30話 運命の旅立ち
夜の闇が、霧丘市を優しく包み込んでいた。
建物の窓からは明かりが漏れず、街灯も付かず、月と星が照らすのみ。
そんな市内の片隅で、オイルランプに照らされた室内のベッドに横たわりながら、隼人はぼんやりと天井を眺めていた。
すると、ドアを小さくノックする音が聞こえた。
とても控えめな音だったが、静寂に包まれた家の中では明瞭だ。
隼人が目を向けると、ドアがわずかに開き、結依が顔を覗かせる。
「……起きてる?」
「起きているぞ」
囁くような声に隼人が返事をすると、ドアがそっと開かれて、結依が静かに入ってきた。
オイルランプの柔らかな光が、結依の輪郭をふんわりと照らし出している。
彼女の小柄な体は薄いカーディガンに包まれ、ミディアムの髪が揺れた。
結依は音を立てないよう、静かにドアを押し戻した。
それから足音を立てないように、そろそろと隼人のベッドに歩み寄る。
そしてベッドの片隅に腰を下ろすと、身体を横に向けて隼人を見下ろした。
「怪我は?」
「もう治った」
隼人は左腕の袖を捲り、治療した箇所を見せる。
傷痕は綺麗に無くなっており、肌は元通りの滑らかさを取り戻していた。
結依は隼人の左腕を手で掴み、子供のように小さな掌で、ペタペタと触る。
「痛くないの?」
不思議そうに尋ねる結依の声に、隼人は淡々と答えた。
「見てのとおり、まったく問題ない。完全に治っている」
もっとも治療魔法は、万能ではない。
未亜からウイルスを除去しても、ウイルスを除去した死体を作るだけだった。
そんな風に思いながら、隼人は今日の出来事を振り返った。
4度目の取引で霧丘農業高校に行ったら、見慣れぬ男達が居た。
聞き耳を立てると、ゾンビを撒き散らしたという話が聞こえた。
縁のある菜月を保護して、手遅れの未亜に関しては諦めた。
そしてゾンビを撒き散らした連中に意趣返しをして、帰宅して現在に至る。
言葉にすれば簡単だが、地球に戻ってからは、一番ハードな日だった。
「ねえ、どうして力を見せたの?」
隼人が今日の出来事を回想していると、結依が隼人の行動を質した。
政府のウイルス除去薬になりたくない隼人は、力を見せないほうが正しい。
菜月が目的であれば、救出して連れてくるだけで良かった。
鬼瓦達を倒したことは、菜月を連れ帰る行為には、必然ではなかった。
鬼瓦達4人は始末したが、教員寮からは見られていたかもしれない。
「ゾンビを増やす連中は、危ないからな」
隼人の言い分を聞いて、結依は首を傾げる。
「強いのに?」
隼人は、ゾンビが直接的な脅威ではない。
襲い掛かってきても力で押し退けられるし、噛まれてもウイルスを除去出来る。
ゾンビが2倍になっても現状と大差なく、鬼瓦達もゾンビを2倍には出来ない。
「……そうだな」
4回目の取引に考えていた教科書は、菜月の教科書を回収したことで補えた。
菜月自身も連れて来ており、より良い結果になったと言える。
つまり鬼瓦達に苛立つ理由として、4回目の取引を結果的に邪魔した点は弱い。
隼人は、なぜ鬼瓦達が気に食わなかったのか。
「ゾンビが増えると、結依のリスクが上がる。そのリスクを減らしたのかもな」
「そうなの?」
「多分、そうなんじゃないか。ライオンとかハイエナも、自分の子孫の脅威になる相手の子供を殺すらしいし」
隼人は『生物の目的は生存して子孫を残すこと』が自然の摂理と考える。
そして子孫を残すことが自然の摂理であるなら、結依や子孫の安全のためには、ゾンビが多いと困る。
鬼瓦を排除したのは、隼人の思想では、自然の摂理に沿った行動だ。
隼人の言い訳に納得したのかは定かではなかったが、結依は追求を止めた。
「学校の人は?」
「分からない」
さらに隼人は、菜月の部屋から脱出するときに、女子寮と男子寮に群がっていたゾンビ達を他所に引っ張っていった。
霧丘農業高校において、第三回・霧丘市民マラソンを挙行した次第だ。
隼人を追いかけたゾンビ達は、バリケード沿いに置かれていた車の屋根に登り、敷地外に出ていった。
残りのゾンビも、正面門の爆発音に引き寄せられていた。
さらに主犯の鬼瓦も倒した。
――かなり減ったとは思うが。
だが、噛まれた生徒達が校内でゾンビ化すると数が戻る。
教師達が建物の高所から身を乗り出して、ゾンビ達を誘き寄せて物を落とせば、なんとか倒し切れるかもしれない。
だが倒せないかもしれないし、そもそも隼人は責任など持てない。
「異世界で魔族と戦っていた時、村への救援よりも、敵を倒すことが優先された。任務を広げると、本来の目的を果たせない」
「そうなんだ?」
「俺は撃たれていたし、菜月も居た。そもそも教師は、俺の保護対象ではない」
つまり隼人は、鬼瓦達を排除して左腕を治し、体調が万全になった明日以降も、霧丘農業高校へ助けに向かう気はない。
ゾンビウイルスの流入は、隼人の責任ではない。
民間人の隼人には、日本中のゾンビを駆除して回る義務もない。
教科書も獲得した今、霧丘市からは旅立つ考えだった。
隼人の様子を見て、結依は質問を変えた。
「あの人は、どうするの?」
それこそが、結依が訪ねてきた本題だったのだろう。
新たな質問に対して、隼人はどう答えたものかと迷いを見せた。
隼人と結依の集団は、隼人と結依で構成されていた。
二人の集団は、もちろん隼人の力で成り立っている。
だが両者は合意して一緒に行動しており、一方の同意を得ずに菜月を連れてきたのは隼人のほうである。
「秘密が漏れたら困るから、置いていけないね」
隼人が返答に窮すと、結依のほうから助け船が出た。
その目には呆れと共に、仕方がないという諦観も宿っている。
「ああ、すまない」
隼人は、結依の言葉に頷いた。
薄暗い部屋の中、オイルランプの揺れる炎が、結依の顔に陰影を落としている。
やがて結依は、触れていた隼人の左腕から手を離し、言葉を継いだ。
「それと」
結依の声が、急に冷ややかになる。
「好感度、本当は結構上がっていたけど、下がったみたい。また上げ直して」
ツンデレが結構上がっていたと言うのなら、それは相当だったと解せる。
もしかすると、魔王城を攻略できる時期に入っていたのかもしれない。
だが菜月を連れてきたならば、好感度が下がるのは不可避であった。
「……了解」
隼人は僅かに肩を落としながら、短く答えた。
こうして隼人と結依は、旅立ちの日を迎えたのであった。
今話で、第1巻(約10万字)が終了しました。
引き続き、お楽しみ頂けたら幸いです!


























