第三〇話 天文十二年七月中旬『引き際』
「い、いかが致しましょう、叔母上!? すぐに後詰めに向かわねばとは思ったのですが、先程、戦の才はないと言われたことを思い出し……恥を忍んでぜひ策をご教授して頂きたく」
信広殿が切羽詰まった顔で問うてくる。
ひぃぃ、さっき心を鬼にして軍才のなさを指摘していなかったら、上和田城救出に突っ走っていたってことか。
間一髪すぎる。
おそらく一万もの規模となれば、史実から顧みて、敵の総大将は太原雪斎と見てほぼほぼ間違いないだろう。
信広殿には悪いが、あの怪僧相手ではあまりに分が悪すぎる。
思いとどまってくれたようでなによりだった。
「急がば回れ。とりあえず、状況を整理しましょう。地図はありますか?」
「っ! 今すぐ用意を!」
「お待ちを! あっしが持っておりやす」
慌てて踵を返そうとする信広殿を、小猿が制止する。
続けて胸元より畳んだ紙を取り出し、畳に広げる。
そこに描かれていたのは、三河国の地図……ではあるのだが、長方形の丸の中に城がいくつか書き込まれているだけ、という簡易なものだ。
まあ、二一世紀のような測量技術とかないからね。
しかも地理地形は、防衛上、最大の機密情報であり、敵方の眼もある。
どうしても大雑把なものになってしまうのだろう。
「東三河は敵地ゆえあまり正確なものとは言えませぬが……」
「いやいや、うちにあるものよりも詳細だ。大したものだ」
信広殿の言葉に世辞の色はなく、これぐらいでもかなりの精度らしい。
二一世紀の感覚だと、この辺はほんとズレるなぁ。
とりあえず脳内補完をすると、
「平城……よね」
苦虫を噛み潰したような顔で、わたしはつぶやく。
平城とは読んで字のごとく、平地に築かれた城の事である。
戦は高所のほうが有利であり、山に築かれた山城に比べると、平城はどうしても防御能力において格段に落ちるのだ。
「はっ、さすがは姫様。よくご存じで。今、それを申そうとしていたところです」
「具体的にはどんな感じの城なの?」
「規模としてはざっと一町歩あるかないかといったところですか。それを一間《1・8メートル》ほどの幅の外堀と、土塀と木柵で囲んだ城です」
当意即妙、打てば響くように返してくる。
ほんとこの辺りは、さすが情報のエキスパート。
非常に助かりはするんだけど、
「……かなり厳しいわね」
そう判断せざるを得なかった。
思った以上に小さい。
サッカーコートよりやや広いぐらいか。
城と言っても名ばかり、ほとんど砦に近く、守兵も多く見積もっても五百は超えないだろうし、これでは一万もの大軍を攻められては一日と保たないのではないだろうか。
「はい、ですので早急に救援に向かわねばなりません!」
今にも飛び出していかんばかりの勢いで、信広殿が気炎をあげる。
味方の窮地に居ても立っても居られないのだろう。
義理堅く、優しい人だとは思うのだが……
やはり戦場の将としては、絶望的なセンスのなさと言わざるを得ない。
「いえ、心苦しくはありますが、上和田城は諦める一択です」
だって引き際の判断というものがまるで出来ていないのだから。
それは将として、極めて致命的と言わざるを得ない。
「あ、諦める……ですか」
明らかに納得がいかない感じで、信広殿が問い返してくる。
わたしはその問いにはあえて答えず、
「信広殿がすぐさま動員できる兵はいかほどでしょう?」
「……そうですね、どう頑張っても一〇〇〇かそこらが限界かと」
「その程度の兵で後詰めしたところで、一万の今川勢には赤子の手をひねるようなものでしょう。勝利で敵を勢いづかせるだけです」
「~~っ!」
信広殿が悔し気に下唇を噛む。
だが、わたしはなお地図の二点を順に指差し、
「さらに言えば、上和田城の北東には岡崎城の松平家、南西には西条城の吉良家がいます」
「あっ!」
今さらながらに、その現実に気づいたらしい。
焦ると人間、視野が狭くなるからなぁ。
押し寄せてきた今川軍しか見えていなかったらしい。
けど、その二つも今川方なんだよなぁ。
「下手に救出に向かえば三包囲から袋叩きにされかねません。矢作川もある為、退路を断たれて全滅さえあり得ます」
「~~~~っ!」
とどめとも言うべきわたしの言葉に、信広殿はぐうの音も出ない感じで黙り込む。
だが、その顔は酷く悔しそうで、膝の上に置かれた拳は、血管が浮き出るほどに固く握り締められている。
何を考えているのか、手に取るようにわかる。
だからこそ、わたしはそんな彼をじっと見据え、
「なんとしてもお味方を救いたいというそのお気持ちは尊く思います。が、勝つことだけが将の役目ではありません。引き際をわきまえるのもまた、兵の命を預かる将には必要なことかと」
きっぱりと言い放つ。
戦とはいかなる名将でも、百戦百勝など出来るものではない。
信長・秀吉・家康の三英傑も、毛利元就も、上杉謙信も、武田信玄も、皆手痛い敗北を喫している。
もはや勝機はないと悟ったら、即座に手じまいして恥も外聞も捨てて撤退の判断を下せる。
これは戦に限らず、麻雀、株式投資などなど、様々な勝負事の鉄則である。
そしてこれを徹底できる者が結局、最終的な勝者となるのだ。
まあ、前々世のわたしみたいに、勝てる戦だったのに臆病風に吹かれてパニックになって降服しちゃうってのも、それはそれで問題だけど、ね。
でもさすがに、ここはどう考えても突っ張る状況では断じてなかった。
はたして、信広殿は「はああああ」と長い長い嘆息の後、
「……そう、ですね。叔母上の仰る通りかと。上和田城への後詰めは、無念ですが控え、安祥城の守りを固めることとします」
いかにも苦渋の決断といった表情で、わたしの言葉を受け入れてくれた。
色々葛藤はあったのだと思うけど、よく思いとどまってくれたと思う。
「ありがとうございます」
礼を言いつつ、わたしもホッと安堵の吐息をこぼす。
少なくともこれで、最悪の事態は防げた。
信広殿が戦死して、さらにその余勢を駆ってこの安祥城まで獲られたら、目も当てられない。
そんな未来は心底勘弁である。
「それにしても、今のやり取りで思い知りました。やはり俺には戦の才はない、と」
東に目を向けながら、信広殿は無念極まりないとばかりに力なく笑い、
「この火急の時にあってさえ、叔母上は冷静沈着に状況を読み切り、非情な決断をするのもためらわなかった。俺はただ情に振り回されていた。そこの差、なのですね」
「…………」
わたしは何も言えなかった。
こんなのは経験だ、と喉元まで出かかる。
岩村城での苦い経験が、喪失が、悲劇がなければ、わたしだってきっとパニックになっていただろう。
だが、そんな前々世の事を言ったところで信広殿が納得してくれるとは思えないし、経験を積めば自分でもなんとかなると思わせるのも酷だ。
史実を見る限り、彼の戦の才が花開くことがないのは、おそらく確かなのだから。
「しかし、無念です。すぐ目の前にある味方を救えず、見捨てねばならぬとは……」
「いいえ、別に見捨てるとは言っておりませんよ? ただ諦めるだけ、です」
言って、わたしは悪戯っぽくニッと口の端を吊り上げる。
信広殿が、目をぱちくりと瞬かせ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。
「……同じ事では?」
少し考え、眉をひそめつつ問うてくる。
まあ、確かに言葉遊びにしか聞こえないか。
でも、わたしの中ではこれは明確に違う。
人間、一度諦めたほうが選択肢が増え、できることが意外と見つかったりするものなのだ。
お知らせ
諸事情により、織田家の悪役令嬢書籍二巻の発売日が一二月一七日から二月中旬に変更となりましたorz
楽しみにしていてくださった方には本当に申し訳ありませんm(_ _)m




