[5-53] 同調
『なんだ、これは』
オーレリオ・ドロエットは困惑していた。
肉体が際限なく内側から膨張している、という感覚があった。
触れる有機物全てを取り込みつつ、無限に、無限に。
チューブから絞り出されるクリームのように、肉が、増えていく。
留まることなく、増えていく。どこかこの世界ではない無限の場所に繋がって、そこから、出てくる。
既にオーレリオの肉体は、王城の容積の三割ほどを満たしていた。城内の空間が徐々に、肉によって埋まっていく。
オーレリオは、大広間を、玉座の間を、廊下を、中庭を、同時に見ていた。なぜなら洪水のように無秩序に膨らんで広がっていく肉体のあちこちに、でたらめに目が生まれていたからだ。本来人が認識できないはずの視野と視認範囲。膨大な情報を前にして気が狂いそうだった。
『なんだこれは!』
「あなたの罪よ」
オーレリオの声なき叫びに、答える者があった。
その女はどこにも居ないのに、オーレリオの全ての目の前に立っていた。
瑞々しい裸身を晒した、若い女だ。その目は移ろい輝く虹の色をしていた。
彼女はオーレリオの認識の中だけに存在した。
「あなたと会うのは三度目なのだけれど、覚えておいでかしら?」
『…………知らぬ』
「でしょうね。きっと私のことなど、覚えておく価値もない些事だったのでしょうから」
虹色の目の中には怒りも敵意も無かった。
なぜなら、地獄の底まで届きそうな深い深い軽蔑が全てを塗りつぶしていたから。
「では、オルテナ・ケティクスという名は?」
それには、覚えがあった。
* * *
10年前のことだ。
ディレッタ軍が“怨獄の薔薇姫”を追い出し、シエル=テイラを事実上支配した。
オーレリオが第一次救貧騎士団を率いて赴任してきたのも、この頃だった。
国の形が大きく変わるドサクサの中で、院長が死んだ孤児院を継ぐ者は無く。
最年長のユーニスは、残った子たちを養うために『仕事』を見つけた。
慣れた仕事ではあった。
景気はよろしくなかったが。
「ああ、もう!
ディレッタが来てから商売あがったりよ!」
「そう……なんですか?」
狭い(つまり普通の)集合住宅の一室が、お呼びが掛かるまでの控え室。
ある日、先輩のエルナが、愚痴とも悪態ともつかぬことを言っていた。
「あんたは新入りだもんね、ユーニス。昔のことは知らないか。
あいつら全部ディレッタの法律でやってんだ。前までは夜になりゃ往来で客を待てたのよ。今じゃディレッタ騎士どもに見つかり次第、牢屋送りよ」
ディレッタの進駐によって、シエル=テイラは……この時はまだ東西分裂の寸前だ……大きく国の形を変えつつあった。
特に、公の統治機構が破壊された王都からエドフェルト侯爵領辺りは、ディレッタ進駐軍が事実上の暫定政府となった。
彼らは、生き残った現地領主たちを代官のように顎で使いつつも、概ねディレッタのやり方で統治した。
実際、ディレッタの方が旧シエル=テイラよりも、法律や社会制度の完成度で上なのは事実だった。大国であるが故に、必然的に。
およそ天の高みから国を眺めるのであれば、完成度の高い法律にすげ替える方が皆が幸福になるのだろう。
ただし国の形が急激に変わるというのは、今までギリギリで飯を食えていた者が食えなくなることをも意味する。
ユーニスは、商売としての仕事を始めたばかりなので昔のことは分からなかったが、状況は相当に酷いらしかった。
ユーニスは後々から知ったことだが、ディレッタの制度自体は良くても、それを占領地に適用する上でのやり方は本国より遙かにずさんだった。
神の愛を信じる市民や、良識的な(つまり出世に向かない)聖職者たちが国を監視し、あんまりな事をすれば猛烈に突き上げる伝統が、ディレッタ本国にはある。
占領地では、それがない。教条主義的な正義は、現実に適応しないまま押しつけられる。神の愛が救うべきものを取りこぼしても、誰も省みない。
「ナイトパイソンの残党どもに、世話になるのだけは御免だわね。
あいつらに縋れば仕事はできるけど……」
エルナは唸るように呟いていた。
違法な仕事をこっそりやるなら、闇に潜んで官権の目を誤魔化す必要があり、その専門家の力を借りるのが手筋だろう。
だが犯罪組織に首輪を付けられることは、恐ろしい呪いである。今一瞬のために、何を売り飛ばすことになるか、知れたものではない。
「くぉら小娘ども、なぁにシケたツラしてやがんだ!
そんな顔して皺ぁ増やしてみろ、ただでさえ少ねえ客が余計に減っちまうよ!」
そこへ、扉を蹴破るような勢いで怒鳴り込んでくる老婆があった。
腰も曲がった、干からびて萎んだリンゴみたいにしわくちゃの老婆だったが、そうと感じさせないほど矍鑠としていた。
彼女は、ユーニスたちの仕事の元締め。要するに『遣り手ババア』だった。
本名すら不詳で、彼女は部下たちに自分を、ただ『婆』とだけ呼ばせていた。
「そら、食え」
巨大な手提げ鞄をいくつも持ってきた『婆』は、そいつを適当に放り出す。
中に詰まっていたのは、小綺麗な白いパンや印が刻まれた立派なチーズ、見たこともない果物を使った瓶入りジャムなどだった。
「『婆』!? この食べ物、どうしたの!?」
「あ? ディレッタの救貧騎士団とやらに貰ったのさ」
「でも、あいつら同業組合を通した申請しか受けないんじゃ……」
ディレッタの救貧騎士団とやらが来たという話は聞いていたが、そいつらは案の定、一部の者しか救わなかった。
どういう成り行きか、同業組合だの、農村の自助組織を通じてしか配給の申請を受けない形になっていたもので、最も救いを必要とするはぐれ者たちは捨て置かれたのだ。
「やりようなんて、いくらでもあるさ」
どれほどの覚悟を以て、『婆』がそう言ったのか。ユーニスはすぐに思い知ることになった。
それは商売が何もかも立ちゆかなくなって、最後の最後に何か一つ、できることをと用意されたものだった。
今度こそ扉が蹴破られた。
黄金の装飾が施された、純白の金属でできた鉄靴によって。
「自称、オルテナ・ケティクス!
公的申請を偽った罪、および神殿に対する詐欺の罪にて、貴様を逮捕する!」
輝かしい鎧の群れが、戸口で声を張り上げていた。
「ディレッタ騎士!?」
「チッ……
あんたらにも人の心ってもんがあるなら、小娘どもが飯を腹一杯食うまで待っ……げぶぅ!」
つかつかと出て行った『婆』は、埃を掃くように軽く、壁に叩き付けられた。
「捕らえよ!」
ドカドカと、白金鎧の騎士や衛兵が踏み込んできて、ユーニスは後ろ手に床へ押さえつけられた。
そして恐ろしいほどの手際で縄が打たれる。
だが、自分のことはどうでも良かった。
ぐったりと血を吐きながら同じ目に遭っている『婆』のことを、ユーニスは心配していた。
「やめて!
『婆』は私たちを守ってくれたのよ!
こうでもしなければ私たちは、何も手にできなかった。飢えて死ぬところだったのよ!」
こんな仕事をしているのだから『婆』も汚い輩だ。
だがそれでも彼女はユーニスを生かしてくれた。年下の子らを養うユーニスを哀れみ、どこぞから持ってきた残飯を融通してくれることもあった。
「盗んだパンで飢えを満たしてはなりません。
故に神殿は与えるのです」
組み伏せられたユーニスを見下ろして、その男は……ディレッタの威光を知らしめるパフォーマンスとして、救貧騎士団の炊き出しに、治安維持の現場にと、進駐軍の先頭に立って大回転の仕事をしていたオーレリオ・ドロエットは、優しい笑顔で言った。
* * *
「私たちは烙印だけを押されて事実上放免されたけど、雀の涙ほどの食料を渡されても、それで生きられるわけじゃなし。
後援者を失ったことでまともな商売はできなくなって、流れ流れて、犯罪組織のボスの愛人よ。私が養っていた子たちも離散して、どこでどうなったのか。
そして『婆』は獄死した。
身体が弱っていたんだもの。凍てつく冬の牢獄には耐えられなかった……」
虹の目の女・ユーニスは、怒り極まるあまり平板になった声で、語りをそう締めくくった。
さてこれは夢か幻か。
だがこれが現実であっても、幻想であっても、オーレリオの答えは変わらない。
『……では犯罪者を見逃せというのか?
罪人が捕らえられ、罰されないのであれば、力無き者たちは闇を恐れることとなる!
牢獄の不備を責めるのであれば道理もあろう。確かに当時は、早急に国の形を正すため、追いつかぬ部分もあった……
だがそれは目の前の罪を許す理由にはならぬ!』
オーレリオは信念の人で、頭の回転も速く、常に自分の成すべき事を理詰めで判断する。何事も理屈をよく考えてから動くのだ。
そのため情の介在する余地は遙か手前に存在するのであって、物事を成す最中や、その後になってから、どうこう思い悩むものではなかった。
相手がただの小娘でも、教皇猊下であろうとも、幻や悪魔の化身でも、オーレリオの言葉は変わらぬのだ。
「人を殺しても結局変わらないのね。
あなたが悔いて、心を改めていたなら、あの日『虹の芽』を植えたりはしなかったのに」
オーレリオは、はっと……実際には、もはやまともな口も呼吸器も残っていないのだが気分的には……息を呑んだ。
虹の目の女は姿を消していた。
代わってそこに居たのは、先日オーレリオが救貧騎士団の戦列に加わった時、やってきたみすぼらしい娼婦だ。
「ならば、あなたの罪には、あなたにとって最も恐ろしい罰を。
……神の敵におなりなさい」




