3話 変化の兆し
ジェシカは手を止めて、騎士を見やる。彼に話しかけられたのは初めてのことだった。
ベネディクト付きになる前にも彼と顔を合わせることはあったが、話したことなどはなかった。
「ベネディクト様、夜中によく外を眺めてるんだよ。ここからは大したものなんて見えないのに、何が面白いのか、睨むように見続けてて。……その方角には、王太子殿下の部屋がある」
ベネディクトは第一子として生まれながらも、第二子に王太子の座を奪われた。そのため、王太子を憎み人知れず呪っていると噂されている。
彼はそれが真実だと言いたいのだろう。
「それに、王妃陛下だって倒れてしまわれたし」
「陛下は流行り病にかかってからひと月ほど経ちますが、ご存命です。悪魔憑きの仕業なら、数日持たず命を奪われるはずでしょう? ベネディクト様は関係ないと思いますよ」
「まあ、そうだが……。例外もあるかもしれないだろう? 警戒しておくにこしたことはない。一介の侍女なら、変に関わらなければ問題はないと思うがな」
それでも気をつけろと、これまで何人ものベネディクト付きの侍女を見てきた騎士は忠告した。その目には心配の色がある。
彼も善意からの助言してくれているのだろう。ボロボロになって職を辞した侍女たちと同じ道を辿らないか案じてくれているのだろう。
ジェシカは彼の気遣いに礼を言い、塔の中に入った。
ベネディクトの部屋の鍵を開け、帰ってきた旨を告げる。返事はないが、聞いてはいるだろう。
そのままジェシカは控室に戻った。
次の仕事は昼食の配膳だが、あと数時間はある。掃除は昨日したので今日はなしだ。二日連続で掃除するのはベネディクトの機嫌を損ねてしまう。
いつベネディクトに呼ばれてもすぐに動けるように近くの椅子に座った。
壁に設置されている小さな窓に目を向けた。毎日見ている光景だが、木々に咲く花は日ごとに様相を変えるので見ていて飽きない。
外を眺めていると、自然と今日聞いたベネディクトの悪い評判を思い出す。当たっているところもあれば、外れているところもある、というのがジェシカの率直な感想だった。
極力関わりを避けられているが、だからと言ってベネディクトが邪悪な人間だとは思えない。
見張りの騎士はこれまではジェシカに対して冷たい反応をしていた。だが、毎日顔を合わせて挨拶をしているうちに、ジェシカを心配してくれるようになった。
あの騎士の優しさをジェシカは今日初めて知った。
同じように、ベネディクトもまだ知らないだけで優しいところもあるのかもしれない。
もちろん、過信はしてはならないが。
そんなことを考えているうちに、やがて昼食の時間となった。
ジェシカは机に食事を並べた。配膳が終わると、邪魔にならないよう壁の方に寄る。呼ぶのが面倒だからと、食事の時だけは部屋の中で待機することが許されていた。
ベネディクトは無言で食事を始める。
幽閉の身でも彼の食事は豪華だ。王族の食事はすべて料理長が丹精込めて作っていると聞いている。
だが、ベネディクトは無感動に黙々と食べていく。味わうこともせず、ただ機械的に口に運んでいた。
ベネディクトはいつもこの調子だ。一度たりとも笑顔など見たことはない。
彼には好きなものはないのだろうか。
ふと、アネットにもらった焼き菓子があることをジェシカは思い出した。
ここでは菓子の類は出されない。もしかしたら、ベネディクトは甘いものが好きな可能性もある。
これまでジェシカは私語をなるべく謹んできた。だが、今日は話しかけてみようと思った。
久しぶりに友人に会い、同僚である騎士の優しさを知って浮かれていたのかもしれない。
「ベネディクト様、焼き菓子などはいかがですか?」
「……いらない。食事だけで十分だ」
ベネディクトはこちらを見ることなく、断った。
ジェシカは謝罪をし、いつものように口を噤んで控える。
だが、ジェシカは微かな期待を感じていた。
ベネディクトは相変わらず素気ない態度だ。しかし、ほんの一瞬だけ、返答に迷いがあった。
もしかしたら、ベネディクトは甘いものが好きなのかもしれない。
素直にジェシカから受け取ってはくれないだろうが、食べられる機会があれば食べるのではないだろうか。
それに、彼の態度も以前と変わってきている。
侍女となったばかりの頃、給仕を申し出た時は面倒だと睨まれて終わった。茶菓子のことも一緒に話したが、今のような反応は示さなかった。
それに言葉遣いも以前より柔らかくなっている気がする。おそらく、あれが彼の素なのだろう。
ベネディクトはジェシカの存在に慣れてきているのかもしれない。
相変わらず警戒はされている。
だが、ベネディクトの言いつけを守る人間ではあると信頼されているのかもしれない。分は弁えていると。
それなら、彼の不快にならない範囲で動いてみようとジェシカは思った。
その二日後、ジェシカは行動に移した。
料理長に頼み、ベネディクトの食事にデザートを追加してもらったのだ。
「ベネディクト様にはデザートをつけないと、前任者から聞いていたんだが」
料理長はそう渋ったが、前々からベネディクトの食事量が少ないと気にしていたらしい。是非と頼み込むと、張り切って作ってくれた。
「ベネディクト様、食べてくださるかしら」
彼の普段の食事量を考えれば、完食は無理だろう。でも、ひとくちかふたくちでも食べてくれれば。
期待を胸に、ジェシカは塔の長い階段を登る。感情を表に出さないよう気をつけながら、ベネディクトの部屋の扉を開けた。
「……ああ。もう朝か」
ドアを開く音で目を覚ましたベネディクトは、あくびをしながらベッドから起き上がる。
ベネディクトは元々目覚めるのが遅いが、たまに昼過ぎまで寝ていることがある。
今日は二度寝はするつもりはないようで、食事をしようと椅子に座る。
まだ眠そうな目は、並べられた食事を見て見開かれた。
ベネディクトの視線はデザートに向けられている。やはり、甘いものは好きなのだろうか。
内心喜んだジェシカの耳に、地を這うような低い声が届いた。
「――ずいぶんと、なめてくれたものだな」
はっとして顔を上げると、ベネディクトが強く睨みつけていた。




