16話 1層5区のエリアボス2
戦闘描写により血などが大量に出るシーンがございます。
苦手な方はご注意ください。
何だよ、それ。
もはや痛みも感じず、恐怖も感じず、感情が薄れてしまった鈴鹿は、去り行く狡妖猿猴の背中を見ていた。
先ほどの、まるでため息を吐くような鈴鹿に関心がなくなった猿猴の声と、路傍の石でも見るかのような冷めた視線が脳内で何度もリプレイされる。
ふざけるなよ。何やってんだ、俺は。
猿猴の態度に、先ほどまで死んでいた鈴鹿の心に灯がともる。沸々と煮えたぎる怒りの業火が。
「……何が、逃げ、るだよ」
フラフラと起き上がる鈴鹿。空腹と眠気で眩暈がするが、きっとそれも気のせいだろう。どんなことでもこのスキルが治してくれるのだから。
「そうだよ、らしくなかった。4区まで逃げ延びたら勝ち? なわけねぇだろバァァァカ」
再び全身に魔力を滾らせてゆく。それでも猿猴は鈴鹿に振り向きもしない。完全に敵として見られていない。脅威でもなければ遊び相手でもない。ただのその辺に生えている雑草。転がっている石。そんな認識をされて、耐えられるほど鈴鹿は大人ではなかった。
「あのエテ公をぶち殺す。それ以外の勝利条件なんてあるわけがねぇ」
レベル差は倍以上。5区ではただのモンスターにすら手も足も出ないのに、相手はエリアボス。相手の攻撃は知覚すらできず、鈴鹿が全力で放った一撃は、鈴鹿の拳が壊れるだけで終わってしまった。
だがそれがどうした。それがどうしたというのだ。
諦める理由になる? いや、諦める理由足りえない。
目の前にモンスターがいる。それなのに尻尾撒いて逃げるなど、許容できるわけがない。
「勝つか負けるかじゃねぇ。勝つんだよ。勝つまでやるんだ」
顔を上げた鈴鹿の瞳は、狂気に染まっていた。レベル差も、敵がエリアボスということも、全てがどうでもいい。なんて小さい物差しで測っていたのだろうか。
「だって、死なねぇんだから」
俺は探索者で、あいつはモンスター。それ以外すべてクソどうでもいいというのに。
「先に吹っ掛けてきたのはお前だろ? なら、俺が死ぬまで付き合えよエテ公ォ゙オ゙オ゙オ゙!!!」
今までよりも一層速く、鈴鹿は駆けだした。頼れるのは己の身体のみ。全身を魔力で強化し、全力の一撃を喰らわせるのみ。
だが、現実はそう上手くいかない。鈴鹿と狡妖猿猴のレベル差は、気合い程度で覆るほどの微々たるものではない。たかが気を持ち直した程度で埋まるほど、二人の差は近づいてなどいないのだ。
レベル52とレベル120。その差はあまりにも大きく広い。だからこそ探索者は成長するために自身の適正のモンスターと戦う。鈴鹿も4区の奥深くではなく、適正である浅い場所で活動していたのだ。
迫りくる鈴鹿に対し、猿猴は慌てることなく拳で迎撃した。
鈴鹿の拳と猿猴の拳が正面から激突する。猿猴の拳は鈴鹿の上半身くらいのサイズがある。そんな拳と鈴鹿の拳が衝突すれば、拮抗すらおきない。
高速で吹き飛んだ鈴鹿は、途中の樹をへし折り壁へ激突した。リプレイを見せられたような光景。また新たに壁に血の華が咲いただけ。
だが、今回はそれで終わりではなかった。
「アハハハハハハハ!! ほら死なない!! 死なないんだよッ!! まだまだ行くぞ!! 永遠に行くぞッ!!! ゾンビアタックの恐怖を思い知れッ!!!」
鈴鹿は地面に落っこちることなく、壁を蹴って加速し、再び猿猴へと突撃しに行く。
だが、猿猴の表情は変わらない。煩わしい羽虫を殺すように、迫りくる鈴鹿を殴りつける。
地面にバウンドし、今度は樹を破壊することなくぶつかって止まった。
「アッハッハッハアハハアアア!! 1ダメージだってなぁ!! 1億回繰り返せば1億ダメージなんだよぉおお!!」
楽し気な声を響かせながら、鈴鹿は猿猴に何度も何度も突撃する。捕まって滅多打ちにされようとも、毒を浴びせられ全身水疱まみれになろうとも、即座に起き上がり突っ込んでゆく。
絶望的な力の差など考慮する必要もない。最後に立っていた奴が勝つのだ。それならば、死なない鈴鹿が勝てない道理などない。
陽が沈み月が顔を出した夜の樹海に、鈴鹿の笑い声が木霊していた。
◇
あれからどれだけ経ったのか。三日か四日か、数日は経っているはずだ。
飯も食わず水も飲まず寝もせず。鈴鹿は狡妖猿猴に挑み続けていた。
初めは一方的な戦い、いや戦いとすら呼べないものだった。鈴鹿が近づけば猿猴が煩わしそうに殴り飛ばすだけ。たまに掴んで地面に叩きつけられたり、毒に侵され足を止められもした。
だが、何百回、何千回目から、ワンサイドゲームは終わりを告げた。
「おいおいおいおい!! 片手じゃ足らなくなったのかお猿さんッ!?」
今まではただ手を振るだけで、鈴鹿は吹き飛び成す術もなかった。しかし、今では猿猴の攻撃を避け数秒耐えることができていた。
「ぶぅぉぉおお!!」
だが、まだ猿猴の攻撃を数回避けられるというだけ。猿猴に殴りつけられた鈴鹿は壁にぶつかり、大量に吐血した。猿猴の腕は6本ある。それぞれの長い腕から繰り出される連撃を見切るのは、まだまだ完璧には程遠かった。
それでも、猿猴の攻撃を避けるということは凄まじいことだ。最初は視認すら出来なかった攻撃を、何度も喰らうことで身体が覚える様になっていた。
吹き飛ばされては立ち上がりまた突撃する。鈴鹿は狂ったように猿猴に挑み続ける。
これまでに何度か殴りつけることに成功していた。だが、硬すぎる猿猴の防御を突破することは叶わず、ダメージを入れることはできていない。
それでも、殴ることができた。まだ半日に1回殴れるかどうかのレベルだが、確実に鈴鹿は成長していた。
それが面白かった。初めてダンジョンに入ったときのような高揚感を鈴鹿は感じていた。
「おいおいおい!! もうそんな毒効きやしねぇぞ!?」
猿猴が辺り一帯に毒の煙をまき散らす。吸えば内臓がボロボロになり、触れれば肌に水疱が生まれ爛れる猛毒。だが、鈴鹿にとってはもはや何も感じない。
喰らいすぎて状態異常耐性のスキルレベルが上がったのか、徐々に猿猴の毒を無効化できていた。それでもまだ肌にのたうち回るほどの搔痒感が生じるが、その程度ではノイズにすらなりえないほど、今の鈴鹿はハイになっていた。
毒の影響で目や耳からも血を流しながら、鈴鹿は猿猴へ接近する。
「ヴァ゙ァ゙アァ゙ァ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!」
怒り狂う猿猴が拳を振り下ろす。それを紙一重で躱す鈴鹿。躱した途端に別の腕が向かってくる。だが、鈴鹿はそれも躱す。猿猴は長いリーチを活かした死角からの攻撃を行うが、見えていないはずの鈴鹿はそれすらも回避した。
1秒間が何倍も引き延ばされたような攻防のやり取り。猛毒の霧の中、鈴鹿は構わず猿猴の攻撃を避け続けた。
「楽しいなぁ! お前も楽しいよなぁ!? なぁッ!!!」
猿猴にダメージは一切入っていない。このまま戦い続けても勝てるかわからない。
それでも鈴鹿は戦い続ける。今勝てないなら勝てる様に成長すればいいだけだ。
無理な訳がない。初めは戦いにすらならなかったのだ。それが今はダメージを与えられるかどうかの段階まで来ているのだ。
「ぶぇえッ!!」
弾丸のような勢いで壁にぶつけられた鈴鹿は、眼を爛々に輝かせ猿猴へ突き進んでいった。
まだまだ、猿猴の猛り狂った怒声と鈴鹿の愉悦に溢れた叫びは続くのであった。
◇
鈴鹿が猿猴に一撃を入れてからまた数日が経った。猿猴と遭遇して何日経ったのか数えてもいない。
鈴鹿はさらに猿猴と殴り合える時間が増えていた。始めて戦った時のことが嘘の様に、1層5区のエリアボスである狡妖猿猴と戦えていた。
「アハハハッハッハッハ!!!!!」
楽しくて楽しくてしょうがないような鈴鹿の笑い声が響き渡る。相変わらず鈴鹿の攻撃は猿猴の防御を超えることはできない。だが、猿猴の攻撃もまた、鈴鹿を捉えることができずにいた。
膂力で大きく劣る鈴鹿は、猿猴の攻撃を弾くことはできない。だからこそ縦横無尽に迫りくる6本の腕を紙一重で避け続ける。撃ちつけられる拳で地面が陥没して地形が変わるが、それすらも考慮して鈴鹿は躱してゆく。
隙とも言えない僅かな攻撃の間隙を狙って、鈴鹿は猿猴を殴りつける。体術や身体操作のレベルが上がったのか、始めは素人の様な殴り方であったが、今ではヘビー級王者顔負けの力の入った攻撃を入れることができていた。それでも、猿猴の皮膚よりも鈴鹿の拳の方が柔らかく、殴りつけた鈴鹿の方がダメージを多く負っている。
だが、ダメージを与えられる手ごたえはある。0ダメージだったのが1ダメージに届くかどうかのレベルではあるが。これで倒すとなるとあと何日、いや何ヵ月かかるのかというレベルだ。
それでも、手ごたえがあるのは成長を実感できとても嬉しい。自分の行為が正しかったのだと思え、それがより一層猿猴へと向かわせる。
ちょこまかと逃げ続ける鈴鹿に吠える猿猴。ここ数日猿猴はキレ散らかしているが、喉が壊れることは無い。鈴鹿の自動回復のスキルの様に、猿猴も自動回復機能があるのだろうか。
猿猴が両手を握り地面に叩きつける。鈴鹿はその攻撃を避けるが、地面が窪み少し身体が浮いてしまう。
「くっそ!!」
すかさず猿猴が残りの手を握りしめ、鈴鹿をぶん殴る。だが、鈴鹿も腕を構え迫りくる拳をガードした。
猿猴の拳のサイズは鈴鹿の上半身ほどある。ガードしたところで腕が砕け吹き飛ぶのは変わらない。
だが、今までは殴られた瞬間はガードをすることも出来なかったため、拳が身体にめり込み肋骨は砕け内臓は破裂していた。しかし、今はガードしたことで腕が砕かれるだけで済んでいた。壁に衝突する際も受け身を取れるようになり、徐々にダメージの総量が減ってきている。
吹き飛ばされても受け身が取れるということは、それだけ戦線復帰が早くなるということ。即座に猿猴の下へ駆けだす鈴鹿。対する猿猴は、3対の拳と拳を身体の正面で打ち付けている。
「おいおい! その毒じゃ死なないって何度試せばわかんだ!! お猿さんの脳みそじゃわかんねぇかなぁ!? エテ公だからわかんねぇかッ!! おいッ!!!」
鈴鹿の言う通り、猿猴は三つの口から猛毒の霧を噴き出した。今までも毒を多用していたが、鈴鹿の状態異常耐性のスキルが上がったことで効果がいま一つであった。しかし、今猿猴が吐き出した毒は、レベルが上がったはずの鈴鹿の状態異常耐性のスキルを突き破る劇毒であった。
立ち込める毒の霧。けれども鈴鹿は意に介さず突っ込んでゆく。
触れたとたんに強烈な痛みが走っているはずだが、鈴鹿は足を止めることは無い。皮膚が爛れ眼も腐り、呼吸をすれば粘膜という粘膜から毒が体内に侵入し、身体の機能を阻害する。直接神経を金たわしで擦り付けるような激痛が走るが、それでも鈴鹿は止まらない。
腐ったそばから修復されてゆく。毒の霧が漂っている間は治っても即座に毒に侵されてしまうが、文字化けスキルがすぐにまた治してくれる。
猿猴も焼け石に水だとわかっているだろうが、それでも試しているのだ。鈴鹿が猿猴を倒すために策を弄しているように、猿猴もまた、いくら殺しても死なない鈴鹿を殺すためにあの手この手で攻撃していた。
お互い決まり手にかける千日手のように、鈴鹿も猿猴も戦い続けていた。だが、何をしても決して死なない鈴鹿と、段々攻撃が当たらなくなり殴り合いが続くようになった猿猴では、鈴鹿の方が勢いがあった。
傍目から見れば圧倒的に猿猴が有利なことは変わっておらず、鈴鹿が勝てる可能性は限りなくゼロに近い。だが、鈴鹿は決して死なない。どれだけの攻撃を与えようとも、いかなる痛みを与えようとも、鈴鹿は起き上がる。勝てなかろうと、立ち続ける限り鈴鹿が負けることは無かった。
そんなあと何か月続くんだと思われた二人の戦いは、思わぬところから水を差されてしまった。
ピーピ、ピーピ、ピーピ
聞きなれない電子音。鈴鹿の叫びと、猿猴の怒声と、戦いで生じる戦闘音しか聞こえなかったダンジョンの奥地。エリアボスとの戦いには他のモンスターも混ざれないのか、横やりすら一切入ることは無かった。
ダンジョンに似つかわしくない電子音。その正体に至った鈴鹿は、猿猴との殴り合いを中断して電子音のした方へ下がってゆく。
「腕時計……壊れてなかったのか」
拾い上げたのは鈴鹿がしていた腕時計。戦いのどこかで吹き飛んでいたのだろう。ベルトの部分が壊れていたが、本体は無事だったようだ。
鈴鹿は最初に猿猴と出くわした位置から全然動いていなかった。猿猴も鈴鹿を引きずり回すことはせず、近くの壁にぶち当てて遊んでいたからだろう。
この腕時計のアラームが鳴ったということは、現在は1月1日の朝7時。ダンジョンにも朝日が昇っているため、間違いないだろう。
母親に元日には帰って来いと言われていた。それを無視すればその後が面倒だし、何より探索スケジュール的に今戻らなければ親に連絡が行くはずだ。そうなれば捜索隊を出されてしまうかもしれない。
ダンジョン内の捜索隊はかなり高額だ。それも1層4区の捜索となるとかなりの金額になるだろう。無事だというのに無駄に心配させた挙句、散財させるのはよろしくない。
つまり、帰らなければいけなかった。
「はぁ……。ここからだって時に限って、邪魔って入るもんだよなぁ」
猿猴は離れた鈴鹿を追いかけてはこなかった。警戒しているのか早くいなくなって欲しいのか。そのどちらでもあるかもしれない。
「すまんお猿さん。俺は帰らなくちゃいけなくなった。だから帰るわ」
猿猴に話しかける鈴鹿。猿猴はヴゥルルルルと低く呻るだけだ。
モンスターが人の言葉を理解できているとは思えない。だが、鈴鹿は伝わっていると確信をもって、猿猴へ告げた。
「じゃ、またね」
そう言って、鈴鹿は猿猴の下を去っていった。その後を猿猴は追いかけはしなかった。いなくなって清々したのか、はたまた取るに足らないために追いかける必要もないのか。
だが、鈴鹿は初めてモンスターを倒すことができず、背中を見せて逃げることを選んだ。絶対に倒すと決めたのに、だ。そのことに、鈴鹿は悔しさに歯噛みしながら、ダンジョンの出口を目指すのであった。




