32話 自衛手段
「そろそろ昼ご飯にする?」
周囲が田んぼだらけの郊外に入ると、結依が声を掛けてきた。
道路には放置車両すら見当たらず、ゾンビの気配は皆無だ。
隼人は路肩に車を寄せて、停車した。
「それじゃあ、ランチボックスを出して」
結依に要求されて、隼人は空間収納からランチボックスを3つ取り出した。
受け取った結依が、それを隼人と菜月に分ける。
隼人がランチボックスの蓋を開封すると、ライ麦パンの香ばしい薪窯の香りが、車内に漂った。
ランチボックスに収まっていたのは、外は硬いが、中がしっとりとした、薪窯で焼かれたばかりのライ麦パンだった。
「今日は、焼きたてライ麦パンのサンドイッチ。食材は隼人の提供だけどね」
パンは切られて、サンドイッチになっている。
中に挟まっているのは、薄くスライスされたヤギのチーズ、塩漬けして風乾した燻製肉、プラムやリンゴなどの乾燥果物だ。
普段はそのまま出すが、移動するにあたって、事前に結依が作っていた。
「この食べ方をしたことは無かったな」
「どうやって食べていたの?」
「木箱から手掴みだ」
結依からは呆れた表情が浮かんだが、隼人は気にせずサンドイッチを摘まんで、そのまま口に運んだ。
熟成させたヤギのチーズのコクが、舌の上に広がる。
続いて塩漬けにして風乾した燻製肉の深い旨味と、乾燥フルーツの自然な甘みが調和して、薪窯で焼いたライ麦パンの香ばしさと絡み合う。
単品で食べるよりも、遥かに味わい深かった。
「サンドイッチを発明した人間は、なかなかグルメだな」
サンドイッチという名前自体は、イギリスのサンドイッチ伯爵を由来とする。
もっとも、伯爵がサンドイッチの発明者というわけではないらしい。
そんなことを考えながら、二口目をかじった。
「菜月もどうぞ」
「ありがとうございます」
結依が後部座席にもランチボックスを差し出して、菜月が受け取った。
――結依が菜月を呼び捨てで、菜月が結依を「さん付け」なんだよなぁ。
結依は自称18歳で、菜月は17歳。
本人の主張では結依が年長者になるが、敬称の有無は性格の差かもしれない。
結依は21歳の隼人に対しても呼び捨てにしている。逆に菜月は、同室者を「未亜ちゃん」と呼ぶなど、穏和で、あまり呼び捨てにしない。
先に隼人とグループを作っていた結依が、新たに入った菜月が早く馴染むよう親しく接している可能性も考えられる。
菜月のほうは、関係性が破綻しないよう慎重に振る舞っているのか。
ひとまず3人の集団のおける2人の女子は、そのような関係になっていた。
窓の外では、春の風が広がる田んぼの中を吹き抜けていく。
遠くには山々が霞んで見え、のどかな田園風景が広がっている。
時折、野鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「美味しい?」
結依が、少し得意げな表情を浮かべながら尋ねてきた。
「ああ。チーズと肉の塩気と果物の甘みが程良い。焼きたてのパンと合わせて、なかなか贅沢だ」
「日本だと、あまり作っていませんからね」
農高生だった菜月が、ライ麦パンについて言及した。
隼人は農業高校と取引を行い、様々な植物の種を手に入れている。
だがライ麦は、取引品目には無かった。
日本では、北海道と東北で一部が生産される以外は、大半が輸入だ。
麦畑自体が無いので、アメリカの有名な小説『ライ麦畑でつかまえて』をネタに結依や菜月と追いかけっこをする遊びなどは、出来そうにない。
「日本人は、米が主食だからな。まあ、育てる人間は居ないんだが」
隼人はサンドイッチを頬張りながら、車の外に広がる田園風景を眺めた。
放棄された田んぼには、雑草が伸び放題に生えている。
それでも春の陽を浴びて、どこか穏やかな光景に見えた。
「お茶も飲む?」
結依が水筒を手に取り、プラスチックのコップに緑茶を注ぎ分けた。
薬局で見つけた粉末茶だが、この世界では贅沢だろう。
受け取った隼人が緑茶を口にすると、最初は人工的な風味が広がった。
しかし、すぐにその奥から、かすかな本来の緑茶の風味が立ち上がってきた。
苦味の中に潜む繊細な渋さ。草原を思わせる青々とした香り。粉末茶とはいえ、まだ日本茶の持つ繊細な風味の名残を感じさせる。
ゾンビがはびこるこの世界では、まともに入手できる飲み物など少ない。
その中でこの一杯の緑茶は、かつての日常を僅かに思い出させる、儚くも美しい味わいだった。
「静岡県の茶畑にでも寄って、茶を手に入れるか?」
「別に、いいけど」
助手席の結依は、そんな余裕があるのかという呆れた表情を浮かべた。
余裕に関しては、隼人が1人で旅をするのであれば、有る。
隼人は異世界転移で、3つの能力を獲得した。
3つの能力とは、ヒグマ並の身体能力、怪我やゾンビ化前のウイルスを除去できる神聖魔法、8畳の部屋10室分の空間収納である。
18歳から3年間、召喚された異世界で魔族と戦わされており、最後の肩書きは「アステリア帝国、魔王強襲増強大隊、特務大尉」だった。
空間収納には、1000人が10日行軍できる水と食料、テントと毛布40人分、槍100本、弓300張、弓掛300個、矢4000本、ガソリンなどがある。
ゾンビがはびこる世界で、静岡県の茶畑に寄るという発想が生まれてしまうのも、無理からぬ話であろう。
その余裕に懸念があるとすれば、普通の人間である結依と菜月だ。
結依は、自称18歳の少女で、身長150センチメートルに満たず、隼人が出会った時には中学の制服を着ていた。
菜月は、霧丘農業高校2年生の3月にあたり、農業高校の知識はあっても、戦闘の心得には乏しい。
隼人の作戦行動には、2人を守るという必須条件が付く。
「とりあえず、菜月の銃でも探すか」
「銃ですか?」
隼人はサンドイッチを摘まむ手を止めて、バックミラー越しに後部座席の菜月と視線を合わせた。
「霧農で手に入れた鬼瓦の銃は、結依に持たせた」
「うん。重いけど、ちゃんと持ってる」
隼人が前置きすると、助手席の結依が肯定した。
「鬼瓦が持っていたのは、警察の銃ではなくて、ヤクザが持っていそうな外国製の銃だった」
「あの人、首筋に大きな入れ墨をしていましたからね」
外国と日本では、入れ墨に関する文化が若干異なる。
日本では江戸時代中期ごろより、罪人に『入墨刑』が行われた。
江戸幕府の基本法典『公事方御定書』(1782年)によれば、軽度の盗犯、詐偽、横領などを行った物に対して、腕に2本ないし3本の線を入れたという。
江戸の罪人は、腕の関節より少し下あたりに2本線の入墨が彫られた。
大阪の罪人は、腕の関節あたりに2本線が掘られた。
京都の罪人は濁点、長州ではひし形の2つの点々が、二の腕に彫られた。
なお腕ではなく、額に掘られる場合もあった。
江戸は寛文年間に、額に悪と掘られたことがあった。
肥前ではバツ印、阿波では3本線が額に掘られた。
広島では、初犯で額に「一」が彫られ、再犯で「ノ」が足され、3度目で「大」となり、4度目で「犬」とされた。
日本では犯罪者に入れ墨が彫られ続けた結果、犯罪者の証という印象を持たれ、忌避されるようになった。
そしてヤクザが、好んで自らの身体に入れ墨を彫った結果、入れ墨はヤクザの関係者という印象が定着した。
――日本には、主人公の額に「肉」と入れた漫画もあったな。
日本での入れ墨の扱いは、酷いものである。
隼人が鬼瓦に対して、ヤクザの関係者を疑ったのは、そのような前提故だった。
「鬼瓦がヤクザだったのかは知らないが、グロック19という拳銃を使っていた。弾丸は12発残っていて、それなりの自衛力だと思う」
グロック19というのは、オーストリアの武器・軍用品製造会社であるグロック社が開発した9ミリ自動拳銃だ。
プラスチックを多用しており非常に軽量、かつ寒冷地に耐える仕様となっており、日本を含む世界中の軍隊や警察で採用された。
グロック19は、全長174ミリメートル、重量595グラム、装弾数15発。
中身入りの500ミリペットボトルより1割ほど重くて、長さは1割以上短い。
平べったいので、服の内ポケットに隠し持てる。
「あたしが撃っても、当たらないと思うけど」
「銃があって撃てるだけで、人間相手の牽制になる」
発砲した鬼瓦には隼人も牽制されたし、左腕も負傷した。
数体のゾンビであれば、上手くやれば倒せるかもしれない。
懸念は、12発を撃てば終わりであることだ。
結依に持たせたグロック19は、9ミリパラベラム弾専用の拳銃だ。
一般警察が使っているリボルバー拳銃の38スペシャル弾とは互換性がなくて、ゾンビ化した警察の腰から拳銃を入手しても、弾丸の使い回しは出来ない。
自衛隊、警察の特殊急襲部隊SAT、警視庁警備部警護課などは持っているが、彼らがゾンビ化して歩いている場所など、隼人は知る由もない。
だが結依に関しては、一先ず自衛手段を得ている。
「菜月の分も手に入れたい」
「どうするんですか」
「警察署にでも、探しに行こうと思う」
隼人はカーナビを操作して、最寄りの警察署を探した。
幸いにしてGPSは、まだ正常に動いていた。


























