9話 狡妖猿猴
2月も下旬に差し掛かった。まだまだ気温は寒く、吹きすさぶ風は身体の芯まで冷やしてくる。八王子は盆地ということもあり、底冷えする寒さが続いていた。
来週はいよいよ都立高校の受験日ということもあって、クラスメイト達もピリピリそわそわしている。受験しない鈴鹿には関係ないことだが、クラスの雰囲気の変化に鈴鹿も昔のことを思い出す。相変わらずクラスメイトから浮いている鈴鹿だが、それももうそろそろ終わると思えばしんみりもするものだ。
だが、そんな余韻に浸ることなく、下校を知らせるチャイムが鳴れば我先にとカバンを引っ掴み鈴鹿は帰宅する。今日は金曜日。年が明けてから恒例となっている、東京ダンジョンへ行く日であった。
◇
同日夕方。東京ダンジョン1層5区深奥。そこに鈴鹿の姿はあった。
もう何度目の挑戦だろうか。鈴鹿のレベルは未だに52。この2ヶ月、1レベルも成長していない。
別にレベルを上げて挑んでも良いのだろう。きっとここまでのレベル差がなかったとしても、スキルもステータスも成長する。だが、これは鈴鹿の意地であった。意地は貫き通してこそ意味がある。本気でやると決めたダンジョン探索。ならば意地も貫いて見せねば格好がつかない。
「よぉ猿猴。お前の顔見るのもいい加減飽きてきたぜ」
狡妖猿猴:レベル120
鈴鹿の目の前には、巨大な猿のモンスターがいた。6つの腕に3つの顔は三面六臂を体現しており、鈴鹿が見上げるほどでかい。腕一本一本が太く、拳は握れば鈴鹿の上半身くらいはある。溢れ出るオーラは凄まじく、並みの探索者ならば相対しただけで気を失うことだろう。
猿猴は鈴鹿の言葉に、こちらの方がいい加減飽きたと言わんばかりに、飽いた顔でため息を吐いている。
だが、鈴鹿は気にならない。なぜなら、猿猴の面を拝むのも今日が最後だと思っているからだ。
「おいおい、そんな邪険にするなよ。今回で最後なんだぜ? お前をぶっ倒して、もう二度と会うことは無い」
「ヴォォオウウオ」
鈴鹿の言葉がわかるのか、猿猴はどうせ敵わないと馬鹿にしたように見下ろしてくる。
「今回はマジだぜ? 前回で何も感じなかったのか? お前、油断してるとすぐ死ぬぞ」
鈴鹿は全身に魔力を巡らす。魔力が迸り、鈴鹿の身体が淡く光った。
そして毒魔法を発動させる。鈴鹿の毒魔法はあれからさらに成長し、現在のスキルレベルは7。レベル6の壁を越え、蠱毒の翁に迫るレベルへと達していた。
蠱毒の翁の動画は全て視聴した。動画の本数は多くなく、本当に毒魔法についての説明のみで終わっていた。それも基本的なことがほとんどだ。簡単な応用を説明するにとどめ、詳しくは語っていない。
ギルドとの秘密保持もあるのだろうが、恐らく多くを開示することで視聴者の選択肢を狭めたくないという思いがあるのだろう。毒を自由に生み出せるレベル5の説明で、催眠ガスや幻覚作用を持つガスが作れるよとしか言われなければ、他にもこんな毒あるよねと想像することができる。だが、こんな毒作れるよと100種類も話し出せば、その中から選ぼうとしてしまい想像の余地がなくなってしまう。
蠱毒の翁は自分の後継を作ることが目的ではなく、あくまで毒魔法の頂へ迫る探索者が現れることを願っていた。だからこそ、言葉少なく視聴者に委ねたのだろう。
そのおかげなのかどうかはわからない。だが、蠱毒の翁の動画を見たことで、鈴鹿は一つの確固たる戦闘スタイルを築き上げることができた。
毒魔法が発動する。鈴鹿が操る毒魔法は、蠱毒の翁の毒魔法とは毛色が大きく違っていた。
体内を巡るように発動された毒魔法は、両の腕を侵食してゆく。白かった手が見る見る汚染され、毒に染まっていった。
毒手。それが鈴鹿が出した答えだった。
今までのように毒魔法を腕に付与するのではない。手そのものを猛毒化し、触れるものすべての命を刈り取るために毒素を練り込んでゆく。ガスなどの希薄な物ではなく、この世に存在しない劇毒が固体となって手の形をしていた。
毒手は毒魔法の答えでもあり、体術の答えでもあった。
鈴鹿の現在の体術スキルはレベル8。1月末から体術のスキルは上がっていなかった。
だが、今日体術のスキルは上がる。そう確信を持てていた。
何故なら、鈴鹿は毒手によってイメージできるようになったのだ。素手で剣に勝つイメージが。
今の鈴鹿の手であれば、触れただけで剣を溶解させることは造作もない。撫でれば人は死に、触れれば無機物は溶ける。
そして、この毒手はそれだけで終わらない。鈴鹿が両手を握り、拳を打ち付け合えば、まるで金属同士をぶつけた様な甲高い硬質な音が響いた。
鈴鹿はこの毒手という発想に至った時、毒のイメージに硬さを求めた。毒に液体やガスの状態があるのならば、当然固体も存在する。固体が存在するならば、この世に存在するどんなものよりも硬質な物体の毒を生み出すことだってできるはず。
始めは毒で手を侵食するまでは良かったのだが、それだと脆すぎて少し小突いただけで手が崩壊してしまう事件も発生した。『聖神の信条』の再生能力をいいことに、鈴鹿はああでもないこうでもないと手をいじり続け、猿猴を殴っては壊れた手を強化し、猿猴を殴っては壊れた手を強化しと鍛錬を重ねていった。
そして、試行錯誤の末にたどり着いた鈴鹿の答えは、真っ向から剣を弾き返せるほどの硬度を持った黒鉄のような手へと至ることができたのだ。
毒手という答え。それが正しかったかどうか。それは、目の前の猿を倒して初めて証明される。
「さぁ猿猴、存分に警戒しろ。今日がお前の命日だ」
そして、鈴鹿と猿猴の戦いの幕が切って落とされた。
◇
土曜日の深夜。すでに日付としてはとっくに日曜日に変わった今も、鈴鹿と猿猴は戦い続けていた。
「アッハッハッハアハハアアア!! へばるにはぁぁあ!! まだ早ぇえぞ猿猴ッ!!!!」
鈴鹿の叫びと肉を殴りつける音が響く。猿猴の脚を殴りつけた鈴鹿の拳は今までの様に壊れることはなく、殴られた猿猴はたたらを踏んでいた。
殴っても殴っても1ダメージも入っていなかった今までからは、考えられない光景だ。鈴鹿と猿猴ではレベル差もあるため、どれだけクリティカルヒットしたとしても大ダメージは入らない。
だが、そもそも倍以上のレベル差があるモンスター、それもエリアボスにダメージが入っていること自体がおかしかった。
鈴鹿はろくに調べていないため知らないが、5区のエリアボスにレベル100未満で挑むこと自体、無謀、蛮勇、無知蒙昧の所業であった。
5区の通常モンスターの最大レベルは100であり、エリアボスはレベル120ある。そして、探索者はレベル100を超えれば存在進化することができる。これが意味するところは、通常モンスターでレベル100まで上げ、存在進化を果たしてから挑むべき相手ということだ。
存在進化することで、能力値が圧倒的に上昇する。レベル50の強化でも目に見えてモンスターとの戦いが楽になったが、それ以上の変化をもたらす。存在進化している者としていない者では、決して覆せない差があるとまで言われている程の差が存在するのだ。
存在進化はただ見た目が変わるだけの能力ではない。文字通り、人間という種を超え生物として進化するのが存在進化だ。人間を捨てることで、圧倒的な強さを手に入れることができる。
そんな存在進化していることを前提として戦うべき相手。そもそも、4区5区に出現するモンスターは、ステータスが高い探索者が手こずるほど強化されたモンスターだ。
相手はそんな一匹一匹が強力なモンスターが住まうエリアのボスであり、存在進化した探索者でも死闘が必須のレベル120のモンスター。かたや、存在進化はおろかまだレベル50を超えたばかりの、駆けだしと言ってよい程度の探索者。
そんな戦いが勝負になることなんて、まずありえない。勝負ではない。一方的な蹂躙だ。子供が蟻相手に遊ぶようなものだ。子供側が危険と思うことすらおこがましいほどの歴然たる差。どちらが勝つか賭けをすればオッズはエリアボスが1.0になり賭けにはならず、10秒経っても立っていられたら大手ギルドがこぞって勧誘しに来るレベルだ。
事実、鈴鹿は猿猴と初めて対面したとき、殴った拳は拳側がぐちゃぐちゃに潰れ、猿猴の攻撃には防御どころか避ける動作すら取れず一方的に殴殺された。『聖神の信条』という特異なスキルが発現しなければ、鈴鹿はそもそも5区のモンスターにすら勝てず、樹々の養分にでもなっていただろう。
そこからスキルレベルが軒並み上昇したとはいえ、『聖神の信条』が無ければ何度も何度も何度も何度も死んでいた。猿猴の攻撃がかするだけで死に、猿猴が毒ガスを使うだけで死に、猿猴を殴るだけで拳は壊れ、蹴れば脚の骨が折れていた。例え猿猴が動かなかったとしても倒すことができず、少し動くだけで鈴鹿の命の灯は簡単に吹き消されていた。
そんな絶望的な相手。
『聖神の信条』によって死ぬことがないとはいえ、痛みはある。例え痛覚鈍化のスキルがあろうとも、身体の表面に水疱が出現すれば痒くて痒くて気が狂いそうになるし、毒により身体の内側がドロドロに腐る激痛は目玉が転げ落ちそうなほど眼をかっぴらき頭が真っ白に染まって気絶するほどの痛みがあり、捕まれば握り締められ全身の骨が砕け、再生し、また砕け。1秒が何時間にも引き延ばされたような苦しみが全身を駆け巡る。そのまま引き千切ろうと引っ張られれば、皮膚が張り裂け四肢がもげ、それを無理やり再生させようとするため永続に続く痛みで気が狂いそうになった。
『聖神の信条』のおかげで死ぬことは無いが、『聖神の信条』のせいで永遠にも苦痛が続いてしまう。
それでも、鈴鹿は諦めなかった。痛みにおびえ猿猴から逃げ出すことも、聖魔法を使って倒そうとも、勝てないと見切りをつけレベルを上げてから挑むこともしなかった。
ただひたすらに、猿猴を倒すために。鈴鹿は常軌を逸した執念で猿猴に挑み続けた。それはもはや妄執と呼ばれるものになり、勝つことは不可能な相手へと固執させ続けた。
だが、何においても自分の考えが正しいと走り続けられた者に、光は差すものだ。周囲の意見を聞き取り入れることは重要であるが、時にそれは自身の方針すらも歪めてしまう。
鈴鹿の周りには、咎める者も諭す者も諫める者もいなかった。鈴鹿が決めた方針を邪魔する者は誰一人いなかった。
なぜなら、鈴鹿は一人でダンジョン探索をしているから。
一人で挑む鈴鹿は、すべての責任が鈴鹿に集約し、すべての行動が鈴鹿の意のままであった。
だからこそ、このような蛮行におよび続けることができた。
「どうした猿猴ッ!? 動きが鈍ぃぞ!! さては痛ぇのか? 痛ぇんだな!! おいおいおい!! その程度の痛みで鈍ってんじゃねぇぞゴラァァアア!!」
まるで柳の様に猿猴の猛攻を回避する鈴鹿。猿猴に僅かでも隙が見られれば、即座にその腕を殴りつける。
「ヴォォウ!?」
殴られた猿猴は思わず呻き声を上げる。鈴鹿に殴られた箇所はうっすらと青紫色に黒ずんでいた。
鈴鹿の毒手は手の硬度を上げることで、思いっきり殴りつけても壊れない手になっている。だが、本質は毒手だ。毒手とはかすり傷を与えただけでもそこから毒を侵入させ、相手を死に至らしめる禁じ手。
鈴鹿の毒手は毒魔法レベル7で作られた猛毒の手だ。硬さを追求しているが、同時に触れたもの全てを死滅させる毒を念入りに流し込まれた毒手だ。耐性もある猿猴は即死することは無いが、それでも鈴鹿が殴りつけた場所から毒は巡り動きを鈍らせてゆく。
すでに猿猴の身体の多くが、鈴鹿に殴られた跡として黒ずんだ皮膚となっていた。
「毒使いがさぁ!! ちょっと毒浴びたくらいでよぉ!! 怯んでんじゃねぇぞ!!! 失望させんなよエテ公ッ!!!」
猿猴は尻尾や脚も使い手数で鈴鹿を追い詰めるが、そのことごとくを避けてゆく。今まで何度も何度も何度も何度も攻撃を喰らい、死に、再生し、身体で覚えたことで予知の様に動きを先読みし回避する。まるで宙を舞う綿毛を殴るように、猿猴の猛攻は鈴鹿に当たらない。
体術、身体強化、身体操作、見切り、思考加速。それらスキル全てが高レベルであり、それぞれのスキルが相乗効果を発揮することで、絶望的なレベル差を埋め、本来視認することすら困難な猿猴の攻撃を避けることができていた。
もはや鈴鹿は『聖神の信条』による回復の能力を必要としていない。ありえないことに、レベル差が倍以上ある、それもエリアボスを相手に、鈴鹿は攻撃を避け続けカウンターを打ち込み続けていた。
「ヴ、ヴァ゙ァ゙ア゙アアア゙ア゙ア!!!!!」
猿猴が堪らず3つの口から猛毒を吐き出す。それぞれの口から流れ出るガスが混ざり合い、状態異常耐性レベル7すら貫通する猿猴が放つ最凶の毒ガスだ。
普通であれば一旦距離を取るだろう。瞬時に広範囲にまき散らされる毒ガスは、一吸いするだけで内臓がやられ、肌に触れただけで全身が毒に侵される。生物に備わっている本能として、退く以外の選択肢はない。
だが、鈴鹿は退かない。頭に響く危険だという警報は、とうに壊れていた。余りにも警告を無視し続ける鈴鹿に見切りを付けた本能が、むしろ積極的に前へ進めと後押しする。
「だぁぁかぁぁらぁああ!! そんな毒は効かねぇって言ってんだろうがァア゙ァ゙ア゙ア゙ア゙!!!」
猛毒に晒されることも厭わずに、鈴鹿は猿猴へと迫る。
本人は効かないと言っているが、鈴鹿の状態異常耐性のスキルレベルは7であり、猿猴が放つ毒はしっかりと効く。だが、鈴鹿にとって死なない攻撃であれば効かないのと変わらず、避けるに値しない攻撃へと成り下がる。
もはや痛みを感じる回路が焼き切れているため、どれだけ激痛を伴う毒を浴びようとも鈴鹿の歩みが止まることは無い。今までなら鈴鹿の耐性を突破し、痛覚があるならば痛みで悶え、そうでなくとも全身の穴という穴から出血し動きに支障が出ていただろう。だが、戦闘でハイになり、絶対に効かないと信じ切った鈴鹿にスキルが応える。
死地だろうと、一歩前へ踏み出した者にダンジョンは微笑む。鈴鹿の状態異常耐性のスキルレベルが7から8に上がり、猿猴が吐き出す最凶の猛毒すらねじ伏せることに成功した。
毒を吐くことで隙ができた猿猴を殴りつける。鈴鹿の一撃で猿猴が吹き飛ぶような威力はまだ無いが、堅固な拳は猿猴の防御を突破し確実にダメージを積み重ね、そこからジワジワと浸透する毒が蓄積し猿猴の体力を蝕んでゆく。
距離を取らせるために横薙ぎに振られた尻尾に対し地面を這うように屈んで避け、尻尾を振り回した回転に合わせ頭上から振り下ろされる三つの裏拳を後ろに飛び退り回避する。巨大な拳を三つも繰り出されると、面攻撃となり回避する余地もなくなってしまう。
さすがにステータスの差が大きすぎるために、攻撃を真っ向から受け止めることができない。猿猴の攻撃は全て回避するしか選択肢がなかった。
鈴鹿が引いたことで、猿猴はようやく束の間の休息となった。
改めて猿猴は鈴鹿を睥睨する。この小虫のように小さい人間は、あろうことか自分の攻撃をことごとく避け、渾身の毒すら意に介さず攻撃してくる。ちらりと自身の身体を見れば、殴打され流し込まれた毒のせいで皮膚が黒ずみ腐り始めていた。いったいどれだけ殴られたのか、まともな皮膚を探す方が困難なほどだ。
攻撃も当たらず、毒も効かず、逆に自身は毒に侵され刻一刻と命が削られている。このままではジリ貧だと理解した猿猴。
追い詰められた者が取る行動は二つ。逃げるか決死の反撃に打って出るか。当然猿猴は逃げることはしない。
覚悟を決めた猿猴が、『聖神の信条』すら突き破り鈴鹿を殺すために力を溜める。猿猴の変化に、鈴鹿も気づいた。
「おいおいおい。嬉しいじゃねぇか。ようやく敵として認めてくれたってことか?」
猿猴に強烈な魔力が渦巻いている。今から本気でお前を殺しますと言わんばかりに、猿猴が力を溜めている。
そのことに、鈴鹿はどうしようもないほど歓喜した。
初めて猿猴と遭遇した時は、文字通り手も足も出なかった。身動きすらろくに取れず、ただただおもちゃの様に猿猴の攻撃を受け続けるだけだった。避けることも立つこともできず、痛みで気がおかしくなるのを必死に堪えていた。
それが徐々に猿猴の攻撃を眼で追えるようになり、避けることができるようになり、ダメージは入れられないがカウンターを入れることができ、そして今、猿猴が鈴鹿のことを明確な敵として認識している。
レベル120のエリアボスが、レベル52のたった一人の探索者を敵として認識し、最大火力の攻撃を行おうとしている。まさに驚天動地の光景。こんなこと誰かに話しても、誰も信じはしないだろう。むしろ、ダンジョンで精神が疲弊し壊れてしまったのだろうと憐れまれるだけだ。
だが、現実は小説よりも奇なり。
1層5区という凶悪なモンスターが住まうエリアの頂点に君臨するエリアボスである猿猴が、このエリアではなんとも儚く弱く吹けば飛びそうな存在である存在進化すらまだの探索者相手に、これでもかと魔力を注ぎ込んだ攻撃を行おうとしている。
この事実は揺るぎようもない真実であり、今まさに目の前で起こっていた。
「俺はさ、お前と戦ったことでスキルについて良く考えるようになったんだよ。レベル上げられないから、スキルを強化するしか勝つ方法がないからな」
この2ヶ月あまり、鈴鹿はレベルを維持するために他のモンスターとは一切戦わず、猿猴のみと戦い続けた。その過程でスキルは成長し、新しいスキルを得たりスキルレベルが上昇した。
特に、鈴鹿が今最も頼りにしているスキルが、体術だ。体術は言わば格闘術。武器を持てない『聖神の信条』との相性が良く、極めることができれば最強に至れる可能性に満ちたスキルだ。
今の鈴鹿はスキルレベル8であり、武道の達人と変わらない。どんな敵でも徒手空拳で制することができるほどのスキルレベルだ。
「そんで行きついた体術だけどさ、しょぼいんだよね」
猿猴は攻撃してこない。まだ力を溜めているのか、それとも鈴鹿が近づくのを待っているのか。
「スキルレベル8だぜ? 8! 知ってっか? 8って言えば、一般的な探索者じゃ一生かかっても辿り着けないレベルなんだってよ?」
多くの探索者がレベル100の壁を越えられずに生涯を閉じるように、スキルレベルもまたレベル6の壁を越えられずそこで立ち止まる探索者は多い。準一級探索者の蠱毒の翁が最も得意とする毒魔法でスキルレベル8というのだから、スキルレベル8までたどり着く難易度がわかるだろう。
「なのに俺は猿の攻撃を躱すことで精一杯。夢がないと思わねぇか?」
レベルが倍以上差があり、挑むには存在進化必須であるレベル100越えのモンスターであり、かつエリアボスの攻撃を躱せている時点でありえないくらい有用なスキルと言えるが、鈴鹿は納得しない。
「ただ図体がでかいだけの野郎に負けるなんて、武道の達人とは言えねぇよな」
鈴鹿も猿猴のように持てる全ての魔力を丹田に集中させる。
「教えてやるよエテ公。柔よく剛を制すんだぜ」
鈴鹿の拳が煌々と輝く。毒魔法でできた毒手を極限まで強化し、ステータス以上の動きを出すために身体強化に魔力を注ぐ。
猿猴は正面の飽いた顔が般若のように憤怒した顔に変わり、漆黒の球を吐き出した。ふよふよと胸の前で漂う暗黒の球体。それに六つの拳を浸す様に突き入れた。
六つの拳に溶けるように吸い込まれていった漆黒の球体は、拳を黒く染め上げる。拳の動きに合わせ、残像のように毒が空気を汚してゆく。それはまるで、鈴鹿の毒手の様であった。
「おいおいおい、お揃っぴか? それは俺が先に特許出願してるんだ。特許侵害で訴えるぞ?」
鈴鹿を模倣したのか、はたまた本気を出した時にのみ現れる攻撃パターンなのか、鈴鹿に知る由は無い。
構える鈴鹿と猿猴。奇しくも、お互い格闘と毒を攻撃の主軸としている。似た者同士の一人と一匹が、呼吸を合わせるように向かい合った。
「どっちが上か、今日、決着つけようじゃねぇかぁぁぁあああ!!!!」
「「「ヴァォオオオオオオ!!!!」」」
先に動いたのは鈴鹿だった。鈴鹿の言葉に応えるように、猿猴の憤怒に染まった3つの顔が雄たけびを上げる。
猿猴にリーチの分があるため、鈴鹿の攻撃圏に入る前に猿猴からの猛攻を受ける。猿猴も毒手になったことで、今まで以上に攻撃を受けることができない。さらに、拳が通り過ぎた後も停滞するように毒素が残っている。その程度であれば鈴鹿は効かないが、毒素が残留することで視界が奪われてしまう。
更に今までは鈴鹿を迎え撃つようにその場から動かず攻撃してきた猿猴だが、鈴鹿を敵として認めたためか縦横無尽に動き回り攻撃パターンががらりと変わっていた。
周囲の樹々を上手く使い、これが本来の猿猴なんだと思わせるハチャメチャな戦い方をしてくる。巨大な猿が縦横無尽に動き回るだけで、地形が変わる程の衝撃が走る。暴れまわる猿猴は手が付けられないほど凶暴だ。
だが、鈴鹿に攻撃が当たることは無い。拳と同時に死角から尻尾を振り下ろそうとも、砲弾の様に六つの拳をいくら撃ち込もうとも、殴打が避けられるならとタックルの様に掴みかかろうとも、鈴鹿には通用しない。例え毒の残滓で視界が悪くとも、猿猴のわずかな筋肉の脈動から動きを読み取り、攻撃のリズムから次なる一手を予測し、針の穴ほどの隙間だろうとも臆せず進んで回避する。そして、避ける度にカウンターを入れてゆく。毒を練り上げた拳で、殴りつけたダメージに上乗せするように毒で侵してゆく。
猿猴のギアが上がれば上がるほど、呼応するように鈴鹿の動きも洗練されてゆく。
たとえ猿猴の攻撃が当たろうとも、『聖神の信条』がある鈴鹿を殺すことはできない。殴られ転がっている間に傷はたちまちに癒え、起き上がれば無傷の状態になっているだろう。
猿猴は遅すぎたのだ。不死の鈴鹿を倒すため、本気を出すのが遅すぎた。
攻撃が効かない、毒も効かない鈴鹿を倒すには、もう二度と関わりたくないと思わせる様に心を折るしかなかった。徹底的に叩き潰し生き物としての格の違いを魂に刷り込ませ、考え付くありとあらゆる痛みを与え、心を屈服させるほか鈴鹿を倒す方法は存在しえなかった。
常人であれば猿猴と最初に出くわした一日目で屈服して、しけたボロ雑巾のようにトボトボと猿猴に背を向けて逃げ帰っていただろう。もうこんな森は嫌だと二度と踏み入ることもなかっただろうし、探索者そのものを諦めていたかもしれない。
だが、鈴鹿は違った。鈴鹿は吐いた唾を吞むことは決してしない。意地を張ったなら、貫き通すのが鈴鹿の流儀だ。
意地が張れなくなる時は、鈴鹿が探索者を辞める時だろう。そして、狡妖猿猴では鈴鹿の意地を覆すには足りえぬ存在であった。
ドォゥゥゥン――――――
猿猴の一本の手が、毒でずぶずぶに腐り、崩れる様に落ちた。
「ヴァァアアアォオアオオオ!!!!」
猿猴の絶叫は、痛みによるものか怒りによるものか、はたまた両方か。それを知る由はないが、大気を震わせるほどのその声は、猿猴の命がそう長くないことを告げていた。
自分の運命を悟ったのだろう。猿猴は死ぬことを理解し、だからこそ最後の一撃に全ての力を注ぎこんだ。
「ああ! そうか! 最後かッ!!! 最後なんだなッ!? 来いよッ!! その一撃はぁああ!! 真っ向から打ち砕いてやるよッ!!!」
猿猴の気迫に最後の攻撃だと理解した鈴鹿は、あろうことか真っ向から打ち砕くために自身も右手に全ての力を集約する。壊れていた脳内の警報が危険だと騒ぎ立てるが、鈴鹿は一切意に介さない。
エリアボスが命を振り絞って放つ一撃のオーラは凄まじく、例え避けたとしても余波でかなりのダメージを負うことになるだろう。だが、鈴鹿は避けるなんて失礼なことはしない。相手が命を振り絞って出す攻撃を避けるなんて選択肢、鈴鹿には存在しない。
猿猴の攻撃に合わせ、鈴鹿のギアも最大まで引き上げられる。脳の血管が焼き切れるほど脳みそが動き、猿猴の僅かな動きすら見落とさないよう捉え続ける。込めすぎた魔力が身体から溢れ出し、煌々と周囲を照らしている。
ギリギリまで引っ張ったバネを手放すように、猿猴はその場から掻き消える様な速度で鈴鹿へと攻撃を放った。
フレームレートが追い付いていないように、コマ飛ばしの様に眼前に迫る猿猴の拳。鈴鹿の上半身ほどあるその拳に、鈴鹿の小さい拳が迎撃するために放たれた。
猿猴の攻撃を正面から打ち砕くために必要なスキルレベルは、既に満たしているだろう。だが、圧倒的にステータスが、レベルが足りない。ステータスこそ全ての土台となる基礎であり、ステータスとスキル、その二つが合わさって初めて真っ向から戦えるようになる。
普通ならば。
だが、鈴鹿が求めているのは普通ではない。常識的にとか、通常ならばとか、そんな枠に収まるつもりはない。
ここはダンジョン。摩訶不思議の未知なる世界。そんな世界に足を踏み入れてまで、お行儀よく周りと足並み揃えるなんて鈴鹿はできやしない。
レベル、ステータス。それらが絶対なのは鈴鹿も理解している。その理屈ならば、スキルレベルが極まれば足りないステータスを補えるはずだとも、鈴鹿は信じていた。
風圧だけで身体がバラバラになりそうな猿猴の攻撃。そんな攻撃を真正面から打ち砕こうとするイカれた行動に、スキルが呼応する。いや、呼応せざるを得なかった。
今ここで成長しなければいつ成長するのだと。猿猴の覚悟に応えようとする者に力を貸さず、いつ真価を発揮するのだと。
スキルが呼応する。
「体術の極意はぁああ!!! 剛よく柔を断つだッ!! 覚えとけ狡妖猿猴ォォォオオオオオオ!!!!!」
先ほどと言っていることが真逆である。だが、全ての言葉には二面性があり、自分の考えを補強する目的以外いくら矛盾していようとどうでもよかった。自分のイメージを補強し、確固たるモノにできた者のみが先に進むことができるのだから。
ッッッッキィィィィイイイイイン―――……
鈴鹿の拳と猿猴の拳が衝突した衝撃で、地面はめくれ樹々の枝葉は折れ、まるで爆発でも起きたような衝撃が辺りを襲う。響き渡る衝撃音は、拳と拳がぶつかった音にしては甲高く硬質な音だ。どちらも毒を纏って強化した毒手であり、お互いの拳の硬さが伺い知れる。
立ち込める土煙。やがてそれも収まると、拳を振り抜いた状態の鈴鹿が立っていた。
毒手には蜘蛛の巣の様に無数の亀裂が入っており、口からは吐血した跡が見える。すでに『聖神の信条』によって回復されているが、腕だけでなく全身いたるところがボロボロだ。
だが、鈴鹿は立っていた。それも拳を振りぬいた状態で。
それが意味することは―――
「っはぁーー! 長かった! 断言するよ猿猴。今まで出会った中で、お前が一番強かったよ」
それを聞き猿猴がどう思ったかはわからない。だが、拳だけでなく腕ごと破壊された猿猴は、残っている四つの腕であがくことはせず、眠るように倒れ巨大な黒い煙へと姿を変えた。
「うお、レベル上がったの実感できるくらいステータス上がったな。すごっ」
黒い煙が鈴鹿に吸い込まれたことで、鈴鹿のレベルが大幅に押し上げられた。2、3レベル分ではないその上がり幅に、いつもは実感しにくいステータスの上昇も感じられる。
自身のステータスの変化に驚いていると、辺り一帯が朝日で照らされてゆく。
「もう朝か。いやぁ、疲れた疲れた。今日はいい夢見れそうだよ」
腕を伸ばし身体のコリをほぐしながら、鈴鹿は歩き出す。猿猴との戦闘によって荒れ果てた樹海から去るために。
「さぁ、次だ次。次はどんなのが出てくるかな」
猿猴との激戦を制したというのに、特に感慨に耽るわけでもない。鈴鹿の頭の中は、もう次のモンスターの事でいっぱいだった。
こうして、およそ2か月におよぶ猿猴との戦いは幕を閉じた。
Tips:狡妖猿猴の攻略方法
1層5区に出現する、奇猿、煽猿、飽猿から得られる解毒薬を大量に準備し、可能であればこれらモンスターから得られる解毒効果のある装飾品をパーティーメンバー分揃えてから挑むべきエリアボス。
猿猴が使用する毒は3段階あり、それぞれのモンスターの解毒薬が対応している。猿猴は毒を多用するため、近接職は常に解毒薬を含める様ゆとりを持つこと。生半可な状態異常耐性は意味をなさず、毒に汚染されたと感じた時には解毒薬を口に運ぶことすら困難な状態になっていることも多いため、解毒薬を口に含みながら戦うことが最善の対策として採用されている。
毒を多用する一方で3対の腕と強靭な尾っぽからなる不規則な攻撃は隙が無く、非常に厄介である。前衛は最低二人が防御に専念し、攻撃箇所は機動力を削ぐために足を集中して攻撃する事。
弱点は腕の対になるように設けられた3つの顔である。猿猴はそれぞれの口から毒を吐き出すが、顔に衝撃が加わると一定時間毒を吐き出すことができなくなる。そのため攻略法としては、魔法による範囲攻撃で顔を中心に攻撃することで毒を封じ、近接職が足を攻撃して機動力を削いでから止めを刺す方法が推奨されている。
また、風魔法による毒の霧散も非常に効果的のため、風魔法使いを臨時編成することも重要である。




