第207話 ドーピング
とても汚らしい男が腰を抜かして尻を地面に擦り付けながら後ずさっている。
見れば地面はしっとりと濡れている。
血臭溢れるこの場では全く気付かなかったけど粗相をしてしまったらしい。
「どこ行くの?」
「ひっ! ひぃぃぃぃぃっ!」
しかも私が声を掛けると頭を庇うように腕を交差させて怯える。
「あのさ、私はなんで貴方がここにいるのか聞きたいだけなの。どうしてゴランガ達と冒険者ギルドのサブマスターである貴方が一緒にいたの?」
「そっ…それは…」
しかしそこまで言って彼は黙ってしまった。
面倒になって大きく溜め息をつけば、それにすら怯えてガクガクと震えながら悲鳴を上げる。
「話して」
「…おっ俺は……おっ脅されて……そうっ脅されて仕方無くやったんだ!」
「誰に」
「そ、れは…」
さっきから何かある度にこうして言葉が詰まる。
いい大人が、自分のやらかしたことも説明出来ない。
しかも社会的に立場のある者が。
「話せないならそれでもいいけど、こうして拘束もされずに盗賊達と一緒にいた以上言い逃れは出来ないよ」
「…仕方無かったんだ…町からも本部からもいろいろ言われて…俺はもう言う通りにするしか…」
町から?
本部とは冒険者ギルド本部のことだろう。
「なんでここにはギルドマスターがいないの?」
「…ギルドマスターは……妻は誘拐されて…。返して欲しかったら言うことを聞けと、家に手紙が…」
奥さんを人質に取って、やりたい放題、と。ゴランガ達は本当に外道だね。
本来なら彼ではなくギルドマスターがやるような仕事も彼が全てやっていたということかもしれない。
ギルドマスターは何年かに一度本部がある帝国の帝都に集まって会議を行うと聞いたことがある。
けど多忙を極めるギルドマスターの仕事なので代理としてサブマスターが行くこともあると聞いてるし、彼の場合はそうしていたのだろう。
「君がゴランガ達をギルドに連行してきた後、目を覚ましたゴランガが言ったんだ『ギルドマスターを無事に返してほしかったら自分達を解放しろ』と…」
「それで言う通りにしちゃったの?」
私が聞き返した言葉にカッとなったのか、サブマスターの男は勢いよく顔を上げて口を開いた。
「…仕方ないじゃないか! 冒険者ギルドは町を守るための組織だ! ギルドマスターはそのトップなんだぞ! 町を守るのとギルドマスターを守ることは同じじゃないか!」
「冒険者の仕事は人々の生活を守ること。町を守るのは衛兵の仕事よ」
「ここの町長がそんなことするもんか! あいつは衛兵に使うための金を自分のために使ってるんだ! だから冒険者達が町を守らないといけないんだ! だから冒険者ギルドを守るんだ! そのためにギルドマスターを最優先に助けて何が悪…がっ?!」
興奮に任せて思うままに話そうとした彼の胸倉を掴んだのはほとんど無意識だった。
私自身もなんで動いたのかはよくわかってない。
でも、あの言葉の先だけは言わせてはいけないと思った。
「ふざけないで!」
住民達が後始末をしている喧噪があちこちから聞こえてくる中、私の声はとても響いた。
周りにいる人はみんなその手を止めてこちらを見ている。
「町を守る? 冒険者ギルドを守る? だったらこの町の有り様は何?! 貴方はサブマスターでしょ。奥さんはギルドマスターでしょ。だったらもっと、先にやることがあるでしょっ!」
サブマスターの胸倉から手を離して軽く放った。
それだけで彼は尻餅をついて、うなだれるように顔を上げなくなってしまった。
「犯罪者に好きにのさばらせておいて、ギルドマスターを最優先に守りたい? 貴方がやるのは奴等の言うことを聞くことじゃなくて、他の冒険者ギルドに助けを求めることじゃないのっ?! 今の貴方がやってることをギルドマスターが知ったら、さぞ失望することだろうね」
あまりに頭に来て好きなことを言いまくった。
別に私だって正義の味方な訳じゃない。
でも冒険者なんてのはお金は取るけど、基本的に誰かのために戦ってる連中ばっかりだ。
そりゃ中にはどうしようもないのもいる。ゴランガみたいに正真正銘の屑もいるけど、だいたいがお人好しの格好付けだ。
「お、俺は…」
「町に着いた時、やたら丁寧な話し方で私を洞窟に行かせないようにしてくれたでしょ。そういう気の回し方を違う方向でするべきだったのよ」
もう私が何を言っても動く素振りはない。
後は住人達か衛兵、それか遅くなるけど王都かベオファウムから派遣されてくる人達に任せるのが良いかな。
これ以上は私の依頼からは逸脱しすぎる。
一番手っ取り早いのはベオファウムからギルドマスターのブルーノさんあたりを連れてくるのがいいかもしれないなぁ。
この後のことを考えていると、サブマスターとは反対の方向から地面を擦る音がしたので振り返った。
見ると私に左腕と両足を斬られたゴランガが右腕だけを動かして何かをしている。
ポーションか何かで回復するつもりかな?
残念だけど身体の一部欠損はただポーションじゃ治らない。
アイカのポーションでもかなり貴重な材料を使うため、頼まれても滅多なことでは作らないとか。
私は三本持たされてるけど。
「無駄な足掻きはやめなよ。貴方はもうすぐ死ぬんだよ?」
「…お、俺様を見下ろしてんじゃ、ねぇ…。み、見て、やがれ…こい、つで…」
ゴランガが取り出したのは真っ黒い液体が入った小さな瓶。
何かとてつもなく嫌な気配がするその液体を私に見せつけると、ゴランガは躊躇することなく口に入れた。
「が」
「が?」
その液体がゴランガの喉を通ると、彼は瓶を取り落としてそのまま動きが止まってしまった。
しかし次の瞬間。
「がががががががががががっ!」
「なっ何?!」
突然大声で叫び出したゴランガ。
そしてその身体から立ち上る黒い影。まるで視認出来る魔力のようにも見えるそれはゴランガの身体を包み込んで外からは全く見えなくなってしまう。
しかしズルルッと肉を引き裂くような音、ゴキンッと骨を無理矢理外したような音だけははっきりと聞こえてくる。
やがて黒い影が無くなるとゴランガの姿が現れた。ゴランガだったもの、と言った方が良いのかもしれないけれど。
「あが…がが…あ…」
「…っ…な、んなの…それ…」
影の中から現れたゴランガは私が斬り飛ばした腕や足がすっかり再生していた。
しかしそれは元々あったゴランガ自身の鍛え抜かれた肉体のものではなく、鱗や羽毛の生えた異形としての姿だった。しかも再生した部分だけではなく、元からあった胴体部分までも真っ黒な羽毛や鱗で覆われており、その顔はオーガキングよりも恐ろしいほどの怒りの形相が刻み込まれている。
「鬼…?」
「…あ…俺様、は…?」
「意識があるの?」
私が声を掛けるとゴランガは両手を自分の前で握っては開き、その感触を確かめているかのようだ。
そして徐々に高まっていくのがわかるほどの圧倒的な存在感と魔力。
さっきまでのゴランガとは比べ物にならないほどの力を感じる。
「はっ、ははっ! こりゃいい! なんだこの力はっ!」
「ゴランガ…さっきの液体は何?」
「あぁっ?! セシルじゃねぇか…。今ならお前だって簡単に殺せそうな気がするぜ」
「私の質問に答えて」
「へっ、知るかよ。ありゃ前にどっかの貴族の使いが寄越したもんだ。死にそうになった時に使えば今よりもっと強くなれるってなぁ!」
質問に答えた後、ゴランガは全身に力を込めるように一度ブルっと震えた。
ズガアァァァァァァァン
見えたのはゴランガが前傾姿勢を取った後、私に向かって突進してくる姿だった。
あまりの速度に避けるとか受け止めるとか考える前に私の身体はゴランガに殴り飛ばされて後ろの民家へと叩きつけられ、更に二軒分の壁を貫いた後にようやく止まった。
「かはっ…な、何、を…?」
信じられない。
私がここまで純粋にダメージを受けるなんて。
こんな風に傷つけられたのはユアちゃんに用意してもらったエクシードレオン以来だと思う。しかも息が止まるほどとなればケツァルコアトル以来か。
「ははははははっ! 最っ高だ! あのセシルを問答無用でぶっ飛ばせちまった! 今なら楽勝でぶっ殺せるぜ!」
民家数軒を隔てた先から品のない高笑いを上げるゴランガ。
確かに油断、というか呆気に取られて殴られたけど簡単にやられてやれるほど私と貴方の実力差は開いてないよ。
身体に覆いかぶさっている瓦礫の欠片を叩き落としながら立ち上がると、ゆっくり歩いてゴランガの元へと戻った。
気付けば住民たちは完全に避難したようで、異形へと姿を変えたゴランガを魔物と勘違いしたようだ。その方が私も助かる。
「あぁ? まだ生きてやがるのか…さすがにしぶてぇな」
「それで、さっきの液体は?」
「あぁっ?! だから貴族の使いに貰ったって言っただろうがっ! こいつを使えばユニークスキルの魔人化っつーとんでもない力が手に入るってなぁっ!」
「魔人化? その姿が魔人化だって言うの?」
冗談も顔だけにしてほしいね。
あれは魔人化じゃなくてただの魔物化にしか見えない。
今のゴランガはオーガとオーク、リザードマンを足したような姿。
控え目に言っても魔物としか呼べない。
それにしても本当にゴランガが魔人化を使えるようになったのかな? ちょっと鑑定で見てみよう。
私はゴランガに対して人物鑑定を使ってみた。
パチン
「…やっぱりというか、なんというか…。鑑定出来ないね」
「何言ってやがる」
「今の貴方は人物鑑定を使えない存在、つまり魔物や動物と同じになってるって言ってるんだよ」
どう見ても魔物でしかないけどね。鑑定出来ないという事実からも、やっぱりこれは魔人化なんかじゃない。もっと悍ましい何かだ。
しかし私の言葉に多少はショックを受けたのか、ゴランガは自分の身体を見回していた。
尤もそれもすぐに終わるとニタリと気色の悪い笑みを浮かべ、その濁った瞳を真っすぐに私へと向けた。
「どうでもいい。俺様はお前を殺せるならもう何でもいい。お前だけは絶対にぶっ殺すって決めたんだからな!」
「そんな熱烈な告白お断りだよ!」
「例え逃げても地獄の底まで追い回してやるぜ」
「そんな質の悪いストーカーはもっと嫌だよ! あぁっもう! ほんっとに最っ低な男ね!」
「さぁ、今度こそ本気の殺し合いをしようぜぇ」
蛇のように長くなった舌で自身の口を周りをベロリと舐めると、ゴランガは自分で纏っている影のような黒い靄から巨大な斧を作り出して構えた。
まさかの第二ラウンドに、私は改めて短剣を抜いて構えたのだった。
今日もありがとうございました。




