20話 水刃鼬
水刃鼬の出現に、全員に緊張が走る。特に1層2区のエリアボスとも戦っていないUrbanやParksは、身動き一つ取れないでいた。
かく言う希凛も不用意に動けない。この場をどう切り抜けるかを全力で考えていた。
(水刃鼬と戦う選択肢はない。この二つのパーティを囮に逃げ切れるだろうか)
希凛にはダンジョンに関する膨大な知識と明確な探索ビジョンがある。水刃鼬もいずれ倒す予定ではあるが、それは今ではない。最低でもレベル40を超えてからだ。
(エリアボスの中でも一番相手にしたくないのがご登場とはね)
周囲に悟られないようにポーカーフェイスを維持するが、内心では苦虫を嚙み潰したような思いだ。
水刃鼬は3区のエリアボスの中で最も強いと言われている。他のエリアボスである双毒大蛇は毒魔法を使うが、狂乱蛇擬の『擬態の血清』を使用すれば毒を回復できるため脅威にならず、攻撃力は高いがその巨体故に大ぶりが目立つため防ぐのも難しくない。体力と防御が高いため倒すのに時間がかかるが、比較的安全に倒すことができ攻略が確立しているエリアボスである。
十両蛙は双毒大蛇よりも厄介なモンスターだ。こちらは完全接近戦のみのため、遠距離攻撃を主体で攻めれば完封できる。が、高レベルの身体強化で防御力を上げている十両蛙にダメージを入れられる遠距離攻撃は、1層3区レベルの探索者では難しく、結果近接攻撃をする必要がある。
近接攻撃であっても堅牢な防御を超えられる攻撃は限られ、兎鬼鉄皮の様に倒すためには必要なスキルやステータスが要求されるモンスターだ。だが、十両蛙のメイン攻撃である張り手は重傷は負っても即死することは少なく、パーティメンバーで交互にタゲを取り、ヒットアンドアウェイを心掛ければ倒すことはできずとも死ぬことは無い。
そんな硬く体力の多い2体のエリアボスと比べて、水刃鼬は最も柔らかく、攻撃が通しやすい。素早いために攻撃は当たりにくいが、当たればしっかりとダメージを入れることができるモンスターだ。
しかし、水刃鼬は死ぬリスクが高すぎる。刃を使った攻撃はひとつひとつの攻撃が致命傷を招く脅威となり、両手と尾っぽの3つの刃に加え水魔法を多用する手数の多さは、頭数を揃えて挑んでも簡単に全滅しかねないモンスターだ。1層3区までのモンスターで唯一の刃を使ったモンスターということもあり、恐怖の象徴のようなモンスターであった。
希凛の予定では双毒大蛇で『双毒の指輪』を狙いつつレベル上げを行い、十分なレベルに達してから挑む予定であった。逆に言えば、ステータスも十分整っていない今挑めば、確実に死ぬということだ。
「小鳥」
「な、なんとか回避できると思います」
名前を呼ばれただけで何を聞かれたかわかったようだ。
zooの中で最もモンスターの攻撃を回避することに長けている小鳥が、先ほどの水刃鼬の攻撃を避けれると確信できていない。ますます戦うべき相手ではないようだ。
「ワン子、ここが踏ん張りどころだよ」
「うん、やれるだけやってみるよ」
モンスターの攻撃を一身に受ける犬落瀬が最も危険な役割を負っている。それでも彼女は気負うことはない。自分がやれることも役割も理解しているため、誰が相手でもそれを実行するだけ。
イレギュラーな事態にも動揺しないことが彼女の異才だろう。
「にゃあ子は麻痺中心で」
「ん」
言葉少なげに反応する猫屋敷だが、いつでも魔法を撃てるように魔力を練っている。
猫屋敷は気分によって実力が変わるきらいがあった。気分がノっていなくても、毒魔法に回復魔法を使える猫屋敷が足手まといになることは無い。だが、気分がノっている猫屋敷はゾーンに入ったように実力以上の力を発揮する。
もしかしたら、今の彼女であれば水刃鼬を麻痺にできるかもしれない。そうなれば希凛達は無事に脱出できるだろう。
希凛が指示を出している間、水刃鼬はあたりを睥睨するかのように周囲のモンスターの間を歩いている。
(まわりの雑魚が厄介かな。上手く使って逃げる足掛かりにするしかないか)
水刃鼬は通常でも岩石土竜や種砲栗鼠と共に行動し、周囲のモンスターと連動しながら攻撃してくる。セオリー通りいけば他のモンスターを先に倒すのだが、今は倒すのではなく逃げることが目的のため、周囲のモンスターを倒す必要はない。
水刃鼬がモンスターの陰に隠れて攻撃してくるように、他のモンスターに隠れ徐々に距離をとっていきたい。
「さぁ、来るよ」
逃げるにしてもタイミングというものがある。この状況で後姿をさらして逃げれば、確実に殺されてしまう。
まずは隙を作る。できれば猫屋敷の麻痺が効いてくれれば最高だ。
周囲のモンスターも徐々に動き出す。それに合わせ、水刃鼬はzooに標的を定め近づいてきた。
独特な歩き方。視られているときはゆっくり動き、モンスターに隠れたときは瞬時に動く。その緩急により、コマ飛ばしのように水刃鼬が近づいてきた。
「っっっ!!」
水刃鼬が犬落瀬に攻撃しようとした瞬間、犬落瀬を避け希凛へ両手の刃を振り下ろしてきた。希凛が指示を出していたため、司令塔を先に潰す狙いかもしれない。
希凛は振り下ろされる刃を、器用に槍を使って左右に逸らし上手く攻撃を避けることに成功した。だが、弾いた槍を持つ手は痺れ、この一瞬の攻防すら今までの経験によって勘でさばけたようなものだった。次もさばける確証がない。
「ちっ、【挑は―――ぐぅう!!」
犬落瀬がヘイトを稼ぐためにスキルを発動しようとするが、振り回された尾っぽによる攻撃が側面から放たれスキルが阻害されてしまう。細長い水刃鼬の身体と同じくらい長い尻尾を振り回す攻撃は、遠心力も乗って受けるだけで精一杯の威力であった。『兎鬼の盾』でなければ盾ごと両断されていたかもしれない。
即座に小鳥が側面から攻撃を仕掛けにかかるが、水刃鼬は両手の鎌で迎え撃つ。ターゲットがずれたため希凛も槍で応戦するが、水魔法による刃が出現し、希凛をはじめzooの動きを阻害するように放たれる。
さすがというべきか、ユニークスキルである曲芸師を持つ小鳥は水の刃と水刃鼬の鎌の攻撃を避けている。しかし、避けるのに精いっぱいでとても攻撃に移れそうにはなかった。
そんな中、魔法による水の刃を気にすることなく猫屋敷が魔法を放つ。いつもであれば防御に手いっぱいで魔法の発動は難しかっただろう。しかし、極限まで集中している彼女は、盾で水の刃をいなしながらも器用に魔法を発動させた。
「【パラライズ・ミスト】!!」
水刃鼬の周りに麻痺を誘発する霧が出現した。それを嫌ってか、水刃鼬はぬぅるりと滑るように後退し避けてしまう。
だが、これで一度目の攻防を耐えることができた。
「ごめんキリン、遅れた」
「いや、大丈夫だよワン子。尻尾が厄介だね」
「う、うん。り、両手の鎌は私が避けるから、わ、ワンちゃんは尻尾をお願い」
「オッケー小鳥」
尾っぽの刃は想像以上に厄介で、身体に隠れて軌道が見えづらいうえに、上下左右どこからでも攻撃してくるため防ぐのに神経を使う。尾っぽの攻撃を犬落瀬の挑発スキルで受けられれば、小鳥は両手の鎌に集中することができる。
「小鳥、僕も前に出る」
「え、に、にゃあちゃんもですか?」
猫屋敷の提案に小鳥はどうしていいか希凛の方を向く。前に出るということは、それだけ危険が増すということだ。
猫屋敷も優秀ではあるが、曲芸師のスキルがある小鳥と比べると前衛として劣る。猫屋敷は魔法も扱える魔法剣士であり、万能型だ。回復魔法も使える猫屋敷を、即死のリスクがある最前線で使うのはナンセンスと言えよう。
だが……
(今のにゃあ子なら任せてもいい凄みを感じる。相手はエリアボスなんだ。安全策など言っていられない、か。逃げるならにゃあ子の麻痺が絶対条件。そのにゃあ子のギアが上がっているのは僥倖だね)
「にゃあ子、頼んだよ」
「うん。僕が麻痺にして見せる」
麻痺状態にすれば、敏捷値が高い水刃鼬でも動きが鈍る。そうなれば、他の探索者を巻き込ませながら戦線を離脱できるだろう。
ここまで一度も逃げるということを伝えていないが、zooのメンバーは希凛の考えを正しく理解できていた。彼女たち自身、逃げる選択肢が当然だと思っており、そこに疑問はない。
同じ高校の仲間を囮にする非情な選択であるが、彼女たちは何も思わない。探索者は自己責任の職業で、戦うも逃げるも自分たちの選択で行っていることなのだから、それは彼らの責任であり自分たちが気に病むことではなかった。
すでに周囲ではモンスターが攻撃を再開し、ParksやUrbanは逃げることはおろか、エリアボスの出現に委縮してしまっているため先ほどよりも押されている。それでも懸命に指示を出して戦えているParksは優秀なのだろう。
だが、彼らでは逃げるという選択肢をとることはできない。エリアボスである水刃鼬から逃げる術はなく、狂乱蛇擬や岩石土竜が蔓延るこの場から抜け出すことすら難しいだろう。
ダンジョンにおいて、逃げるというのは誰でも取れる選択肢ではない。逃げることすら実力が必要な世界なのだ。
幕下蛙が突っ張りをしながらzooに突っ込んでくる。左からは狂乱蛇擬が襲い掛かり、右からは岩石土竜も鋭い爪を広げて攻撃を仕掛けてきた。遠距離からは種砲栗鼠が種を飛ばして攻撃をしており、当たれば隙を晒して総崩れするだろう。
そんな中で水刃鼬の相手もしなければいけない。今までのダンジョン探索でぶっちぎりの絶体絶命の状況の中、猫屋敷の感覚はかつてないほどに研ぎ澄まされていた。
(僕がみんなを護って見せる。劣っている僕に光をくれたみんなのために)
モンスターが迫りくることで必然的に視界が悪くなる。その状態で水刃鼬を追い続けることは難しい。水刃鼬を意識しつつも、目の前のモンスターの相手もしなければならなかった。
猫屋敷には狂乱蛇擬が迫っている。避けるだけで精いっぱいだったモンスターだ。だが、今は違う。そんな小物程度に焦る必要はない。
「上だッ!!」
「【パラライズ・ミスト】」
希凛の指示と猫屋敷が魔法を使ったのは同時であった。水刃鼬は幕下蛙の背に隠れて近づいており、跳躍し頭上から襲い掛かろうとしていた。
しかし、飛び掛かった先には麻痺の霧が展開されている。完璧なタイミングでの毒魔法であったが、水刃鼬は尻尾を地面に刺して方向を無理やり転換させた。
方向転換の行き先は猫屋敷に向いていた。先ほどから毒魔法を使う猫屋敷から先に潰すことにしたらしい。
猫屋敷は襲い掛かってくる狂乱蛇擬をほぼ見もせずに避けると、剣を突き立て狂乱蛇擬の攻撃の勢いを利用し深く長く切り裂いてゆく。普通であれば避ける動作をするが、狂乱蛇擬に痛みという概念はないため、切り裂かれても構わず動き続けている。
そこに水刃鼬が襲い掛かる。両の手を高速に振り降ろしながら、同時に魔法で希凛や小鳥のけん制も行っていた。だが、それは猫屋敷も同じだった。
「【エンチャント・パラライズ】」
迫りくる鎌を、猫屋敷は小鳥の様に避けると魔法を発動した。自身だけでなく、希凛と小鳥の武器に麻痺属性を付与する。これで攻撃を当てられれば麻痺にできる可能性が上がった。
水刃鼬が高速で両手を振り回し猫屋敷に襲い掛かるが、猫屋敷はそれをなんとか躱す。小鳥ほどアクロバティックに躱せないが、盾を使っていなすことはできた。
側面から小鳥と希凛が襲い掛かれば、即座に水刃鼬が別のモンスターとスイッチして下がってしまう。犬落瀬が水刃鼬の尻尾を自由にさせず、希凛と小鳥にも水魔法が分散されているからこそ、猫屋敷でも水刃鼬の攻撃を何とか受け持つことができていた。
ゾーンに入っている猫屋敷でも、全ての攻撃をさばくことはできず、それがギリギリだった。だが、小鳥だけでなく猫屋敷も水刃鼬の正面を張れることで戦闘はぐっと楽になる。
水刃鼬は攻撃の手法を変え、他のモンスターをけしかけてゆく。他のモンスターの攻勢を受けているタイミングで、水刃鼬は隙間を縫う様に猫屋敷に襲い掛かるが、まるで見えているように避けていく。
しかし、いつまでも避け続けることはできない。今はギリギリの綱渡りをしているような状態だ。種砲栗鼠の種が当たるだけでも崩壊しかねない危うさがある。
決めるなら早くしなければ、ジリ貧なのはzoo側であった。
少しだが水刃鼬の攻撃パターンはわかった。そのパターンを変える前にやるしかない。
タイミングを見計らっていた他のメンバーも、ここが勝負どころだとわかっていたようだ。
「【ウォーター・カッター】」
水刃鼬の頭上に出現した水の刃は、水刃鼬に躱されてしまう。躱されるのは織り込み済み。躱した先には小鳥がいた。
「は、早く麻痺になってください」
刃幅の厚い双剣を握る小鳥が、水刃鼬と切り結ぶ。手数の多い小鳥と水刃鼬の剣戟だが、軍配は膂力のある水刃鼬であった。何合かの斬り合いの末、小鳥は力負けして弾かれてしまった。
弾かれる小鳥に止めを刺すべく伸ばされた尾っぽを、犬落瀬が割り込み、衝撃で押し込まれながらも防ぎ切った。
動きの止まった水刃鼬。隠れる様に側面に回り込んだ猫屋敷が、魔法を放つ。
「【パラライズ・ボール】」
放たれた魔法は麻痺の性質を持つサッカーボール大の球。毒魔法は他の属性魔法の様に、スキルレベルが低いうちから刃や弾のような形状で直接攻撃することが難しい魔法だ。霧や武器への付与の様に、トラップや補助のような使い方が一般的だ。
しかし、【ウォーター・ボール】の様に放つことができないわけではない。代償に魔力をかなり使うが、猫屋敷の毒魔法のスキルレベルと魔力操作のスキル、それに高い魔力量があれば可能であった。
高速で放たれる麻痺の弾。しかし、水刃鼬にとっては取るに足らない速度の攻撃である。水刃鼬の両手が動けば、麻痺の弾は水刃鼬の目の前で十字に切り裂かれてしまった。
【ウォーター・ボール】であれば、その時点で制御を失い消えてしまっただろう。【ウォーター・ボール】であれば、だが。
「弾けろ」
麻痺の弾は、切り裂かれても消えることは無かった。それどころか、猫屋敷の声とともに麻痺の弾は急速に体積を拡大し、霧となって水刃鼬を包んでいった。
突然の変化に驚愕しながら手の鎌を振り回す水刃鼬。しかし、さすがの水刃鼬も霧を切り裂くことはできないようだ。
猫屋敷が放った麻痺の弾。正体は麻痺性の液体ではなく、【パラライズ・ミスト】を球状に圧縮した弾であった。
液体と見まごうほどの規模の【パラライズ・ミスト】を球状に留めるだけでも相当な魔力操作とセンスが要求されるが、猫屋敷はあろうことか移動させ相手に飛ばす離れ業までやってのけた。
魔法とはスキルレベルに応じてある程度扱える幅が決められており、その範囲内であれば好きに扱うことができる。同じスキルレベルでも使い手によって姿かたちが変わる魔法は、想像力が何よりも重要な要素である。
例えば、水魔法のスキルレベル1では水を出現させ相手に飛ばすことしかできない。それを簡単に想像して具現化するために、【ウォーター・ボール】と唱え魔法の行使をスムーズに行っている。
スキルレベル1では水を出現させることしかできないため、【ウォーター・カッター】のように形状を変質することができない。形状を変えられるのはスキルレベル3からで、スキルレベル1で無理に実現しようとすると膨大な魔力だけでなく相当なセンスが求められる。
猫屋敷の毒魔法のスキルレベルは3だ。スキルレベル1で毒や麻痺の効果を武器に付与することができ、スキルレベル2で毒性の霧を発生できるようになる。毒魔法のスキルレベル3は、毒性の強化であった。霧の範囲拡大や操作はスキルレベル4からである。
つまり、猫屋敷は本来使えないはずのスキルレベル4相当の魔法を行使したということになる。
当然それには代償が伴う。膨大な魔力はもちろん、鈴鹿の様に高速思考のスキルを所持していない猫屋敷がこれほど脳みそを酷使すれば、当分の間は疲労で魔法はおろかろくに戦うことすらできないだろう。
魔法のスキルレベルとは最適化されたプログラムのようなものだ。スキルレベル3では電卓が与えられ、スキルレベル4ではExcelが与えられると考えれば理解しやすいかもしれない。膨大な経費のデータの合計を計算するとき、Excelを使えば簡単に求められるが、それを電卓を弾いて行っているようなものだ。
とんでもない労力が必要だし、一つでも値を入れ間違えれば魔法は破綻する。猫屋敷も普段であればこんなことはしない。魔法が発動しなければ後に残るのは魔力を失いろくに戦えなくなった状態の猫屋敷しか残らないのだから、リスクが大きすぎる。
だが、今は普段とはかけ離れた状況。出し惜しみをして切り抜けられるほど、エリアボスが甘い存在ではないことを猫屋敷は理解していた。
「ギュゥゥウウウウ!!」
麻痺の霧に包まれた水刃鼬は苦し気な声を上げると、麻痺の霧から逃れるために後退していく。その足取りは先ほどまでの滑らかなものから、荒々しいものへと変わっていた。
猫屋敷が使える麻痺はまだ威力が弱く、その場で動けなくさせるほどの威力はない。麻酔を打たれたように感覚がなくなり身体を上手く動かすことができなくなる程度だが、戦闘においてはそれだけで十分な効果だった。
「【ウォーター・ボール】」
ふらつく猫屋敷に襲い掛かる狂乱蛇擬を、希凛が水魔法で横へ逸らし防ぐ。
「よくやったにゃあ子! 小鳥と私で後方のモンスターをこじ開ける! ワン子は背後を頼んだ!」
麻痺がいつまで持つかわからない。ここからは時間との戦いだ。
即座に反転し、退路を確保するために走り出す希凛と小鳥。犬落瀬も岩石土竜の攻撃を盾でいなしながら後退を始める。
(僕も行かなきゃ……)
脳を酷使しすぎたせいか、頭は茹だつように熱く鼻からは血が流れてくる。だが、鼻血を乱暴にぬぐいながらふらつく身体に鞭をうち、猫屋敷も後を追う。思考がまとまらない中、それでも自分が役に立ったことだけは実感できた。
(よかった、役に立った。僕はまだやれる。みんなの役に立てる……!)
足をもつれさせないよう必死に走る。この混沌とした戦場から逃げ出すために。
周囲にはまだモンスターが多数いるが、他のメンバーが攻撃を防いでくれるため、猫屋敷の下まで迫りくるモンスターはいない。
もう抜け出せる。そうすれば全力で2区まで走り切ればいい。希凛が目の前の球月蛇を横に弾きさえすれば、目の前からモンスターがいなくなる。
あと少し。
もう少し。
「ッッッ!!?? やばいみんな!! 水刃鼬がッ!!」
焦った犬落瀬の叫びにも似た声がしたと同時に、衝撃音が響き渡る。振り返った猫屋敷の視界の端で、勢いよく転がってゆく犬落瀬の姿があった。
「えっ?」
気の抜けた声が出た途端、猫屋敷の眼前には水刃鼬の姿があった。獰猛な怒り狂った顔を覗かせる水刃鼬は、猫屋敷が動き出す前にはもう攻撃に移っていた。
右手の鎌が猫屋敷の側面に襲い掛かる。いつもならば防御も間に合ったかもしれない。少なくとも身を逸らすくらいはできたはずだ。だが、今の猫屋敷にそんな動きができるほどの余裕はなかった。
ろくに防御すらできずに水刃鼬の攻撃を受けた猫屋敷は、横にふき飛ばされ何度も地面をバウンドし土まみれになりながらもようやく止まった。三半規管が揺さぶられ前後不覚になりながらも、なんとか起き上がろうと肘をついて上体を起こす。
「っ痛ぅう!!」
水刃鼬の攻撃を受けた左腕に激痛が走り、力が入らず顔を地面にぶつけてしまった。なんとか顔を動かし腕を見れば、二の腕が装備ごとぱっくりと裂けて血が噴き出している。腕もあらぬ方向に曲がっているため、骨も折れてるだろう。もしかしたら千切れかけているのかもしれない。
猫屋敷含め、zooのメンバーは疾風兎の防具を装備している。2区の上位モンスターの装備ということもあり、当然防刃効果もある丈夫な装備のはずが、抵抗虚しく切り裂かれていた。いや、エリアボスの攻撃が直撃しても腕が付いている時点で、防具としては良質なものと言えるだろう。そこに猫屋敷の高いステータスが加わったことで、辛うじて深い切り傷だけで済んだようだ。
「―――!! ―――ッ!!」
誰かが何事か叫んでいるが、猫屋敷の耳には入ってこなかった。麻痺にさせられたのが相当気に入らなかったのだろう。致命傷を受けろくに動けない猫屋敷に止めを刺すべく、目の前には水刃鼬が鎌を振り上げていた。
(麻痺がこんなに早く治るなんて……エリアボスを舐めてたよ)
最後の最後で仲間の足を引っ張ってしまった。
もっと強力な麻痺を猫屋敷が使えていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
今頃モンスタートレインを抜け出せていたはずだった。
そうすればみんなは無事に逃げれたのに。
自分の力の無さに猫屋敷は深く後悔し、歯を食いしばる。
「くそったれ」
せめてもの抵抗として水刃鼬を睨み付ける猫屋敷。鎌が振り下ろされると、目の前が真っ暗に染まった。




