夏休みだ、ご両親にご挨拶だ!
そういえば、きちんとご両親に挨拶していなかった、とハリスは思い出した。
思い出したのは夏休みがそろそろ目前になってきて、友人らが避暑地にはどこにいくか、という会話をしていてだった。友人らと一緒にどこかに出かけようか、という前にご両親にきちんと挨拶をしなければ、とハリスは思ったのだ。
アンナの家族もハリスの家族も、元々知り合いだし、お隣さんだし、とあまり気にしていなかったのだが、ハリスだけは、あの慌ただしく「これから、よろしくお願いします! 頑張ります!」というわけのわからん状態でカバンを持って馬車の前で叫んだだけの挨拶を気に病んでいた。
なんだかんだで真面目ボーイなハリスは、なにかにつけ、はっと挨拶! と思うので、夏休みはいい機会だった。ワーカーホリックな父も夏ばかりは働く気が失せるのか、避暑地に行くのだ。だから、ここしか挨拶をきちんとする場はない!
そう、俺はちゃんと挨拶するんだ! と意気込み、友人らとの冒険を脇に一旦おき、のちに合流ということにして、挨拶することに決めたのだった。
さて、それを聞いたアンナは「そんなこと気にしてたの? 別に誰も気にしてないからいいのに」とすげなく言った。が、ハリスはしっかりと首をふり「いいや、大事なお嬢さんと一緒にならせてもらうんだから、ちゃんと挨拶しなくちゃいけないぜ。これは、俺のケジメでもある。俺はちゃんとしたい」と真面目にいうので、耳を赤くして押し黙って頷いた。
そんなわけで、夏休みになり、友人らと冒険の約束をし、実家に帰ったハリスの第一声は、ただいま! ではなく「俺は! アンナの家にちゃんと挨拶に行くから、礼服出してくれ!」だった。
ハリスの母、リリー夫人は、やれやれというように肩をすくめて「まずはただいまと言いなさい」と叱った。
出迎えにきていた父、アレンは、気難しそうな顔で「お前はもっと落ち着くということを学びなさい」と苦言を呈した。
が、息子はケロッとした顔で「ただいま。あ、そうだ、挨拶したら、俺、友達と一緒に東の方の……ええっと森? で、キャンプするから」と言ったので、両親はため息を小さくついた。
「まあ、お友達と行くのならいいけど、気をつけるのよ」
「父さんが教えたキャンプの基本は覚えているな?」
「覚えてる、覚えてる。サバイバルなら任せとけって!」
「ふ、まあ、どうせお坊ちゃんたちのぽわぽわキャンプだろうがな」
「いや、普通に山登る」
「なに、そうか。そうか……、山、川……。釣り道具を貸してやろうか?」
「いい、自分のあるから。それより、挨拶しに行きたいから、アポとっといてくれない?」
ああ、わかった、と頷いて、近くの使用人にアポをとってこいと投げやりに言って、アレンはドキドキワクワクのキャンプについて息子と語りに自室にひっこんでしまった。
お使いを任された使用人はちゃっちゃと準備して、さっさとアンナの家に向かった。
「おお! アレンさんのとこの子じゃないか!」とワインを瓶でがぶ飲みしていたケヴィンがニコニコと聞いてきた。
アンナの家の人たちは大概自由人なものだから、最初はぎょっとしていた行儀の悪さも、もう慣れきった使用人は「我が家の坊ちゃん、ハリス様がご両親にきちんとご挨拶がしたいそうでアポを取りに参りました」とワインをいただきながら言った。
「ああ、挨拶ね、挨拶。あれもあれで面白かったんだがなあ。さすが真面目だねえ。さあ、ついてきたまえ。あ、このチーズ、美味しいんだよ」
「はあ、どうも」
「外でこうやって、ワインを抱えて歩くと酒飲みのクズだって思われるけど、家ならそんな必要ないから楽だよね。最近、ここの産地のワインに凝っていて、今度の避暑では妻と一緒にワイン漬けになるつもりなんだ。ワインの海で泳ぐぞぉ! うははは!」
「それは、それは……」
なんてどうでもいい会話をしながら、アンナの父、ドミニクの部屋にやってきた。
ドミニクは、ノックもなしに入ってきた息子をたしなめもせずに「ワインか! ここにチョコがあるぞ!」と嬉々として執務机から立ち上がった。
「父さん、こちら、アレンさんとこの子です」
「おお、久しいな。チョコでも食べなさい。いやあ、最近暑いね。暑くて、暑くて、最近、こんなだらしない格好をしていてね、ははは。でも、これ、楽なんだよ。さすがに伊達男と言われる自分としては、これをさらに洗練させて……ってまあ、いいか。で、用事は?」
「ハリス様がちゃんとご挨拶したいのでアポをとってこい、と」
「え、真面目……。俺はあれはあれで、中々いい挨拶だったと思ってるんだけど」
「挨拶、したいそうです。真面目な坊ちゃんとしてはケジメのつもりなのでしょう」
「じゃあ、明日でいっか」
「父さん、明日は一緒に劇を見に行く約束だったろ! 一緒に美人女優を囲んでお食事!」
「まあ、待つのだ、ケヴィン。俺はそれを反故にする阿呆ではない。ようするにだ、朝にやっちまえばいい」
「朝ぁ? え、朝?」
「朝ごはん食べながら挨拶って楽しい感じしないか。なんか家族の一員、みたいな」
「……、楽しい気がする! 親父は天才だな!」
「でしょ? 俺も俺の天才ぶりが怖いよ……」
と、親子は大笑いした後「じゃ、明日の朝八時に!」というが早いが部屋から出ると「明日の朝ごはんはちょっと豪華にしてねえ!」と厨房に叫んだ。厨房からは野太くしわがれた声で「うるせえ!」と野次がかえってきた。
まあ、こんなあんまりにも家庭的というか下町風というか、貴族感のない一家に少しばかりひきつつ、使用人は帰っていった。
朝にやりたい、と聞いた時、アレンもリリーも驚いたが、朝食を一緒にとりたい、というのを聞いて、なぜか納得した。昼間にかしこまった風にやるよりも、あの家的にはもっと近い距離で、と思ったのだろう……、と両親は思った。ハリスも思った。実際はただたんに昼に女優と一緒に食事をするから、というものなのだが、知らぬが仏というものだろう。
次の日の朝、まったく普段着で来いとまで言われたハリスは、普段着より少しおしゃれな格好をして、緊張しながらアンナ一家の邸宅の前にいた。
ぱっとドアを開いたのはアンナの母テリーであった。
少しばかりキツそうに見えるが、実際はそんなことはない暖かい女性である。
「よくきたわね、いらっしゃい。今日の朝食はちょぴり豪華なのよ。緊張しないでいいからね。なんせ、ケヴィンなんか寝起きですもの」
「あ、は、はい」
そう言われてついていくと、確かに寝起きのケヴィンが寝癖のまま席についていて「よう、義弟よ! おはよう!」と元気に挨拶し、隣の妻であるハンナは「まあ、初めまして! こんな席ではじめましてなんておかしいけど、はじめましてハリスさん。ケヴィンの妻のハンナです」と手を差し出した。
握手しつつ、ハリスは、あまりにも朝のいつもの光景という感じに、緊張がぽろっと取れた気がした。アンナは遅れてやってきたが、いつもの普段着よりもゆるいもので、朝の格好という感じがした。
目をぱちくりさせて、なぜか赤くなりつつ、お互いに「おはよう」と挨拶をして隣同士に座った。
彼らの目の前には、両親がいる。
それを見て、ハリスはぽろっと取れた緊張が急に戻ってきて、テーブルマナーに気をつけなくちゃ! と固まった。
「あ、ハリス、そこのソース取って」
「え、ああ」
「ハリス、お前の横にあるゆで卵を二個とってくれ」
「あ、はい」
「ごめんだけど、ハリスくん、そこのお水取ってくれる?」
「はい」
「いやあ、でかい男の子がいると便利だなあ、はっはっはっは!」
「待て、親父、俺だってでかい。でかいはずだ! 立て、ハリス!」
「え……」
「……六センチくらいしか違わないだろ!」
「微妙な数字ね、ケヴィン。さっさと座りなさい。ごめんね、ハリスくん。ついでに後ろのミルクとってくださる?」
「はい……」
ハリスは、挨拶をしにきたのに、なんか便利に使われているな、と今度はパンを渡しながら思った。実際、とても便利に使われていた。彼の腕の長さがちょうどいいのだ。アンナ一家は挨拶とかを忘れて朝食をもりもり食べるし、おしゃべりをする。ハリスは、また緊張感がぽろっと抜けた。
「あ、アンナ、悪い、バターとってくれ」
「はい」
「ありがとう」
「いいのよ。……お父さん、お母さん、ついでに兄さんとお姉さま。微笑ましそうに見ないでください」
「えっ、あ、あの、その……」
「まあまあ、ハリスくん、うちのアンナをよろしくってことで、ちょっと厨房に行って、ワインをとってきてくれ」
「え、あ、はい」と行こうとするのに、ぱっとケヴィンが立ち上がって「厨房の場所がわからないだろ」と言ってついてきた。
ケヴィンはにっこにこしながら肩を組んで「お前、案外アンナとうまくやってんなあ?」と頬をつついてきた。
「まあ、うん、うまくやってると思う」
「ははは! お前、ちっさい頃から好きだったもんなあ、よかったなあ」
「えっ! 知ってたのか!」
「お兄さんのそういうレーダーをなめちゃいけないわよ。お兄さん、マシューと婚約するのに反対したんだからな。それを話したくてついでに来たんだ。
マシューとの話は色々聞いた。後輩の第三王子の婚約者いたろ? あれがちょっとクラブの後輩でな、教えてもらってね。感謝してるんだ。俺が出張って、野郎をぶん殴ろうかと思ってたくらいだから。ありがとな。お前なら、アンナを任せられるって俺は思う」
「ケヴィン……」
「親父もお袋も、ハンナもそう思ってる。マシューに関しては、もう、みんなさっぱり許したってことにしてるから、自分からは蒸し返すなよ? なんだかんだで、あのお気楽親父も苦労してるんだからさ。じゃ、ワイン持って戻ろうぜ」
「うん!」
と兄弟の仲を深めて二人は帰って来た。
アンナは二人を見て「内緒でワイン飲んだりしてないでしょうね」とじとっと見つめた。兄貴の信用はあまりないのである。
「飲んでないし、飲ませてませんよ。ひどいと思わないかハンナ。俺はなんだかんだで常識派なのに」
「常識派、ねえ……。まあ、いいでしょう。義母さん、チーズはいります?」
「まあ、ありがとう」
「ひどい! ハリス、お前は俺を常識的だと思うよな!」
「うーん、ケヴィンを常識派と呼んでいいのか俺にはよくわからない。ただ、ケヴィンはいい奴だと思う」
「義弟よ! お前と父さんだけが俺の味方だ、仲良くしような! ついでにお昼に飯でもいかないか」
「用事がないから大丈夫」
「兄さん、誰とご飯を食べるの?」
それにピンときたハンナが「あなた、この間、観劇しにいった時に仲良くなった女優さんと……」とジロリと睨みつけた。
「親父と一緒だし、やましいことなんてなんにもないよ。お前も美人だが、たまには違う美人を見たいんだ。わかるか? 毎日バラばかりみていると、たまに違う花が見たくなる。花は花でも違う花で、俺が一番好きな花はバラだからな。そう嫉妬しないで」
「あら、そ!」
アンナはこっそりと「あれ、ただたんに照れてるだけよ。気にしちゃダメ。あと、行きたかったら行けばいいと思うわ」とハリスに伝えた。
ハリスは頷いて、もくもくと朝食を食べ、おしゃべりをしただけできちんとした挨拶が結局できずに終わった。
帰って来たハリスは、母と父に「挨拶の意味がなかった」と伝えた。
二人はそうだろうな、と頷いた。
なにせ、向こうの家の両親が「挨拶とかいいよ、色々聞いてるから。ハリスくんなら任せられると思うし、うちのじゃじゃ馬をむしろよろしく頼みます」と言っていたのだから。挨拶しようがしまいが、彼は向こうに信頼されているのだ。
うーん、これでよかったのか……? と首をひねる息子を二人は微笑ましく、誇らしく思いながら見つめた。




