。
次から次へと災禍が起きて、のんきに植物をめでている場合ではなくなった。
街が、領地が、国が、そして世界が、ルイスに救いを求めるようになるのに、そう時間はかからなかった。
「死体が歩き出して、巨大な食肉植物が現れて……ああ、ひどい幻覚に襲われるやつもいたなぁ……あと、なんだっけ」
学園で学び、研究者としての道を歩み始めていたルイスは、おかげで今や立派な戦闘職だ。
未知なる植物との出会いは嬉しいけれど、何かが違う気がする。
ルイスが好きなのは、美しさを競うように咲き誇る花々だ。
必要があれば毒花も愛でるが、おどろおどろしい幽鬼のような植物もどきは専門外だと大きな声で叫びたい。
……興味深くはあるけれど。
ルイスの知る緑の良き隣人たちは、基本的にあたたかな光や清らかなる水、豊かな土壌を望む。
中には、生きるための養分を虫に求める植物はいるけれど、手段は待ち伏せだ。
積極的に襲い掛かってくるような事はないし、大型生物の血だの肉だのを狙う植物も聞いたこともない。
というか、たぶんそれは植物に分類してはいけない。
「……ずいぶんと遠くへ来た」
瞬く間に流れた時間に、駆け抜けた過去の日々を思い返してルイスは嘆息する。
現れる奇怪な植物は見た目に反して手強く、いつだってギリギリだった。
めまぐるしく過ぎる日々に、なんで自分が、どうして自分だけが、と運命を呪った。
特にここ最近は闇が濃く、えげつなさも増してきて、心も体も死にそうだ。
「これがなかったら、とうに折れていたかもしれない」
ほんの少しだけ、眼差しを和らげて眺めるのは自分の左手。
小指の付け根を縁取るように、深い青の文様がくるりと円を描いていた。
ルイスがイステの守護を受けた証なのだという。
枕元に大きな鎌を突き立てられたあの日以来、彼女は時折ルイスの夢に現れるようになった。
困っていることはないか、辛いことはないか、何か体に不都合はないか。
ルイスの近況を聞いて、的確なアドバイスやヒントを置いていく。
天の国のものと思われるアイテムをくれることもあった。
そんな彼女が半年ほど前に残していった最新の置き土産がこの紋様だ。
ルイスの身に危険が迫った時、助けに来るための目印だとイステは言う。
ここ最近の世界を思えば「そんな事は起こらない」とは返せなかった。
危険な事にイステを巻き込みたくない、というのがルイスの心だ。
けれど同時に、うれしいと、感じてしまうのもまたルイスの心であった。
南の海を思わせる瑠璃の紋は、ルイスが美しいと感じたイステの瞳と同じ色。
なんだか彼女に見守られているように感じられて、眺めているだけで胸がいっぱいになる。
彼女は天の御使いだ。
ルイスが手を伸ばしていい相手ではない。並び立てる相手でもない。
どんなに願っても、どんなに焦がれても、心が重なる日は決して来ないと、ルイスは正しく理解している。
言葉を交わすことはできても、触れ合うことはできない。
視線を合わせることはできても、呼吸を感じることはできない。
夢を通しての逢瀬は不安定で、ルイスの側から呼びかけることはできない。
気まぐれに訪れる彼女を待つだけ。今は、もう半年も会えていない。
文字通り、生きる世界が違うのだ。
けれど、ひっそりと心を寄せるくらいは、それを支えとするくらいは許してほしい。
「叶うならば、もう一度会いたかった。許されるならならば、御身に触れたかった。髪を梳いて、吐息を交わして、この腕で抱きしめたかった」
叶わぬ願いと知りながら、それでも口にする。
そうしなければ、全てを投げ捨て逃げ出してしまいそうだった。
座り込んでいた巨石から降りて、踏み出す先には波打つ大地。
網目状に走る根をたどれば、はるか地平線の先にそびえる巨大な樹木にたどり着く。
世界に絶望をもたらした、元凶だ。
地獄樹。そう名付けたのは誰だったろう。
半年前に芽吹いたと思われるそれは、おそろしい速度で成長し、瞬く間に山をも越える大きさとなっていた。
ここまで来ると樹と呼んで良いのかどうかすらわからない。
雲を突き抜けて広がる枝葉は地上から光を奪い、地中に張り巡らされた根は大地の水と養分を支配した。
弱き植物はとうの昔に淘汰され、かろうじて残る緑もそう長くはもちそうにない。
「この変わり果てた世界を貴女が見たら、なんというのだろう」
時間がない。早々に地獄樹をどうにかしなければ、世界はアレの養分となってしまう。
最初に植物が、続いて動物が、そうして人が、滅ぶのだ。
――討伐を。
命を下されたのは、ルイスだ。
どうすればいいのかなど、わからない。山よりも大きな大木を、街がひとつ入ってしまいそうな太い幹を、刈る方法などルイスは知らない。
それでも。人は、世界は、勇者に望む。
地獄の主を排除せよ、と。
「ねぇ、御使い様。生きてもう一度逢えたなら、その時は――ても許されるかな」
未来に希望がほしくて、ついつい溢してしまった心の声は、銀の鎌へと吸い込まれた。
勇者の証でもある魔鎌が、ルイスの魔力に呼応して、ほんのりと淡く光る。
白く清らかな、浄化の光。
それがルイスには、天の赦しのように感じられた。




