57話 モールからの脱出
「どうして車があるんですか?」
後部座席の杏奈が、当然の疑問を口にした。
どう答えようか迷った隼人は、さしあたり保留することにした。
「さっき、フードコート側から、新秩序連合だという声が聞こえた。まずは、食品売り場の裏手にある出入り口から脱出する。混乱せず、大人しく車に乗っていろ。言っておくが、俺は初心者マークを付けたほうが良いドライブテクニックだ」
法的には若葉マークを付けなくても良いはずだが、運転歴は非常に浅い。
もっとも運転するゲームは多少やっていたので、極端に下手ではないと信じたいところだ。
そんな男が運転する車が、ショッピングモール内の1階を走る。
進んでいく先には、既に混乱する人々の姿があった。
「新秩序連合が来たっ」
「早く逃げろ!」
物資を集めていた人々が、混乱しながら各々の出口を目指して走り出している。
抱えきれない袋を放り投げる者や、カートを押したまま転倒する者も見えた。
その中で隼人は、車のヘッドライトを照らしながら走り、警音器をビーッビッと鳴らして進む。
「おい、車の前に飛び出すなよ」
もしもぶつかっても、隼人に停車する気は無い。
道路交通法上、人身事故を起こした運転者には救護義務がある。
だが救護行為によって自身の生命に危険が及ぶ場合、その義務は免除される。
最初に新秩序連合と会った時、彼らは隼人を殺して結依達を誘拐しようとした。
今回も数十人単位で襲撃に来ており、救護行為によって自身の生命に危険が及ぶ場合にあたる。
もっとも隼人が運転している車が、人々から避けられている。
どうやら人々は、モール内を走るのが新秩序連合の車と誤認したらしい。
――やっていること、非常識だからなぁ。
人々が逃げ惑う中、正面出入り口のほうから、耳をつんざくようなバイクの爆音が響き渡った。
「ヒャッハー。酒だ、女だぁっ!」
隼人の耳で辛うじて聞き取れた声と共に、二人乗りのバイクが突入して来た。
バイクの後部座席に座る男が鉄パイプを振り回しながら、興奮して喚いている。
「おらおらおら、一番乗りだぜぇ!」
バイクの進行方向は、隼人の車の進行方向と交差していた。
バイクに乗る新秩序連合が、隼人の車に気付く。
だが車は、急には止まれない。隼人の頑丈なSUVの左前方のフレームが、バイクの前輪と衝突した。
「ぶべらぁっ」
バイクの前輪が持ち上がり、後部座席の男が跳ね飛んで、床に叩きつけられた。前方の運転手も、バイクと共にモールの1階を転がっていく。
そしてコーヒーチェーン店の立て看板に激突して、爆音と共に止まった。
一瞬の静寂がモールを支配したが、車のエンジン音が鳴り響いて打ち消した。
「これは、正当防衛という」
車内の面々に説明した隼人は、モールを食品売り場に向かって進んでいく。
そもそもモールとは、mall(遊歩道、通路)に由来する言葉で、商店街をイメージした長い通路に沿って店舗が並び、歩きながら買い物ができる場所のことだ。
車1台が走れる広さはあって、隼人は着実に進んでいった。
すると、食品売り場の正面側出入り口からも、バイクが入ってきた。
「新秩序連合だ!」
逃げ惑う群衆の中には、声を上げながら走り去る者もいた。
物資を調達に来た人々は、四方八方に逃げ惑って、パニック状態である。
「うおぁ、食い物だぜぇ!」
「おい、その女を捕まえろ!」
襲撃に来た新秩序連合の優先順位は、定まっていない様子だった。
高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対応しているのだろう。
隼人達が逃げる背後では、叫び声と金属音が交錯している。
「もうすぐ出口だ」
事前に徒歩で探索したことが、功を奏した。
隼人は迷わずに、食品売り場の裏手側にある出入り口から外へと飛び出した。
既に数人の調達者が、モールの外に逃げ出している。
隼人はアクセルを踏み込み、彼らを追い抜いてモールから脱出を果たした。
中貫市の郊外を走る車内には、しばらく沈黙が続いていた。
エンジン音が微かに耳を掠める中、隼人はハンドルを握る手に力を込めた。
隣では結依が外の景色に目を向けており、後部座席では菜月が考え込むように黙っている。
杏奈は隼人を見つめ、その視線には僅かな鋭さが混じっていた。
「旦那様。これって、来たときに乗ってきた車ですよね?」
静寂を破る杏奈の声は、穏やかに聞こえつつも、どこか鋭い追求を含んでいた。
隼人がバックミラー越しに見た杏奈は、疑惑の眼差しを向けている。
杏奈が指摘したとおり、車はモールに来る際に乗ってきて、モールから数百メートル離れた民家に置いてきた。
隼人と杏奈は一緒に行動しており、映画館に車を持って来るタイミングは無い。
車内に漂う緊張感が、一気に増した。
――どうしたものかな。
隼人は、僅かに口元を引き締めた。
一番簡単なのは、杏奈を同行者にして秘密を開示することだ。
現状で安住の地は手に入れておらず、食料の生産体制も確立していない。
物事の道理で考えれば、隼人自身、最初に同行を約束した結依、結依に同行の了解を得た菜月の三人が、安定した生活を送れることが絶対条件だ。
隼人の力であれば、杏奈を加えても餓えない状況を実現出来る可能性は高い。
だが隼人自身が確信した上で、結依を説得しなければ、それは確定しない。
そのため杏奈は、まだ同行者にするとは決まっていない。
状況を再確認した隼人は、杏奈に説明を始めた。
「……これは、口寄せの術だ」
「口寄せの術?」
隼人の素っ頓狂な説明に、杏奈が呆然とした。
隼人はバックミラー越しに真面目な表情を浮かべ、静かに頷く。
「実は俺は、伊賀忍者だ」
伊賀忍者は、隼人が定住候補の1つとする三重県に住んでいた人々だ。
火術、変装、潜入、諜報、遁走、農具による戦闘など様々な術を使ったという。
そして隼人は、空間収納と身体能力によって、それら全てを網羅出来る。
伊賀に住めば、伊賀の上忍にも遜色ない。
であれば、名乗っても良いのではないか。
そんな風に希望的観測で伝えてみた次第だ。
「はあ?」
今の杏奈の瞳を言語化するならば、『絶対に信じていない眼差し』だ。
疑惑100パーセントで「ふーん、それで?」と続きを促しており、何を言っても駄目そうである。
「食料の探索をした時、予備の車をモールに置いたと言ったほうが、良かったか」
「それなら、まだ騙せたかもしれませんね」
隼人が模範解答を尋ねると、採点者から評価された。
「じゃあ、それで」
「もう遅いと思います」
答えを聞いてから変えるのは、駄目であるらしい。
隼人は小さく溜息をつきながら、ハンドルを握る手を軽やかに動かした。
「……杏奈を連れて行きたい気持ちはあるが、物事の道理で考えれば、先に約束した結依と菜月が優先だ。コロコロ変えたら、杏奈だって安心出来ないだろう」
「それは分かります」
「菜月までを一生食べさせる米は手に入るが、食料の自給自足を確立しないと、安易に同行者を増やせない」
「3人の一生分のお米が手に入るなんて、凄いですね。たぶんそれ、今だと誰にも出来ませんよ」
杏奈は言外に、それで充分なのではないかと訴えた。
ゾンビが居ない時代、結婚前に配偶者を一生養える財産を確保した人間が、どれだけ居たか。
そう問われた隼人は、自分の考えが間違っているのかもしれないと思わされた。
「俺の覚悟の問題かもしれない。結依と菜月は、杏奈より厳しい状況で、連れて行く以外の選択肢は無かった」
結依と菜月はゾンビに噛まれており、連れて行くか、ゾンビ化の二択だった。
そのため隼人は、現状がより良い選択肢だという確信を持っている。
「だが杏奈には、選択肢がある」
「いえ、無いですけど?」
「ん?」
バックミラー越しの杏奈は、笑顔で和やかに答えた。
その朗らかさと、真逆の回答とに、隼人は困惑して聞き返した。
「中貫市の食料、きっとショッピングモールで最後です。期限切れの蕎麦粉は、カビの発生も多くて、今でもギリギリなんです」
くぅーっと、杏奈のお腹が鳴った。
「今は健康な身体ですけど、1年後は病気か、身体がガリガリ。2年後は病死か、餓死していそうです。だから、早く3番目の奥さんにしてほしいな」
隼人がチラ見したバックミラー越しの杏奈は、微笑んでいた。


























