第53話 お風呂タイム
「それじゃあ、今日の勉強はここまでにしようか」
「んぃー……頭が沸騰しそうです……」
テーブルの上に突っ伏しながら、頭から湯気を出す彩三。最近勉強には慣れてきたみたいだけど、やはり苦手であることには変わりないらしかった。
「今日もたくさん頑張ったな。前よりも問題を解けるようになってきたし、この調子なら赤点回避もいけるんじゃないか?」
「えへへ。センパイが教えてくれてるおかげですよ。まあでも、あたしが凄いのもありますけどね!」
「あはは。ソウカモシレナイナ」
「なんか心こもってなくないですか?」
「ソンナコトナイヨ」
「そんなことありますよね!?」
彩三のツッコミを華麗に受け流しつつ、勉強道具を片付ける俺。疲れを癒すようにだらける彩三に、俺は苦笑交じりに言う。
「とりあえず風呂に入ってきたらどうだ?」
「お風呂……あー、センパイが先に入っていいですよ。あたし、これからちょっとやることがあるので」
「……これから走りに行くとか言わないよな?」
「こんな深夜に一人で外に出るはずないじゃないですかー。何もなかったとしても、もし警察に見つかったら補導されちゃいますって」
「じゃあ何するんだよ」
「もう、乙女のプライバシーは大事にしないとダメですよ? ほら、いいから、先に入っちゃってくださいよ」
今日はやけに押しが強いな。いつもと様子が違くて気になるけど、ここでわざわざ追及する必要もない、か。
「分かった。じゃあお言葉に甘えさせてもらうとするよ」
「はいはーい。ごゆっくり~」
突っ伏したまま手をひらひらと振る彩三に見送られながら、俺は浴室へと向かった。
★★★
この家に風呂は相変わらず大きいな、なんて特に意味もないことを考えてしまった。
「まあ、湯船に浸かってるからしょうがないよにゃあ……」
湯気が立ち上る湯船の中で脱力したまま、天井を見上げる俺。他の誰もいない、たった一人の時間に、ついしみじみとなってしまう。
最近は、こうして一人になれるのは寝る時かトイレの時、そして今みたいに風呂に入っている時ぐらいのものだ。ここに来たばっかりの時は三姉妹と一緒に風呂に入ったりもしていたけど、流石に最近はほとんどない。全くない、と言い切れないのは、二葉がたまに風呂に乱入してくるからである。
「二葉にはもう少し恥じらいってもんを覚えてほしいよな……」
「まあ、二姉はセンパイのことが大好きですからね」
「それ理由になってないだろ……って、ん?」
突然の違和感に、俺は思わず言葉を止める。
ええっと、状況を整理しよう。
俺は今、一人で風呂に入っている。ここで発せられる音は俺の声とお湯の音ぐらいのもので、その他の音が聞こえてくるはずがない。
一夜さんがピアノを演奏する音も、二葉がプレイするゲームの音も聞こえない。
そして、いつも明るくて騒がしい後輩の声が聞こえてくるはずもないんだけど――
「ふぃー。勉強に疲れた体を癒すには、やっぱり大きいお風呂が最適ですね……」
「…………オイ、どうして君がここにいるんだ」
「あ、やっぱり気になります?」
「当たり前だろ!」
いつの間にか俺の隣でお風呂を堪能していやがる三女に向かって思わず大声を飛ばしてしまう俺。でも、こればっかりは許して欲しい。動揺するなという方が無理な話なのだから。
彩三はお湯に浸かったまま、悪戯っぽく舌を出す。
「いつも勉強を教えてもらってるんで、お礼をしたいなと思いまして」
「それとこの状況がどう関係してるってんだよ」
「美少女と一緒にお風呂に入れる……これだけでお礼になりませんか?」
「君は確かに美少女だし、このシチュエーション自体はとても嬉しいものでもあるけど、普通に駄目だから。俺たちは高校生なんだからもっと全年齢向けな付き合いをしていかないと」
「えっ……あたしはこれが全年齢だと思ってたんですけど、センパイ的にはそうじゃないんですか? も、もしかして……センパイ、あたしをえっちな目で見てるんですか…!? きゃっ、センパイのえっちー」
「顔を真っ赤にしながらからかってきても全然響いてこないからな」
「っ……も、もう、そこは見なかったふりしてくださいよー!」
朱に染まった頬を隠すように鼻の辺りまで沈み、ぶくぶくとお湯を鳴らす彩三。あえて指摘しないけど、なんで水着すら着てないんだよこいつは。今こいつが裸であることを指摘したらめちゃくちゃ面倒なことになりそうなので、あえて見なかったふりをしておこうと思います。
「今あたしの裸見ましたよね?」
「流そうとしてるのに何で君はそう面倒な方向に話を持っていきたがるのかね!?」
「ふっふっふ。センパイをからかえる隙は絶対に逃さない。それがあたし、天王洲彩三のポリシーですから!」
「捨てちまえそんなふざけた信念!」
どうしてこんな子に育ってしまったんだろうか。まあ、こういうところが彩三の可愛いところなんだけども。
「まあまあ、今までのは冗談としてですね」
「どこからどこまでか冗談なのか分かんねえ……」
「センパイにお礼を言いたくて」
「お礼?」
「はい」
さっきまで違い、どこか真面目な顔で彩三は続ける。
「あたしに勉強を教えてくれてありがとうございます」
「……ドッキリか?」
「その反応は流石に傷つきますが!?」
「いや、だって……なぁ? 君がいきなり真面目な顔してお礼言ってくるから……なにか裏があるんじゃないかって」
「あ、あたしだってたまには素直になりますぅ! もう、せっかく勇気を出してお礼言ったのに……」
「ははっ、冗談だよ。さっきのやり返しだ」
「ぐぬぬ……センパイのいじわる……」
意趣返しが気に食わなかったのか、彩三は頬を膨らませる。
「でも、そんないじわるなセンパイのおかげで、大会にちゃんと出られるかもしれません。だから……本当に感謝してるんです。ありがとうございます」
「君達をサポートするのが俺の役目だからな」
「もう、センパイはそればっかりですね。でも……センパイらしいです」
「サポーターだからっていう以外の理由もちゃんとあるからな?」
「と、いいますと?」
「大会で活躍する彩三の姿を見てみたいから」
「……ほんと、センパイはずるいです。ずるっこです。そんなこと言われたら……嬉しくなっちゃうじゃないですか……」
「喜んでもらえてるなら何よりだな」
「っ!? お、女の子が小声で呟いた言葉は聞かなかったフリをするのがマナーですよ!?」
「聞いたことねえわそんな謎マナー」
俺は鈍感でも難聴でもないから聞こえてしまったことに対しては必ずレスポンスをしてしまう人間なのだ。
「はぁ……もういいです。言いたいことは伝えられましたから」
「そうか」
「はい。なのでもうここに用はありません。ぱぱっと体を洗って先に出ちゃいますね。では」
「え?」
先に出るって……この湯船からか? 待て、確か今の彩三はタオルすら纏っていないはずで……。
「彩三、待――」
俺の制止の声が世界に発される前に、彩三が湯船の外に出た。出てしまった。
一糸まとわぬ彼女の体が、健康的な日焼け痕のある褐色の裸体が、俺の前に堂々とお出しされた。
「……あ」
自分の状況を理解するのに時間がかかったのか、湯船から出た状態のまま硬直する彩三。
ギギギ……と錆びたブリキ人形の如き鈍重さで俺の方を振り向くと、
「……き――」
直後。
甲高い悲鳴が天王洲家の浴室に響き渡ったのだった。




