春隣
最終バスの時刻に合わせて解散し、僕と春花は同じバスに乗った。
狭い座席に身体を寄せ合って座ると、大晦日にをけら火をもらいに行ったときのことを思い出す。あのとき、春花からはいろんな調味料の匂いがしていた。今は、ダッフルコートごしに、白檀のほのかな香りがしている。
ほんとうにいい香りだなと、のぼせた頭で考えていると、「ねえ」と春花の声がした。
「智之くん、緑おばさまに言われて、『古都』を読んでるんだよね」
「うん……まあ、いちおうはね」
「ヒロインの千重子のこと、どう思う?」
春花の問いかけに、僕は答えあぐねた。
酒の酔いのせいではない。読了したのは一回で、二回目はまだ半分も読めていない。けれど、僕の中の千重子像は、一定の輪郭を持ち始めていた。
ただ、春花の問いの真意を図りかねたのだ。
すこし迷ったが、僕は素直に感想を答えることにした。
「強い……いや、ちがうな。怖い、かな」
「怖い?」
「うん。怖いひとだと思う。自分の魅力や立場をちゃんと理解していて、それを自分の目的のためにしっかりと利用している。身内に対しても、他者に対しても、そして彼女に惹かれる男性に対してすら。驚くほど迷いがないからね、彼女には」
「そう」と言って、春花は口を噤んだ。
ペリドットの瞳が、窓外の闇を宿したように、ほの暗くゆらめいた。
春花が、ぽつりとつぶやく。
「わたしは、どうかな」
どうしてそうなるのか、と僕は思う。
つい今しがた、僕は千重子のありかたを否定的に評したばかりだ。二人を比較することなど、僕にとってはありえないことだった。
「春花は、ちがうよ」
そう答えると、春花は、バスが角を曲がった勢いに合わせて、僕にもたれかかってきた。
コート越しに春花の体温が伝わってくる。
「よかった……」
吐息とともに、安堵の声が春花の口から漏れだす。
白檀の芳香が強くなり、やがて彼女は顔を上げた。
ペリドットの瞳が瞼の下に隠される。
桃色の艶やかな唇が、待っているような、誘っているような気がした。
バスは空いていて、まわりの席に乗客はいなかった。
いいのか、という戸惑いは一瞬だけだった。
唇が離れたあと、春花は目を閉じたままでささやいた。
「わたしを、助けてね」
翌日、路子カフェに行くと、ちりんという風鈴の音とともに「いらっしゃい」という力強い声に迎えられた。
キッチンから姿を現したのは、茶居着姿の小西先生だった。
「なんだ、星河君か」
どうもこのオーナーは、すでに僕を客だと認識していないようだった。
しかし、そんなことより春花の不在が残念だった。
「春花じゃなくて悪かったね。それにしても、私を見てあからさまに嫌そうな顔をするとは、ずいぶん貫録をつけたものだね、星河くん」
いきなりからまれたが、やはり春花はいないようだ。
事情を訊くべきかどうか、僕は迷った。
小西先生は、水の入ったグラスをテーブルに置きながら、「春花はね」と先回りして僕の疑問に答えた。
「風邪をひいて、朝から寝込んでいるんだよ。それで、君にも感染していないか気にしているんだが、どうだい?」
僕の顔が一気に火照る。
まさか昨夜のことを、小西先生に話したのか。
小西先生が、ふっと笑う。
「図星かい。まったくわかりやすいね、君たちは」
僕はもう、顔の火照りを抑えられなかった。この人には、一生敵わないなと思う。
小西先生の言によると、春花の風邪はほんとうのことだった。熱があるうえに喉が痛くて、食事に苦労しているという。
やはり節分には大豆を食べなければ、いけないのだろう。
そう思い立った僕は、午後の講義のあとバスで清凉寺に出向き、門前の森嘉で嵯峨豆腐を二丁買って、路子カフェに届けた。
豆腐のパックを見た小西先生は、関心したように「ほほう」と目を細めたが、僕がもう一丁を取り出すと「やれやれ」とため息をついた。
「今夜は湯豆腐パーティだな。お持たせで悪いが、星河君も食べていきなさい」
小西先生は木製の湯豆腐桶を出してきた。熾した炭を樽の金属の筒に入れ、昆布を敷いた水に豆腐をそっと沈めた。
部屋の暖房の温度を上げて、それから春花を連れてきた。
もこもこした半纏を着た春花は、恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに席に着いた。
風邪で寝込んでいたというだけあって素嬪だったが、普段とあまり違わないなと僕は思った。
「ありがとう」
春花の鼻声を、はじめて聞いた。
悪くないな、と僕は不埒なことを思った。
しばらく待つと、桶の中で、豆腐がふっと動いた。
春花は「いただきます」と手を合わせて、豆腐すくいで鉢に豆腐を取った。そして塗り箸で切り分けると、ひときれを口に運んだ。箸にかかった湯豆腐は、くにゃりと曲がったが、崩れることはなかった。
豆腐を口にした春花は、「おいしい」と笑みを浮かべた。
僕も豆腐を箸でつかむ。ものの見事に、鉢のなかで豆腐は崩れた。
細切れになった豆腐のかけらを、小鉢のへりから口に掻きこむ。
春花と小西先生が、声をそろえて笑った。
ほどよく温まった豆腐は、つるりとやわらかかったが、弾力があって瑞々しかった。
その食感が、思いがけず、春花の唇の感触と重なった。
頭を振って、僕は豆腐の味に意識を集中する。
特別な豆腐だから、どれほど美味しいのかと思ったが、口の中にかすかな大豆の香りが広がっただけで、しかもそれはすぐに消失した。
そういえば。
ファーストキスも、なにがなんだかわからないうちに、すんでしまった。
こんなものか、と僕は拍子抜けした。




