15話 狂天童子
鈴鹿の前には、存在進化時に見た鬼がいた。
偉丈夫なその鬼は、高さ3メートル近くある。波打つ長い長髪は逆立つように広がっており、その隙間から二本の角が突き出していた。特徴的なのは額にある第三の眼だろうか。縦長の眼は機能しているのかわからないが、今は縫い付けられていて閉じられてるため見ることはできない。灰色の肌は一切の余分な肉が削げ落とされたような筋肉美を誇り、筋肉の塊一つ一つが硬質で密度が高いことが見ただけでわかる身体だ。
白い大きめのズボンに、装飾が施された黒い腰布が巻かれていた。上半身には何も身に着けておらず、二の腕と首にリングを着けているだけだ。武器の様な物も持っていない。狂鬼もまた、鈴鹿同様己の拳が武器のようだ。
狂天童子:レベル■■■
そこにいたのはエリアボスなど歯牙にもかけない、天すら狂わす力を持った鬼だった。その鬼が気配遮断を全力で発動している鈴鹿を捉える。その瞬間、鈴鹿が動き出した。
「――狂鬼ッッッ!!!」
それは歓喜に染まった狂気的な声であった。
【え、なにこれ。モンスター同士で争ってる?】
【死んだ方がエリアボス? この灰色の方がエリアボス?】
【超強そうなんだけど。なにこれ?】
【ユニークモンスター???】
スマカメからコメントが流れるが、鈴鹿は全てのリソースを狂鬼へと注ぎ込む。結果――
【おわ!なに!?】
【え、カメラ落ちた?】
【びっくりした~。狂鬼さんカメラ落としたよ!!】
【狂鬼さ~~ん!!】
【駄目だ。あの時の笑い声が聞こえる】
【雷鳥戦か】
【ああなった狂鬼さんはもう戻らない】
【え、なに? このまま1日くらい放置?】
【1日で済めばいいがな】
【それよりもあのモンスターなに!?】
【ギルドの資料に載ってたのは殺されてた赤い大鬼の方だった】
【ってことはあの灰色の鬼はエリアボスとは別ってこと?】
【ユニークモンスターじゃん! ユニークモンスターってエリアボスより強いんだ! 知らなかった!】
【んなわけないだろ!! ユニークモンスターって言ってもエリアボス程度の強さのはずだぞ】
【他のモンスターに襲い掛かる無差別タイプもいるらしいけど、エリアボスに挑んであんな無傷でいるのは異常】
【え、なにそれ。激やばユニークモンスターってこと?】
【語彙力】
【普通のユニークモンスターじゃないし、エリアボスでもない。何なんだあいつ】
【狂鬼さんがカメラすら投げ出すレベルのモンスターってことだろ。あの雷鳥戦ですら狂いながらでも常にカメラで撮影し続けてた狂鬼さんが、カメラのスキル解除せざるを得ないくらいの】
【冷静に考えるとやばいな。あの雷鳥の攻撃喰らい続けてもカメラ維持してた狂鬼さんもヤバいけど、それすらさせないあの鬼って何者なの!?】
【さっきも普段装飾品とか全然つけてない狂鬼さんが指輪とかネックレスしてたからな。この集落に入る時から様子おかしかった】
【たしかに。あれだけ離れててもヤバさが伝わるほどのモンスターってこと!?】
【おいおいおい。今回はまじで狂鬼さんやばいんじゃねぇか?】
【まぁ、大丈夫じゃない?】
【お気楽すぎだろ】
【真剣に心配してんだよこっちは】
【いや、ほら聞こえるじゃん。狂鬼さんの心底楽しそうな笑い声が】
◇
コイツはヤバい。全身がそう訴えていた。
狂鬼と対面してから震えが止まらない。全身から冷や汗が噴き出し、腰が引けそうになる。
だというのに、鈴鹿は笑っていた。
どうしようもないほどに心が歓喜していた。
1層5区では猿猴を倒してから壁という壁にぶつからなかった。
2層5区ではもはやエリアボスはスキルレベルを上げるための存在に成り下がっていた。
夢遊猫に至ってはもはや欠片も危機感を抱くことなく煙へと姿を変えてしまった。
全力の練習をしていたところで、それはあくまで練習であって、全力で戦う相手は現れないのだろう。そう心のどこかで理解していたし、その現状に虚しさすら感じていた。
『存在を眩ます術か。以前戦ったことがあるが、中身は脆弱と決まっていたな。貴様はどうだ?』
複数の声が重なり合ったような不思議な声で話しかける狂鬼。輝かんばかりの神気すら放つ狂鬼ならば、鈴鹿の飢えを満たしてくれる。そう確信でき、それがどうしようもなくたまらないほど嬉しかった。
目の前の狂鬼も記憶で渇望していた。持てる限りの全ての力を振り絞り、それでも生き残れる確率はわずかという全力の戦いを渇望していたのだ。
ならばお互い埋め合おう。
傷の舐め合いのように。
乾いた身体に血を注ぎ合おう。
「安心しろ狂鬼」
鈴鹿は呟く。
気配遮断を発動しているため聞こえてるかわからないが、お互いに必要なのは言葉ではない。
だからこそ、鈴鹿は狂鬼に教えてやるように、真っ向から殴りかかるのだ。
お前の目の前にいるのは、お前が恋焦がれた存在だと教えるために。
「今日はお前が喰われる番だァァ゙ァ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!」
鈴鹿の背後に翼のような魔法陣が出現する。聖魔法を極めた神の名を冠する男が試行錯誤の末に生みだした、凡夫すらも神兵へと変貌させる魔法。即座に魔法陣は砕け散ると、黄金の桜の花びらのように舞いながら鈴鹿へと吸い込まれてゆく。
その間にも、鈴鹿の外見に変化が現れる。額から一本の角が生え、黄金に染まる眼は瞳孔が縦に長く伸びてゆく。両の手は墨を垂らしたかのように黒へと染まれば、手の中が夜天に煌く星々のように輝きだし、次の瞬間には星が爆ぜたように白雷が手の中を駆け巡る。
身体強化、雷魔法による強化、雷装、存在進化、聖光衣。その全てを発動し、鈴鹿は音すら置き去りにする速度で狂鬼へと迫った。
気配遮断に隠匿の心得を発動した鈴鹿の攻撃は、例えそこに何かいるとわかっていてもリーチや攻撃手段など細部まで認識するのは至難の業だ。しかし、狂鬼はそれらを看破する。
迫りくる鈴鹿を正確に把握し、打ち込まれた白夜の毒手を片手で防ぐ。しかし、鈴鹿の全力がその程度で防げるはずがなかった。
『むっ』
狂鬼の腕を破壊することも、体勢を崩すことすらもできなかった。しかし、攻撃の勢いを殺しきれなかった狂鬼はそのままの姿勢で背後の屋敷へと吹き飛ばされた。
初撃は鈴鹿に軍配が上がった。しかし、狂鬼は鈴鹿の今出せる全ての力を込めた攻撃を片手一本で防いで見せた。その事実に鈴鹿の笑みが深まってゆく。
しかし、それは狂鬼も同じであった。
『ハッハッハッハッハッハッ!! いいじゃないか!! 素晴らしいぞ小僧ッ!! 吹き飛ばされたのは幾年ぶりか!!!』
凶悪な顔を歪め狂鬼が破壊された屋敷から姿を現す。
「おいおい、それで笑ってるつもりか? 身体鍛える前に表情筋でも鍛えたらどうだ」
『面白いことを言うやつだ。我を愉しませてみろ、小僧』
「そっくりそのままお前に返すよ、独活の大木君」
気配遮断が完全に見破られたようだ。狂鬼相手に再発動は難しいだろう。
一瞬の間。次の瞬間には両者ともに姿が掻き消えていた。
鈴鹿と狂鬼の拳が交差する。鈴鹿が練り上げた白夜の拳だというのに、狂鬼はなんてことない風に拳を交わしてゆく。
身長差がある分鈴鹿の方が小回りが利く攻撃ができるが、狂鬼の体重を乗せた重い一撃一撃は鈴鹿の命を容易に刈り取る威力が込められている。
止まったら死ぬ。久方ぶりに、鈴鹿はそのことを理解した。まるで聖神の信条を得る前に戻ったかのように、狂鬼の攻撃一つ一つに恐怖を覚える。
身軽さを活かすために全周囲に展開しながら攻める鈴鹿に対し、狂鬼はどう攻められるのか全てを理解しているかのように的確に鈴鹿の攻撃を防ぎ、狂鬼の攻撃に誘い込むように鈴鹿を誘導してゆく。
迫りくる狂鬼の拳をいなす。僅かに触れただけで白夜の拳が悲鳴を上げるほどの力が込められていた。
『どうした小僧!! この狂鬼に貴様の力を魅せてみろッ!!』
煽られるが、鈴鹿は答えない。否。答えられない。
思考加速のリソースを全て狂鬼に捧げているが、エンジンがかかりだした狂鬼は瞬き一つ毎に疾さも威力も上がってゆく。鈴鹿はまるでカメレオンのようにギョロギョロと眼を動かし、狂鬼の些細な筋肉の動きから攻撃を予測してゆくが、徐々に押されてゆく。
鈴鹿の全てを注ぎ込んだ状態は、狂鬼の本気すら引っ張り出せないほどの些細な強化でしかなかった。
自惚れていた。自分が本気を出したら、戦える相手なんて特級探索者でもいるかどうか怪しいだろうと余裕をかましていた。特級探索者が相手でも負ける気はしないとすら思えていた。剣神の頂まで行けたとはまだ思えていなかったが、いい戦いくらいはできるのではないかと思っていた。
それが、いざ本気を出したところで、2層5区に出現するレベルのモンスターに押される始末。それが狂鬼というイレギュラーな存在だったとしても、2層5区で出現するのならば2層5区のレベルで倒せない筈がないモンスターなのだろう。それなのに鈴鹿は時間が経つごとに押されてゆき、動きに精彩が失われてゆく。
狂鬼の動きを惑わすために動いていた足も、的確に放たれる狂鬼の攻撃によって地面に縫い付けられたように満足に動かせてもらえない。
手数が足りない。狂鬼の攻撃に鈴鹿は押さえつけられてしまう。このままでは殺られる。足らない手数を補助するように、鈴鹿は見えざる手を出現させ狂鬼へ攻撃を仕掛けた。
『くだらん』
しかし、狂鬼は見えざる手に反応すら見せなかった。事実。狂鬼を殴りつけた見えざる手は、まるで巨大な鉄の塊でも殴りつけたかのようになんの手ごたえも感じることは無かった。
『終いか』
つまらなそうな顔をしながら、狂鬼が鈴鹿へ向けて拳を放つ。まるで詰将棋のように、どうあがいても回避も防御も間に合わないような状況を作り上げられた。
「絶界」
しかし、鈴鹿には魔法がある。世界を断絶するほどの絶対の防御魔法が。
狂鬼の拳大に出現させた絶界が、見事に狂鬼の攻撃を受け止める。
『ほう、硬いな』
楽しそうに顔を歪ませる狂鬼。絶界は押し込まれることもヒビが入ることもなかった。だが、狂鬼の攻撃はそれで終わりではない。腕は二本あるのだ。もう一つの手が、鈴鹿へと迫る。
狂鬼の攻撃に合わせて絶界を展開する鈴鹿。聖神ルノアが編み出した魔法の数々は凄まじい効果を発揮する一方で、魔力の消費も凄まじい。使い続ければ簡単に魔力は枯渇するだろう。
風雷帝箆鹿のように、気配遮断を使って姿を隠せるならばそれでもいい。だが、狂鬼相手に魔力が枯渇すればそれこそどうなるかわからない。魔力が回復するまでただただ殴られ続けるなんて、そんなつまらないことを狂鬼相手にしたくはない。
見切りと思考加速を意識しながら、狂鬼の拳に合わせて絶界を展開してゆく。だが、それで防ぎきれるほど狂鬼は甘い存在ではなかった。全力の強化を施していても鈴鹿は追い込まれたのだ。狂鬼の戦闘センスは鈴鹿よりも圧倒的に上であった。
『次は何をする!? もう終わりか? 避けねば死ぬぞッ!!』
とうとう狂鬼の拳が絶界をすり抜ける。迫る拳を白夜の毒手で受け止める。だが、そんなもので受け止めきれるほど狂鬼の攻撃は優しくなかった。白夜の毒手が叩き折られ、狂鬼の拳が鈴鹿の顔面へ直撃する。
重い衝撃。脳が揺さぶられ視界が暗転する。兎の鬼面が砕け散り、鈴鹿は宙を舞った。
殴られた頭部に痛みは無かった。代わりに命の水が流れ出てしまうような、耐えがたいほどの恐怖だけが心を揺らす。
『せっかく興が乗ってきたというのに、何とも脆いものだ。おい穴蔵よ。この程度の者では足りぬ。到底足りぬぞ』
狂鬼が襤褸切れのように転がった鈴鹿に一瞥もせず、もっと寄こせと、渇きを癒せと催促する。
狂鬼にとってこの戦いは終わったものであった。
もうこの矮小な者は起き上がることもなく、ここで死に至るだろう。
そう思えるほどの手ごたえを感じていたし、狂鬼の血に塗れた歴史がそうなるだろうと確信を抱かせる。
しかし、鈴鹿は終わらない。
この程度で終わりなら、1層5区で猿猴に嬲られたときに鈴鹿の探索は終わっていたのだ。
『なんだ、まだ動けるのか?』
気を失っていた鈴鹿は、目を覚ますと即座に距離を取り体勢を整える。戦闘中に気絶するなど何時以来だろうか。
狂鬼の一撃はとてつもなく重かった。身体の芯を揺さぶられ、たった一撃で全身が破壊されたような攻撃。今もなお鈍痛が感じられるほどの痛みであった。
「……は?」
その時、鈴鹿は自身の身体の異常を感じた。両腕が折れたままなのだ。狂鬼の攻撃に耐えられず折られた腕は、あらぬ方向を向いたまま元に戻らない。いや、意識を向ければ徐々に徐々に回復していることがわかる。だが、それは遅々としたもので、今までのような即座に修復される回復は機能していなかった。
『我の攻撃を治癒しているだと? 穴蔵か? ……いや、権能は残っている。我の力を上回るほどの治癒か。面白い』
その時理解した。鈴鹿の『聖神の信条』という壊れスキルがあったからこそ鈴鹿は今生きており、不死として全ての怪我を癒してくれるからこそ、この手は復帰しつつあるのだ。武器を持てないという強烈なデメリットがあるからこその馬鹿げた性能のおかげで。しかし、その性能をもってしてもここまで回復が遅くなる。
これは狂鬼の能力によるものだろう。破壊したものを癒させない力。根源を破壊する、滅却の力。
それは鈴鹿の強さの源であった不死の力すら脅かす、天敵たる力であった。
その瞬間、鈴鹿の中で眠りについて久しい死という根源的恐怖が鈴鹿に襲い掛かる。
今まで不死という大いなる力を利用して鈴鹿はここまで飛躍的に強くなることができた。死なないからこそ無謀な戦いを不用意に行うことができたし、死なないからこそレベル差のある2層5区のエリアボスにだって挑めたし、死なないからこそ能力を縛ってスキルを強化するなんて余裕をかますこともできた。
それが今、無効化される。狂鬼が持つ、滅却の権能によって。
ただのエリアボスよりも圧倒的に強い存在が相手であるにもかかわらず。ここにきて、鈴鹿は不死という最大の権能を失うこととなった。
だからこそ、鈴鹿は狂鬼に会う前からこの集落に足を踏み入れることに躊躇していたのだろう。その先に待ち受ける天敵たる狂鬼に怯えて。
だからこそ、鈴鹿は不死だというのに狂鬼という最高の相手を前にスキルを縛ることもなく、最初から全力で挑んだのだろう。目の前の鬼が、鈴鹿を殺しうる存在だと理解していたから。
命を天秤に置いた分の悪い賭け。図らずも、鈴鹿はその賭けに参加していた。
ダンジョンにおいて、もっとも成長を促すことが命を懸けた戦いである。死ぬか生きるかの瀬戸際で、踏み留まれた者にのみダンジョンは祝福し力を授けるのだ。
その結果、鈴鹿は天井知らずの多大なるリスクを背負い込むと同時に、そのリスクを背負い込んだことに対する敬意として、ダンジョンが鈴鹿の力を高めてゆく。
『ほう、少しはましな攻撃に変わったではないか』
狂鬼が動くよりも先に、鈴鹿が動き出す。見えざる手を使い、鈴鹿の両腕が復帰するまでの時間を稼ぐのだ。
先ほどは見えざる手の攻撃など防ぐ必要もないとばかりに無視していた狂鬼だが、死の淵に立ち、今まで封印されていた死のリスクを背負い込んだ鈴鹿が繰る見えざる手は、先ほどのモノとは別次元に洗練された力が籠められていた。
見えざる手のスキルレベルが上昇し、鈴鹿の力が十全に繰り出せるように進化する。生み出された見えざる手は星明りのない夜天のように闇に染まり、内側から星々が煌きだす。すぐさま光は爆ぜるような眩さを伴って、白夜の手へと見えざる手を作り変えてゆく。
鈴鹿が発動するスキルならば、鈴鹿の手の延長のように使えなければおかしいだろう。死の淵に立ち、両腕が壊された今、鈴鹿の手がさらに四つ追加される。
さらに進化は止まらない。鈴鹿の絶対の自信を持っていた毒手が圧し折られたのだ。同じ技を使ったところで結果は火を見るよりも明らかであろう。
ならば強化しなければ意味がない。ここで強化できないスキルなど、鈴鹿は求めてはいない。鈴鹿の脅迫じみた求めに、毒魔法が頭を垂れて付き従う。
雷装の影響で白き輝きが爆ぜる毒手が、徐々に黒く浸食されてゆく。まるで墨を和紙に垂らしたように、光は闇に喰い尽くされ内部へと封じ込められる。白夜が転じ、極夜に支配された見えざる手が宙を舞う。
求めたるは不壊なる拳。滅却の権能にも屈することのない毒手。
「クソが。気に入ってた仮面ぶち壊しやがって」
『何とも稀有なことだ。誇るが良い。我に殴られ、再び立ち上がる者はそういない』
「ゼロじゃないんかい。まぁいいや。お待たせ。始めようか! 第二ラウンドッ!!!」
鈴鹿の折れた両腕の代わりとなる四つの腕が、一斉に狂鬼へと襲い掛かった。




