2話 兄の存在
9月最後の日曜日。定禅寺家では、家族揃って食卓を囲んでいた。
今日のご飯は幕下蛙の肉を使った野菜炒めだ。最初は蛙の肉ということで母親が調理することを拒んだのだが、フランス料理にも使われてると調べて見せてみれば、『あら、悪くない食材なのかしら』とかなんとか言いながら普通に使うようになった。
簡単に意見を変えるところをみると、騙されそうで不安になる。
幕下蛙の肉は普通においしく、鶏肉のせせりみたいな味だ。ぷりぷりしてて脂身も少なく、鈴鹿の好みであった。
そんなダンジョン産の高級食材を食べているというのに、食卓の雰囲気は暗い。ダンジョン探索が思うように進まない鈴鹿が原因、ではなく、雰囲気を重くしているのは兄の菅生が原因だ。
「ふぅ……」
何度目かのため息。雰囲気を悪くしたいから吐いているわけではなく、胃が痛く苦しいために息を吐いているのだ。どことなく顔色も悪いし、ごはんも進んでいない。
理由はわかっている。模試の結果が悪かったからだ。
兄は現在高校三年生。大学受験の歳だ。鈴鹿がダンジョン探索を頑張っていた夏休みの間も夏期講習で忙しく、ほとんど予備校に通って過ごしていた。
弟の目から見ても頑張っていると思うのだが、最近受けた模試の結果が悪かったのだ。あれだけ夏休み頑張っていて手ごたえも感じていただけに、ショックが大きかったのだろう。
「菅生、飯は食っといたほうがいいぞ。受験は体力勝負って言うからな」
「うるさいな、わかってるよ」
鈴鹿の言葉にもそっけない。いや、同じ受験生であるはずの鈴鹿だからこそ、兄―――菅生は棘のある言い方になってしまう。
お互い受験生として勉強を頑張っていれば、菅生もこんな態度はとっていなかっただろう。だが、鈴鹿は今やダンジョン探索ばかり行っており、受験から解放されている。
それも菅生の通う高校よりも偏差値の高い高尾山高校の過去問すら完璧に解けるほど、勉強もできる。ダンジョンに通ってばかりでろくに勉強もしていないのにだ。
そんなのが隣にいれば、受験生としては心がささくれ立つのも無理もない。鈴鹿も前の世界で受験生の大変さを味わっているからこそ、菅生の態度に目くじらを立てることは無かった。
「菅生態度悪いわよ」
だが、母親は違う。一人で腐るのはよいが、それを他人にぶつけるとなると違うだろと注意する。
菅生も別に本心で言っているわけではない。体調も悪く余裕がないからこそ、強い態度になってしまうのだ。
「……悪かったよ」
「別に気にしてないよ」
再度会話が止まる食卓。いつもは和気あいあいとしているのだが、こんな日もあるだろう。
「鈴鹿はどうなんだ。ダンジョン、無理してないか?」
話題を変えようと父さんが話題を振ってくる。鈴鹿も探索が進んでいないからここ最近は悩んでいる。それが顔に出ていたのかもしれない。
「鈴鹿は安泰だろ。この蛙の肉だって3区のモンスターの肉だぜ。もう3区探索してるなんて天才だろ、天才」
皮肉を言うように菅生は言う。ダンジョンについて調べたのだろうか。菅生が言うように幕下蛙は3区のモンスターで、中学生で3区を探索できていれば探索者としては安泰だろう。
「そうでもないよ。最近友達になった1個上の友達も3区探索してるしね」
「映画一緒に見に行った子? 探索者高校の子だったわよね」
希凛達が天才と言われればそうなのかもしれないが、あまり菅生の心を逆なでするのも気が引ける。菅生からしたら、自分は模試の結果も悪く伸び悩んでるのに、弟は才能が開花して探索者として成功している。そりゃあ楽しくないだろう。
「ほぉ、探索者高校の友達ができたのか」
「まぁね。仲良くしてもらってるよ」
あれからも連絡はちょこちょこ取っている。鈴鹿は連絡がまめな方ではないが、希凛が気を使って声をかけてくれていた。
「お父さんも少し調べてみたけど、2層の1区を探索できるようになれば四級探索者になれるんだろう?」
「そうみたいね」
「四級と言えば探索者ギルドにも所属できる、いわばプロのライセンス資格みたいなもんだ。鈴鹿は探索者高校に通わずに一足飛びで探索者ギルドに所属できるってことだろ? 凄いじゃないか」
「ギルドに所属するつもりはないけどね」
四級探索者になることが探索者高校を卒業する条件でもあるが、父親が言うように探索者のプロとして認められる等級が四級からである。探索者ギルドに所属するプロの探索者になるためには、四級以上の等級が必須だ。
だが、別に鈴鹿は2層1区の探索も行ってなければ探索者ギルドに所属するつもりもない。当然だ。何かに所属するということは、恩恵がある分義務も発生する。
会社に縛られる安心感もわかるが、今は自由に探索者をやっていきたいのだ。
「はっはっは。さすがにまだ四級探索者になるのは早いか?」
「まぁそんなところ。今も探索に行き詰ってるしね」
鈴鹿はあまり家でダンジョンのことを話さない。やはりダンジョンは危ないところでもあるので、母親を心配させてしまうかもと思ってだ。
いつもは順調順調しか言わない鈴鹿が初めてこぼした愚痴に、菅生が引っ掛かった。
「あんま無茶すんなよ。3区は危ないってのは調べればすぐ出てくるし、無理だと思ったら探索者高校行ってからでも遅くねぇよ」
「ありがと。けど危ないとかで行き詰ってるわけじゃないんだよね」
そこでちらりと母親を見る。機嫌は悪くなさそうだし、今なら許しをもらえるだろうか。
「探索する時間がどうしても少なくて、探索が進まないんだよ」
「まぁ、ダンジョンってめっちゃ広いっていうしな」
「そうそう。だからさ母さん。ダンジョンに泊って探索したいんだけどさ、ダメ?」
できるだけなんてことないように聞いてみた。これならいけるだろうか。
「ダメよ。鈴鹿あんたまだ中学生なのよ。そんなの危ないでしょ」
「いやいや、ダンジョンって言ってもアイテムで安全に寝泊まり出来るし大丈夫だよ」
「そういう問題じゃないわ。せめて高校生になってからよ。ね、お父さん」
「うん、まぁそうだな。泊りってことはダンジョンで寝泊まりするってことだろ? それはまだ早いんじゃないか?」
母親だけでなく、父親にも止められてしまった。ダンジョンに行くことは許してくれたが、泊りはまだハードルが高かったか。
「探索者ってダンジョンで寝泊まりすんのが普通だろ? 鈴鹿もう3区も探索してんなら、そのうちダンジョン泊まらないと何もできなくなるんじゃね?」
思わぬ援護射撃。いいぞもっと言ってやれ。
「それに3区探索してるなら結構稼いでるだろうから、キャンプ道具とかも買えるだろ。どうなん?」
「稼ぎはいい方だね」
1層3区の稼ぎは、およそ100万円であった。これは必要なアイテム以外を売却して口座に振り込まれた金額だ。
この100万円には、エリアボスのアイテムや『擬態のマント』など売値は高いが有用なアイテムは入っていない。『狂乱蛇擬の革』や『幕下蛙の骨』などの素材系を売って得られた金額だ。
20日間の探索で100万円。ソロ探索の鈴鹿だからこそ全額懐に入るのでかなりの額だが、zooのように4人パーティであれば一人25万円。Parksのような6人組かつ鈴鹿よりも一日に倒せるモンスターの数が少ないパーティは、20日間みっちり探索を行っても一人10万円程度が関の山だろう。命がけの探索でこの額は低いと言わざるをえない。下手したらバイトしていた方が稼げるのではないだろうか。
そんな命がけで稼いだお金は、防具や武器の購入資金やメンテナンス代、寝泊まりするためのアイテムや、いざという時のポーションなどを買えばあっという間になくなってしまう。レアなアイテムをゲットできれば稼げる額もぐっと多くなるが、出費も多いので常にお金について頭を悩ませている探索者がほとんどだ。そういう意味でも、アイテムを共有し合えるギルドがどれだけありがたいかわかるというものだ。
そんな探索者のお金事情がある中、4区はやばい。めちゃくちゃ稼げるのだ。
3区では20日間で100万円のため、日当5万円と換算できる。一方4区では、一日の売却額が平均40万。1か月の売却額ではない。1日の売却額で40万だ。3区の8倍の額である。すでに8日間探索を行っているため、鈴鹿の9月の稼ぎはおよそ320万円。破格の稼ぎであった。
3区と比べ4区がこれだけ稼げているのには理由がある。それは希少性と性能だ。
トップギルドの探索者たちは、例によって1~3区のエリアボス討伐に精を出している。エリアボスのドロップアイテムは『双毒の指輪』をはじめ有用なものが多く、さらにトップギルドに所属できる探索者は少ないため、エリアボスのアイテム価格は依然高いままである。それにエリアボスラッシュと言っても、鈴鹿が3区で行っていたような1日に3体のエリアボスを討伐するなど無茶苦茶なことはしないため、倒されるエリアボスの数も決して多くはない。
要は、エリアボスを狩り続けるだけでも貴重な高額アイテムをゲットできるため、十分な金策になるということだ。
4区5区を探索できるのはトップギルドに所属できるような探索者しかいないのだが、自分の成長という意味でも金稼ぎという意味でも、わざわざ4区5区を探索する必要がない。そうなると4区5区を探索する者がいなくなってしまう。それこそ、ギルドに依頼でも出されない限りアイテムが市場に出回ることは稀である。
以前シーカーズショップのガラスケースに展示されていた、1層4区のモンスターである斑蜘蛛の糸から作ったジャージが上下で200万円だったように、4区5区の素材は高額で取引される。
それは希少性によるプレミア価格だけでなく、4区5区でしか取れないアイテムが有用なものが多いという点でも高額になる理由であった。たんに性能だけであれば、1層4区よりも2層3区や3層3区のアイテムの方がアイテムの等級も高く、魔力親和性も高いため製品に転用する際に有用だろう。
だが、1~3区のアイテムと4~5区のアイテムは成分が異なるらしい。身近な物で例えれば、1~3区のアイテムが金属系の素材がドロップするならば、4~5区は樹脂系の素材がドロップするようなものだ。
世の中の物は金属素材だけで成り立つわけがなく、樹脂材料も必要不可欠である。ダンジョンのアイテムも同様、4~5区で得られるアイテムの素材は成分的にも有能なのだ。
だからこそ、4区の通常モンスターからドロップするなんてことないアイテムであっても、その希少性と性能から高額な取引額となるのだ。一日に倒せるモンスターの数も減っている鈴鹿が、これだけ稼げているのはそれが理由であった。
「はぁ、いいよなぁ。俺も大学行ったらバイトするつもりだけど、ダンジョン行った方が稼げるよなぁ」
「ダンジョンも何も、菅生は育成所行くんでしょ。あれ高いのよ。国立の大学なら出してあげるけど、私立なら半分バイトして出しなさいね」
育成所は高額で、レベル10まで育ててもらうのに大体50万円程度かかる。よりステータスを盛れるようなコースであれば、その倍はするだろう。
ダンジョンでステータスを上げるということは、身体が強くなり病気や怪我がしにくくなるなどメリットが大きい。長期的に見れば医療費も抑えられ大病のリスクも減るため、50万円でも高くはない。
それにステータスが上がれば容姿も変わる。いわば失敗のない整形のようなものだ。しかもダウンタイムもない。鈴鹿自身以前の面影がうっすらあるものの、ほとんど別人と言っていいくらいの美形に顔が変わった。
鈴鹿ほど容姿が変わるのはステータスを爆盛する必要があるため難しいが、育成所でもプチ整形以上の効果があるのは事実。化粧した後の顔が素になるように、似ている俳優や女優の顔により近づくように、面影は残しつつも自分が望む顔に近づいてくれる。通常のステータスアップでもそれくらいは可能であった。
病気や怪我のリスクも減り、なおかつ容姿も良くなる。これがたったの50万円で可能になるというのなら安いものだろう。
「はぁ、そりゃ公立行けたらいいけどさぁ」
またもや受験の話に戻ってしまい、胃の辺りを押さえる菅生。
鈴鹿は菅生がこの後どうなるのか知っている。結局この後も成績は伸び悩み、もともと第一志望だった大学は記念受験となり、中堅どころの私立大学に入学するのだ。
私立大学でも楽しんで通っていたし、就職した会社でもうまくやっていたから別にいいのかもしれない。だが、鈴鹿としても兄である菅生が第一志望の大学に受かった方が嬉しい。
「俺も鈴鹿みたいに、ダンジョンでステータス上げて頭良くしようかなぁ」
「止めときなさいよ。それで怪我して受験見送り、なんて話よく聞くでしょ」
「だよなぁ」
そんな話があるのか。人は追いつめられると普段とは違う行動を取ってしまうものだ。受験生ならばそれも仕方ないだろう。
いや、けどダンジョン、ダンジョンねぇ……ッ!! それだよ!! それ!!
「ダンジョンだよ菅生!! ダンジョン行こう!!」
突然大声を出す鈴鹿に怪訝な顔を浮かべる家族。誰もピンと来ていないようだ。
「あー、息抜きに連れてってくれるのか?」
「違う違う、そうじゃない。俺がレベル10まで面倒見てやるよ!」
ダンジョンでステータスが上がれば、知力が上がり脳みその処理速度が上がる。知性は変わらないため誰もがノーベル賞ものの発明ができるわけではないが、頭の回転が速くなることで暗記もスムーズに行え学力向上につながる。
つまり、菅生の成績もダンジョンでステータスを上げれば解決する可能性が高いということだ。
「え、いいの? 身内でもレベル上げの手伝いは非推奨、って探索者協会が言ってなかったっけ?」
「知らんそんなの。どうでもいい。今の俺のレベルでも、レベル10程度なら安心安全にレベル上げ手伝えるぞ」
探索者協会がなんでそんなことを言っているのかと言えば、それで怪我をして揉める人間が多いことと、育成所の利権を守るためでもある。育成所であればノウハウもあるし確実にレベル上げができるので、ベターであることには変わりは無いため、協会が推奨するのも当然と言えば当然だ。
「ちょっと鈴鹿。菅生を巻き込まないの」
「いや、母さんも俺が頭良くなったの知ってるだろ? 菅生だってダンジョンでステータス上げれば、私立じゃなくて国立大学だって行けるだろ!」
「まぁ、そう……かも?」
鈴鹿は夏休みの最初に受験勉強は必要ないことをわからせるため、この辺りでは有名な進学校である高尾山高校の過去問を解いて見せたことがあった。当然中身が30歳のため、中学受験の範囲は詰め込めば解けるようになったのも大きいが、ステータスの恩恵なのか若さのためかすんなり暗記もできたし理解することもできた。
ステータスが学力に起因するのは実体験としても言えた。
「それに俺がレベル10まで上げたら、育成所の費用も掛からないだろ?」
「なによ、それが目的? いくらほしいの」
どうやら鈴鹿が育成所の費用を欲していると思ったらしい。母親も母親でダンジョンについては鈴鹿が通うようになってから少し調べていた。そこで、探索者は多く稼げる反面、装備などで大金が必要ということもわかっていた。何か欲しいアイテムでもあるのだろうと思ったのだ。
「違う違う。金は要らないよ。十分稼げてるから」
鈴鹿が来ているジャージの金額を言えば、母親はびっくりするだろうな。
「代わりに、菅生が無事レベル10になったら、ダンジョンに泊って探索してもいい許可が欲しい! どう?」
菅生はレベルが上がり受験が楽になり、両親は育成所の費用も掛からない上に菅生が国立に受かれば学費も抑えられる。そして、鈴鹿はダンジョンに泊まり込んで探索ができる。
全員がハッピー。素晴らしい案だ。
「う~~~ん。お父さんはどう思う?」
「そうだねぇ。鈴鹿が探索者として優秀なのはわかってるよ。うちの若いのにも聞いてみたけど、凄いって言ってたしね」
父親もダンジョンについて調べていたようで、鈴鹿にたまに状況を聞いたりもしていた。だからこそ、自分の息子なんかおかしくない?というのも気づいていたし、本人は楽しそうにしてるからまぁいいかとも思っていた。
「けど、人に教えるってのは自分でやるのとは訳が違う。なにより、菅生はまだレベル1で、鈴鹿と違ってモンスターの攻撃を受ければ大怪我をするかもしれないんだよ」
「そこは大丈夫。ちゃんとステータスアップするアイテムなんかもあるから、それ装備してもらえば安全だよ」
「え、そんなのももう持ってるの? う~ん。菅生はどうなんだ。実際にダンジョンに入るのはお前だぞ」
話を振られ、菅生は悩む。
ダンジョンに行くということは、その期間受験勉強が止まるということでもある。受験まで半年を切ったこのタイミングでそれは、受験生としては安易に許容できる選択ではない。
だが、鈴鹿が勉強ができるようになったというのもまた事実。もともと馬鹿ではなかったが、高尾山高校を簡単に入れるレベルではなかったはずだ。それを思えば、ダンジョンでのステータスアップはかなり有利なものだろう。
(それに……)
ちらっと鈴鹿の顔を見る菅生。自分の弟だから何も感じないが、男とか女とか性別を超越した美しい顔をしている。これが他人であれば、男と言われても好きになっていたかもしれない。
鈴鹿のような顔になりたいわけではないが、育成所に行くよりも鈴鹿とダンジョンに行く方が、イケメンになれる確率は高そうだ。そうなれば、待っているのは充実した幸せなキャンパスライフ。
(そうだ。大学受験が全てじゃない。その先を見据える必要がある。俺にはキャンパスライフが待っているんだッ!!)
眼を閉じる菅生の脳内には、イケメンになった菅生に群がる女子大生たちがいた。
「……鈴鹿、頼めるか?」
受験生の菅生が、受験勉強を止めてでもステータスアップを決断した。その判断の重さに、鈴鹿も両親も尊重しなければという気持ちになった。
「……はぁ、わかったわよ。菅生がレベル10になったら、ダンジョンで泊まってもいいわよ」
「菅生も鈴鹿も安全第一だからな。完璧と思う心に油断は生じる。ダンジョン内では常に気を張るように」
中学を卒業するまでは無理だと思っていたダンジョンへの泊まり込みが、まさか了承されるとは。思わぬ幸運に鈴鹿は歓喜する。
「大丈夫! 菅生は立派にレベル10まで育てて見せる! さっそく来週末からダンジョン行くぞ!!」
「ああ、期待してるぞ弟よ!」
こうして、鈴鹿は兄である菅生のレベル上げを行うことになった。




