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その夢を、星空に -Star Observation Society KYOTO-  作者: TOM-F
Sign01 アンドロメダ ダムゼル・イン・ディストレス
13/20

春隣

 最終バスの時刻に合わせて解散し、僕と春花は同じバスに乗った。

 狭い座席に身体を寄せ合って座ると、大晦日にをけら火をもらいに行ったときのことを思い出す。あのとき、春花からはいろんな調味料の匂いがしていた。今は、ダッフルコートごしに、白檀のほのかな香りがしている。

 ほんとうにいい香りだなと、のぼせた頭で考えていると、「ねえ」と春花の声がした。


「智之くん、(みどり)おばさまに言われて、『古都』を読んでるんだよね」

「うん……まあ、いちおうはね」

「ヒロインの千重子のこと、どう思う?」


 春花の問いかけに、僕は答えあぐねた。

 酒の酔いのせいではない。読了したのは一回で、二回目はまだ半分も読めていない。けれど、僕の中の千重子像は、一定の輪郭を持ち始めていた。

 ただ、春花の問いの真意を図りかねたのだ。

 すこし迷ったが、僕は素直に感想を答えることにした。


「強い……いや、ちがうな。怖い、かな」

「怖い?」

「うん。怖いひとだと思う。自分の魅力や立場をちゃんと理解していて、それを自分の目的のためにしっかりと利用している。身内に対しても、他者に対しても、そして彼女に惹かれる男性に対してすら。驚くほど迷いがないからね、彼女には」


「そう」と言って、春花は口を噤んだ。

 ペリドットの瞳が、窓外の闇を宿したように、ほの暗くゆらめいた。

 春花が、ぽつりとつぶやく。


「わたしは、どうかな」


 どうしてそうなるのか、と僕は思う。

 つい今しがた、僕は千重子のありかたを否定的に評したばかりだ。二人を比較することなど、僕にとってはありえないことだった。


「春花は、ちがうよ」


 そう答えると、春花は、バスが角を曲がった勢いに合わせて、僕にもたれかかってきた。

 コート越しに春花の体温が伝わってくる。


「よかった……」


 吐息とともに、安堵の声が春花の口から漏れだす。

 白檀の芳香が強くなり、やがて彼女は顔を上げた。

 ペリドットの瞳が瞼の下に隠される。

 桃色の艶やかな唇が、待っているような、誘っているような気がした。


 バスは空いていて、まわりの席に乗客はいなかった。

 いいのか、という戸惑いは一瞬だけだった。


 唇が離れたあと、春花は目を閉じたままでささやいた。


「わたしを、助けてね」



 翌日、路子カフェに行くと、ちりんという風鈴の音とともに「いらっしゃい」という力強い声に迎えられた。

 キッチンから姿を現したのは、茶居着姿の小西先生だった。


「なんだ、星河君か」


 どうもこのオーナーは、すでに僕を客だと認識していないようだった。

 しかし、そんなことより春花の不在が残念だった。


「春花じゃなくて悪かったね。それにしても、私を見てあからさまに嫌そうな顔をするとは、ずいぶん貫録をつけたものだね、星河くん」


 いきなりからまれたが、やはり春花はいないようだ。

 事情を訊くべきかどうか、僕は迷った。

 小西先生は、水の入ったグラスをテーブルに置きながら、「春花はね」と先回りして僕の疑問に答えた。


「風邪をひいて、朝から寝込んでいるんだよ。それで、君にも感染していないか気にしているんだが、どうだい?」


 僕の顔が一気に火照る。

 まさか昨夜のことを、小西先生に話したのか。

 小西先生が、ふっと笑う。


「図星かい。まったくわかりやすいね、君たちは」


 僕はもう、顔の火照りを抑えられなかった。この人には、一生敵わないなと思う。

 小西先生の言によると、春花の風邪はほんとうのことだった。熱があるうえに喉が痛くて、食事に苦労しているという。


 やはり節分には大豆を食べなければ、いけないのだろう。

 そう思い立った僕は、午後の講義のあとバスで清凉寺に出向き、門前の森嘉で嵯峨豆腐を二丁買って、路子カフェに届けた。

 豆腐のパックを見た小西先生は、関心したように「ほほう」と目を細めたが、僕がもう一丁を取り出すと「やれやれ」とため息をついた。


「今夜は湯豆腐パーティだな。お持たせで悪いが、星河君も食べていきなさい」


 小西先生は木製の湯豆腐桶を出してきた。熾した炭を樽の金属の筒に入れ、昆布を敷いた水に豆腐をそっと沈めた。

 部屋の暖房の温度を上げて、それから春花を連れてきた。


 もこもこした半纏を着た春花は、恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに席に着いた。

 風邪で寝込んでいたというだけあって素嬪だったが、普段とあまり違わないなと僕は思った。


「ありがとう」


 春花の鼻声を、はじめて聞いた。

 悪くないな、と僕は不埒なことを思った。


 しばらく待つと、桶の中で、豆腐がふっと動いた。

 春花は「いただきます」と手を合わせて、豆腐すくいで鉢に豆腐を取った。そして塗り箸で切り分けると、ひときれを口に運んだ。箸にかかった湯豆腐は、くにゃりと曲がったが、崩れることはなかった。

 豆腐を口にした春花は、「おいしい」と笑みを浮かべた。


 僕も豆腐を箸でつかむ。ものの見事に、鉢のなかで豆腐は崩れた。

 細切れになった豆腐のかけらを、小鉢のへりから口に掻きこむ。

 春花と小西先生が、声をそろえて笑った。


 ほどよく温まった豆腐は、つるりとやわらかかったが、弾力があって瑞々しかった。

 その食感が、思いがけず、春花の唇の感触と重なった。


 頭を振って、僕は豆腐の味に意識を集中する。

 特別な豆腐だから、どれほど美味しいのかと思ったが、口の中にかすかな大豆の香りが広がっただけで、しかもそれはすぐに消失した。


 そういえば。

 ファーストキスも、なにがなんだかわからないうちに、すんでしまった。


 こんなものか、と僕は拍子抜けした。

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