20話 天を仰ぐ
「姉上。とうとう旅立たれてしまうのですね」
タウンハウスの応接間でお茶をひとくち飲んだユージーンが寂しそうに呟いた。
モーガン伯爵の蛮行から一年が経ち、十二歳となったユージーンは学院に通うため王都に越してきた。以前よりも頻繁にジェシカに会えるようになった分、離れ離れになるのはつらいのだろう。
「寂しくなるけれど、元気で。手紙、書くわね」
「……はい。たまにはこちらにも顔を出してください」
「もちろんよ」
ジェシカの返答に、ユージーンは無邪気に顔をほころばせた。
大人びたとはいえ、彼のこういうところは以前と変わらない。
「フォード卿。どうか、姉をよろしくお願いします」
ユージーンは、ジェシカの隣に座っていたベネディクトに頭を下げた。
ベネディクトは微笑み、頷く。
「ジェシカは僕にとっても大切な人だからね、誰よりも大事にするよ」
「はい。……姉が王族の方に嫁ぐと聞いた時は驚きましたが、あなたになら安心して姉を任せられます」
ユージーンはベネディクトと数度しか顔を合わせていないが、すっかり彼を信頼しているようだ。
それだけ、ベネディクトにはフォード伯爵としての威厳があった。
エイベル・フォード。それが、ベネディクトの今の名前だ。
早々に王位争いから退き王都を離れた王妹の隠されていた息子ということになっている。
『ベネディクトである限り、お兄様は王座から逃れられない。だから、この名を渡すわ』
エリザベスはなんてことないように言ったが、それが如何に難しいことだったかをジェシカは知っていた。
王妹は王家に関わることを疎んでいる。王やエリザベスとの連絡も滅多に取らず、極力距離をおいていた。
だから、甥であるベネディクトを自分の息子として名乗らせることを承諾しなかったに違いない。
一朝一夕でできることではない。
エリザベスは何年も前から、王妹を説得していたのだろう。
「フォード領は穏やかなところと聞きますから、姉上も楽しく過ごせるでしょう。ずっと、南方に憧れていましたから」
ジェシカは目を丸くする。ユージーンはなぜそれを知っているのだろうか。
「姉上、南方のことを話す時に、目が輝いていましたから」
「そうなの? 気づかなかったわ」
「意外と本人は自覚がないものなのでしょう。ベネディクト様の侍女になる時も、楽しそうでしたよ」
ベネディクト付きになると聞いて両親は強く反対していたが、ユージーンは賛成していたのはそのせいもあったのか。
ユージーンは微笑んだあと、ふと視線を落としてつぶやく。
「ベネディクト様は災難でしたね。せっかく悪魔憑きではないと証明されたのに、儚くなってしまうなんて」
「……そうね」
ベネディクトはモーガン伯爵に盛られた薬のせいで、亡くなったと公表されていた。
ベネディクト本人の希望だった。汚名は晴らせたとはいえ、多くのしがらみのある立場でいたくはないと王やエリザベスに直談判したらしい。
『エリザベスに重責を押しつけてしまうことになってしまうのは申し訳ないが』
ベネディクトはそう語っていた。
だが、エリザベスは少しでもベネディクトの役に立てるのだと嬉しそうだった。
ベネディクトが目覚めたと聞いたエリザベスは、すぐに彼に会いに来た。
ジェシカは第三者がいないほうがいいだろうと席を外したため、ふたりがどんな会話を交わしたのかはわからない。
会話を終えて部屋を出てきたエリザベスは肩の荷が降りたような顔をしていたから、きっと長年のわだかまりが溶けたのだろう。
それからの彼女は以前のような憂いを見せることなく、政にせいをだしている。
「そろそろ行くわね。ユージーン、体に気をつけて」
「はい、姉上もお元気で」
ユージーンに見送られながら、ジェシカ達は馬車に乗った。
馬車が走り出し、ジェシカは目の前のベネディクトに礼を言った。
「付き添っていただいて、ありがとうございます」
「僕も君の弟に挨拶しておきたかったからね。ユージーンは君に似て真面目で誠実だから、ステイプルズは今後も安泰だろう」
「ええ。ユージーンはそれだけの才があります。あの子が家を継いでくれて良かった」
心から、そう思った。
令嬢として生きることを諦めて厳しい後継者教育を受けたことも、ようやく後継者として認められたと思ったら弟に譲ることになってしまったことも、未だに昇華しきれていない。
けれど、もし自分が後継者になる道を選べたとしても、ジェシカはユージーンを後継者にと望むだろう。
晴れ晴れとした気持ちで語るジェシカに、ベネディクトも同意するように微笑んだ。
祭りを迎えた街は華やいでいた。
色とりどりの花々が街を美しく飾り立て、活気に満ちた人々の声が街を賑やかす。
夢見ていた景色が広がっている。芳しい花の香りを感じながら、ジェシカは祭りをじっと見つめた。
「本当に花祭りに来ているんですね」
「予想以上に綺麗だな」
感慨深く呟いたジェシカに、ベネディクトが弾んだ声で同意する。彼も、祭に参加するのを本当に楽しみにしていたのだろう。
「花送りまで時間があるし、街を散策しようか。たくさん出店があるようだし」
「祭りをひと通り見たあと、海辺にも行きませんか?」
「もちろん」
ベネディクトと並んで歩き、花々を愛でたり買い食いをしたりと楽しむ。
フォード領に越してきて一年半。
ふたりの生活は多忙だった。ベネディクトは領民の信頼を得るべく日夜領地経営に励み、ジェシカはベネディクトの妻として家の仕事に追われていた。
花祭りのため、どうにか数日休みをもぎ取ってここに来ることができたのだ。
「あちらに美味しそうなお菓子が――」
ジェシカが気になる屋台に近づこうとした時、ふわりと空から花びらが降ってきた。
顔を上げると、空から花びらが次々と降り注ぎ始めた。
花送りが始まったのだ。
「わぁ……!」
ジェシカは目を見開いた。ひらひらと雪のように、色鮮やかな花びらが舞い落ちる。
「とても綺麗ですね……」
「……」
隣にいるベネディクトに声をかけるが、反応がない。
ジェシカが不思議に思ってベネディクトを見ると、彼は複雑な表情を浮かべていた。
「どうされました? 具合が悪いのですか?」
「いや……こんな風に空を見上げる日がくるなんてと思って」
ベネディクトは長い間、ひとり夜空を眺めていた。遮るもののない広い星空を、出ることの叶わない塔の中で。
あの夜、星を眺めていたベネディクトの表情をジェシカは思い出した。
「あの塔から見る夜空が一番だと思ってたけど……こんなにも美しい空があるなんて思わなかったよ」
かつて悪魔憑きと呼ばれた青年は、愛する伴侶の隣で、幸せそうに天を仰いだ。




