閑話 福山桐子
『私の光』。福山桐子がその漫画と出会ったのは、近所のゴミ捨て場であった。
廃品回収のために十字に縛られたそれに、何故か興味を惹かれた。忙しない日々を送る桐子は、娯楽に飢えていたのかもしれない。悪いことだと思いつつも、桐子はその漫画を手に取り家へと持って帰った。
『私の光』という漫画は、8巻で完結した。内容はシンデレラストーリー。貧乏な生活を送る主人公に数々の不幸が降りかかるが、それでもめげずに起き上がり続け、最後は主人公が憧れ続けた服飾の仕事に就くというもの。白馬の王子様が迎えに来てくれるわけでも、御曹司のイケメンと付き合う訳でもない。あったかくて優しい社員ばかりの、小さなデザイン会社に就職するだけのお話。
それなのに、桐子はその作品に心を奪われた。貧乏な生活を送る自分と重ねたのかもしれない。桐子は深く深く、その物語に共感した。それと同時に希望を持った。
『諦めず、何度倒れようとも、まっすぐ前を向いて歩き続ければ、きっとあなたの光を見つけることができる』
最終話、主人公を通して作者の思いがつづられていた。この言葉に感銘を受けた桐子は、この日から自分の現状を悲観せず、前を向くようになった。自分だけの光を見つけるために。
そうは言っても、桐子を取り巻く環境は劇的に変化することはない。高校三年生の桐子は、友人たちが受験勉強に励む中、せっせとアルバイトに精を出す。高校三年生でアルバイトする理由は簡単だ。学費や生活費を稼がなければならないからである。
母親は桐子がまだ小さいときに家を出て行った。理由は父親の酒癖の悪さとギャンブル依存症のせいである。耐えきれなかったのだろう。今なら痛いほど気持ちはわかるが、桐子を残していった気持ちだけはいつまで経っても理解できなかった。
父は母が出て行ったことで懲りたのか、はたまた桐子が小さいからこそまじめにならざるを得なかったのか、そこからお酒やギャンブルの頻度は減った。減っただけで続けてはいたが、それでもましになった。小心者で周りの目を気にする人だった。それなのに、お酒を飲むと態度が大きくなる。とてもと付け加えておこう。まるで別人のようだった。
いつもいつも、家に帰ってからも仕事の文句を言い続けている父。しがない清掃業は薄給で、それでいて肉体労働でもあるのだから疲労もたまる。疲れた身体にアルコールはよく沁みるのか、そんなときに飲んで帰ってくると最悪だった。薄給の上に飲むと態度は大きくなって散財し、たまの休日にはパチンコや競馬場に通い詰める。
親としては最悪で、人としても軽蔑していた。
だからこそ、桐子は生活するために、そして家から出ていくために高校生になるやアルバイトを始めた。みんなが部活に励む中桐子は学費を稼ぎ、みんなが放課後にファミレスで勉強しようと盛り上がる中桐子は生活費を稼ぎ、みんなが昨日の音楽番組やドラマの話で盛り上がるのをしり目にその時間も桐子は働いた。
日々の生活を切り詰め、少しずつお金を貯めていく。高校を卒業すると同時に、家を出るために。
だが高2の夏に問題が起きた。給料日。いつものようにお金を引き出そうとすると、貯めていたお金のほとんどが無くなっていた。茫然自失とはこのことか。頭が真っ白になり、しばらく動けなかったほどだ。
家に帰ると父親が土下座していた。グダグダと言葉を並べていたが、要約すれば桐子の金を勝手に使ったということだった。負けが込んでいた。次やれれば勝ててたはずなんだ。もう少しお前の貯金があれば勝てたはずだ。まさかこの期に及んで桐子は自分の貯金が少なかったから負けたのだと責任を押し付けられるとは思わなかった。
はらわたが煮えくり返り、怒りで意識が飛びそうになりながらも、絞り出せた言葉は『もう二度と私のお金に手を付けないで』というものだった。
それだけで済ましたのは、肉親としての情が湧いたからではない。打算だ。
高校生が家を出てったところで、ろくな待遇は受けられない。何をやるにも親の許可が必要な年齢だ。ならば辛酸をなめようとも、あと1年我慢して高校を卒業と同時に家を出て行った方がましな企業に就職できるはずだ。だから桐子は全てを飲み込んだ。あと少しの辛抱だと。これは私だけの光を見つけるための試練なのだと。
それにここで下手に激怒すれば、この醜悪な小男は桐子に手を上げるかもしれない。現実から目を背ける様に浴びるほどの酒を飲むかもしれない。何をするかわからない。信用のかけらもないのだから。
だからこそ、穏便に済ませた。桐子の中にあった肉親への情はこの時を以て完全に砕かれた。
それからというもの、通帳を含めた全てのお金関係を桐子は常に携帯し、家の中でも気を張って生活した。父親はバツが悪いのか外で飲むことが増え、今まで以上に家に寄りつくことが無くなった。
高三にもなれば、就活もした。桐子にはまだやりたいことは無いけれど、それでもこの家から出たい思いは変わらない。担任に相談して寮付きの会社を見繕い、貯めたなけなしのお金を使って高速バスで大阪まで行って面接を受けた。その結果、見事内定をもらうことができた。
給料は低いし、寮も綺麗なものとは言えないが、それでも家から出ていくことができるのだから桐子は心底喜んだ。この鳥かごのような町から出ていける。そう思えたら、桐子の心は随分軽くなった。
それに、『私の光』の主人公に少し似てるなと桐子は浮かれていた。桐子は就職先での仕事がずっとやりたかったことではないが、くじけず前を向いて歩き続けた結果、少しずつかもしれないが確実に桐子は前へ進めていた。このまま頑張ればいつか私だけの光を見つけることができるはずだと、桐子はそう信じていた。そうなるのだと、信じていた。
まだ寒さの残る2月。高校生が働けるギリギリの22時まで働けば、帰る頃には底冷えの寒さだ。早く帰って休みたい。学校とアルバイトでへとへとの身体に鞭を打ち、桐子は帰路へと就いた。
家の電気がついてる。最近は父親と会話らしい会話はしていない。あと1か月もすれば高校を卒業してこの家を出て行けるのだ。顔すら見たくないが、我慢我慢。そう思って家のドアを開けると、知らない靴が玄関にあった。
嫌な予感がする。それは半ば確信めいたものだった。
「あ、娘が帰ってきたみたいです」
ガタイの良い男二人と、愛想の良さそうな貼り付けた笑みを浮かべた男が一人。こんな夜更けに家にいるなんて、ろくな用事じゃないだろう。
「我々から説明しましょうか?」
「あ、え、ええ。お願いします」
ぺこぺこと頭を下げる父。提案した男はまさかお願いされるとは思っていなかったのか、軽蔑を多分に含んだ驚きの顔を浮かべ、父の代わりに桐子へと説明を始める。
「こんばんは、桐子さん。唐突ですが、あなたの身柄は我々に譲渡されることとなりました」
「ど、どういうことですか?」
「あなたのお父様が拵えた借金。その肩代わりを娘であるあなたが担ってくれると、お父様が我々に契約してくださいました」
目の前が暗くなる。立っていることが不思議なほど、全身から力が抜けていくようだった。
「これから桐子さんは我々に付いてきていただきます」
「これでほんとに借金はチャラになるんですよね」
父親がすがるように男に媚を売る。その悍ましい様子を見ながら、桐子の頭はなんとか事態を把握する。
売られた。その言葉に尽きる。男たちに付いて行った先は風俗かAVか。水商売なんて優しい場所ではきっとないだろう。ろくなことにならないのは女子高生である桐子であっても容易に想像がつく。
そう理解した途端、桐子は家を飛び出した。男たちが追いかけようと動くが、桐子の方が一歩早かった。
親が子供を売るなんて、そんなことがまかり通っていいはずがない。これは人権問題だ。借金のカタにされるなんて、あっていいわけがない。
夢中になって走った桐子だったが、思ったほど家から離れることはできていなかった。若いとはいえペース配分も考えずに走れば、すぐに息が上がってしまうのも無理もない。2月の心身共に凍えさせる冷気を思いっきり吸い込んでしまい、気管支が痛む。少しでも遠くへ逃げたいのに、浅く繰り返される呼吸がこれ以上先へは行かせないと桐子の動きを阻害する。
「いった……!」
靴すら履かずに逃げ出したせいで、小石を踏んでしまい足の裏を傷つけてしまったようだ。夜になり一段と冷える気温が、足先から体温を奪い感覚が次第に鈍くなってゆく。
このまま死んじゃうんじゃないだろうか。そんな馬鹿げたことを本気で考える。いっそ死んでしまった方が楽なのかもしれないと頭によぎるが、こんなことで死んでやるものかときつく前を向く。
そうだ。私はまだ私だけの光を見つけてない。下を向いてる暇なんてないんだ!!
その思いを胸に、桐子は歩き出す。とりあえずバイト先のファミレスへ向かおう。この時間ならまだお店は開いてる。そこで仕事用の靴を借りて、いったん落ち着いてどうするか考えればいい。今は難しく考えず、とりあえず逃げることだけ考えることにする。
「ちょっと君。何やってるの?」
びくりっ。思わずその場で飛び跳ねた。心臓が口から飛び出すかと比喩ではなく本当に思った。恐怖に怯えながらも振り向けば、警察がいた。すぐ近くにパトカーもあるため、パトロール中の警察官だろう。夜更けに女子高生が息を切らせながら走ってる。それも靴も履かずに。
声をかけられるのは当然と言えた。そして、それは桐子にとって福音の声でもあった。
「あの、助けてください!!」
桐子の様子にただならぬ気配を感じ取ったのだろう、警察官も神妙な顔で応じた。
とりあえず話を聞くために交番まで行こうかと提案され、桐子はパトカーに乗って交番へと連れて行ってもらった。暖房の効いた室内が、桐子の緊張を氷解させる。
話せる範囲で教えてほしいと言われ、先ほどあった出来事をつまびらかに説明した。家に帰ったら知らない男たちがいたこと。父親が借金のかたに桐子を売ったこと。そのせいで男たちにどこかに連れて行かれそうになったこと。
事情を重く受け止めたのか、警察官たちは神妙な顔になり後は任せてほしいと言ってくれた。あったまるようにとお茶を入れてくれ、それを飲むとさざなみだっていた心が幾分か落ち着いてくれた。
これで全てうまくいく。あとは警察に任せればいいんだ。その期待は、呆気なく裏切られた。
「連絡どうも。じゃあ連れて行きますね」
そんな声が聞こえて見てみれば、桐子の家にいた男たちが交番へと入ってきた。
「ひっ!」
慌てて逃げ出そうとした桐子だが、警察官に肩に手を置かれ立ち上がることができなかった。
「ダメだよ、家出なんかしちゃ。保護者の方が心配するじゃないか」
そんな意味の分からないことを言いながら、警察官は男たちに桐子を渡そうとする。ぺこぺことまるで米つきバッタのように男たちに頭を下げる警察官を見て、桐子は国家権力が打ち砕かれた瞬間を目の当たりにした。
ああ、私が売られる先は、警察も手出しできないようなところなんだ。その救いの無さに桐子は呆然として、両脇を抱えられるようにして連行された。
◇
ここに連れてこられてから何日、いや何か月が経過しただろうか。無機質な部屋の中で、チューブだらけになりながら桐子は見慣れてしまった天井をただずっと見続ける。視界はかすれ、けれども元の視力よりもずっと良くなった目が、天井の僅かな色の違いを感じとる。
ピコンピコンと繋がれたチューブの先にある機械が音を立て、よくわからない数値が上がったり下がったりを繰り返す。点滴として身体に流し込まれているパックには、青色にキラキラ輝く不思議な液体が入っている。医療に詳しくない桐子でも人体に入れるべきではないことくらいわかるモノが、チューブを通して体内へと入ってくる。
身体は重く、まるで重力が何倍にもなってしまったような気分だ。血液に鉛でも詰まってるのではないだろうか。そんな愚鈍な身体は、桐子の身体なのに、桐子の知らないものになっていた。
爪は剥がされ化け物のような鋭く長い爪がつけ爪のようにくっつけられ、腕や脚、腹などには硬質な鱗の皮膚が移植されている。
いつか伸ばしたいと思っていた髪の毛は刈り上げられ、寂しくなった頭には何かの角が縫い付けられる始末。これを付けられたときは死ぬんじゃないかと思えるほど痛かった。眼を見開くほどガンガンと頭が痛み、視界が真っ白に染まるほどの痛みに苛まれ続けた。気絶することでようやく痛みから解放されるが、眼を覚ませば思い出したかのように頭の中をかき回される。自分とは違う何かの意志が流れ込み、触れてはならない禁忌を侵したような恐れ多い感覚に支配される。放心し、まるで精神を乗っ取られたような気分。角自体にも意志が宿っていて、角がアンテナのように働いて高次元の何かを身体に流し込んでくる。
この痛みに比べれば、何枚爪を剥がれようが、皮膚に鱗を移植しようが些細なものでしかなかった。角が桐子に馴染む間もなく、次に尻尾を移植される。これにより、完全に下半身の自由を失った。動かなくなったわけではない。桐子の意志に反して動くのだ。
尻尾が移植された部分は感覚がなくなり、腰が砕けた様に動かせなくなった。少しして尻尾が馴染むと、次に脚に変化が訪れた。白く柔らかかった脚には硬質な鱗が出現し、足は猛禽類のようなかぎ爪に勝手に変身していた。桐子の脚であって桐子の脚ではなくなったそれが、勝手に暴れまわるのだ。今は何か所も鉄の輪っかで寝台の上に固定されており、少しも動かす余地がない。それでも何かを訴える様に、脚が勝手に動くときがある。
なんでこうなったのか。桐子はいくら考えてもわからない。
男たちに捕まった当初は、風俗にでも沈められるのだと思っていた。だが、連れてこられた場所は無機質な部屋。窓のない病室のような場所だった。ベッドはあったため、ここで客を取らされるんだと血の気が下がったものだ。
しかし、一向に桐子は身体を求められることは無かった。いや、身体は隅々まで検査された。採血され超音波を当てられ、いろいろな数値を医者のような研究者のような人間たちがデータを取得していた。男に検査されるのに抵抗はあったものの、彼らからは情欲は一切感じられず、無機質なものだったので桐子は黙って検査を受け入れた。
最初はよくわからない液体を飲むだけだった。経過観察のためにいろいろと質問されたりしながら、ただ普通に過ごしていた。本なども与えられ、貧乏暇なしとばかりに忙しかった桐子は逆にのんびり過ごせたほどだ。
そして一つの可能性に至る。これは治験というやつではと。治験は危険も伴うため、高い報酬が得られると聞いたことがある。きっとそれなんだろうと桐子は思った。父親の借金の返済ならあいつを連れてけと思わないでもないが、アルコール臭のする中年男のデータなんていらないのかもしれない。
じゃあそのうち帰してくれるかも。そんな気楽な気持ちも持てた。いや、必死に現実を見ないようにそう思ったのだ。そう思わないと不安で押しつぶされそうだったから。
次第に内容が変化していく。投与される謎の液体は増えていき、幻覚や吐き気など身体に異常が現れ始めた。このまま死ぬんじゃないかとも思ったが、私はまだ光を見つけていないのだから死ぬわけにはいかないと、気持ちを強く持ち続けた。
もはやそれは妄執であった。光を見つけるんだ。私だけの光を。どんなにちっぽけで小さくても、私の光を。そう思い続けることで意識を保ち、精神を維持し続けた。桐子にとってその考えは、自分を支える柱となっていた。でなければ、拉致された事実や、日々身体が変質していく不安や、閉じ込められ続ける精神的疲労によってとうに精神に異常をきたしていたか、廃人になっていただろう。
そんな日々も、実験が次のフェーズに移り、桐子の身体に直接手を加えたことで一変した。
「あ……あぁ。わ……たしの、光…………」
うわ言のように口から漏れる言葉。もはや指すらも満足に動かせず、喉もひりつき言葉を発するだけで激痛が襲う。けれども、桐子はもう何も感じない。何も感じなかった。
ガチャガチャと暴れる脚も、桐子の頭を破壊しようと痛み続ける角も、つぎはぎだらけとなった身体の感覚も。何も感じない。
それでも桐子は願い続けた。自分だけの光を見つけたいと。その光に触れてみたいと。寄り添ってみたいと。私にも、光を見つけることができるんだって、思いたかった。
一筋の涙が零れ落ちると同時に、桐子に繋がれた機械が真っ赤に点灯した。
◇
ふわふわと空中を漂う綿毛のように、桐子はたゆたっていた。
何も感じず、何も考えられない。真っ暗な空間を、ただただ、ふわふわと流される。はるか先には天の川のような美しい何かが流れている。それは大いなる生命の奔流。きっと流れ着く先はそこなのだろう。ただ、何も考えられない頭では、それすらもわからずただたゆたう。
『生きたいか』
その時、桐子に何かが語りかけた。
『生を望むか』
それは神からの問いかけであった。
神々しい光が桐子を照らし、問いかける。
『生への渇望があるか』
その問いかけに、何も考えられない桐子は本能のままに頷く。死の間際まで生きたいと願い、死してなお光を求め続けた桐子は、照らされる光にただひたすらに手を伸ばす。
急速に浮上する意識。気づけば目の前の光が手を差し伸べていた。
「あ……あぁ。やっと、やっと見つけた……! 私の光!!」
声は嗄れ果てていたが、それでも桐子の感極まった産声がこぼれ落ちる。
そう、桐子はこの瞬間生まれ変わったのだ。そして、見つけたのだ。彼女が生涯を捧げるべき光を。一生を賭して尽くすべき光を。
その光から流し込まれた黒い煙の力の本流を、桐子は無条件で受け入れるのだった。




