28話 微妙な決断
菜月を抱えたまま着地した隼人は、膝を少し曲げて衝撃を吸収した。
背後は、高さ3メートル近いバリケードが張り巡らされている。
だが内側に置かれた車の車高が2メートルとすれば、身長150センチメートル未満の結依でも乗り越えられる。
ゾンビが車によじ登って出てくる前にと、菜月を抱えた隼人はしばらく走った。
いくつかの角を曲がって、バリケードを越えたゾンビの視界に映らない路地に、スルリと入り込む。
そこで多少は安心したのか、腕の中の菜月が尋ねた。
「どこに行くんですか」
「まずはどこかの民家だ。玄関の鍵が閉まった家に、屋根から入る」
「大丈夫ですか?」
今度は、バリケードを越えたときのような車が置かれていない。
それを菜月は懸念した様子だったが、隼人は軽く答えた。
「大丈夫だろう」
菜月の身体は、隼人にとっては大した重さではなかった。
隼人は菜月を抱えたまま、ひっそりとした路地を進んでいく。
霧丘農業高校の周辺住宅にはゾンビの気配が感じられず、静寂に包まれている。
高校付近のゾンビを排除したのかと尋ねようとした隼人は、菜月の親が正門前で入れてもらえず、ゾンビに殺されたことを思い出して口を閉じた。
道路脇にはいくつもの民家が並んでいた。
生活感は皆無だが、廃墟というほど荒廃もしていない。
1年くらい人の手が入らなくても、早々に廃墟と化したりはしないだろう。
植物に侵食されて崩れ落ちるのは、何十年後になるだろうか。
隼人は視線を走らせ、一軒の日本家屋に目を留めた。家の周囲に立派な塀が巡らされており、おあつらえ向きに門扉は閉じている。
「ここにしよう」
隼人は菜月を抱える力を籠めた。
すると菜月がしがみついたので、軽く助走を付けて跳躍した。
塀の上まで跳び、塀の上に足を掛けて、もう一度跳ぶ。
塀を越えた二人は、敷地内に飛び降りた。
それから隼人は、菜月をゆっくりと地面に下ろした。
「鍵、閉まっていますかね」
「よく考えると、もしも鍵が開いていたら、入って内側から閉めれば良かった」
そのほうが楽かもしれない。
先ほどとは逆に玄関が開いていることを期待した隼人は、夏月を連れて玄関の取っ手に手を掛けた。
すると抵抗があり、玄関は開かなかった。
「鍵が掛かっていた」
「それは残念でしたね」
「まあ良いさ」
それなら屋内に物資が残っているかもしれないと、僅かな期待も抱いた。
霧丘農業高校の傍ではあるが、教師陣は外での物資調達を容易には認めなかったように思われる。
文明崩壊前であれば、学校の教師は近隣住民への略奪行為をさせないだろう。
文明崩壊に至れば、外にはゾンビがはびこっており、外には出させない。
「よし、入るぞ」
「はーい」
指示された菜月が傍に寄ったので、再び抱き抱えた。
玄関から門へと走り、そこから逆走して助走を付けながら、一階の屋根部分に跳び乗った。
屋根伝いに、二階の窓まで歩いて行く。
窓の前に辿り着いた後、片足で窓ガラスを蹴って破壊し、部屋に入った。
割れた窓枠から内部に足を踏み入れると、隼人は菜月を軽く支えながら畳の床に降ろした。
部屋は8畳ほどで、典型的な日本家屋の和室だった。
タンスが置いてあり、押し入れがあって、机は無い。
家人が使っていない部屋なのか、ガランとしていた。
隼人は耳を澄ませたが、家の中からは物音が聞こえない。
「少なくとも、人の気配はないな」
菜月は肩を小さく上下させて、安堵の溜息を吐いた。
「疲れました」
「少し休んでくれ」
隼人は空間収納から、寮で回収した菜月の机と椅子を取り出した。
すると菜月は椅子に座り、机に突っ伏した。
菜月が疲れるのは、無理もない。
深夜2時にゾンビ達の襲撃があり、必死の抵抗を行い、その後は寮を襲撃するゾンビ達と各部屋からの悲鳴を聞き続けたのだ。
肉体的にも、精神的にも、疲労は限界だろう。
「寮の二段ベッドは、固定されていて収納できなかったからな。俺のベッドを出しておくから、少し寝たらどうだ」
「……分かりました。隼人さんはどうするんですか」
「どうしようかと迷っている」
そう言った隼人は、部屋の隅にベッドを出した。
さらに水が入った桶を置き、菜月の机にはライ麦パン、乾燥肉、乾燥果物を一食分置いた。
突っ伏しながら様子を伺っていた菜月は、まだ柔らかそうなパンが置かれたのを見て、口を開いた。
「それは何ですか?」
「異世界産のパン。焼きたてで収納した。空間収納は、収納した状態で出せる」
「どれくらい入っているんですか?」
「1000人が、あと10日ほど行軍できる物資だと言っただろう。3万個くらいじゃないか。遠慮せずに食べろ」
菜月は、話の続きを聞きたそうに顔を向けた。
「俺を異世界召喚した帝国の目的は、戦争に従軍させることだった。空間を使えるのは、召喚された人間だけだ。だから軍事物資を持たされた」
馬車で運べば、馬にも食べさせて、水を飲ませなければならない。
戦闘になれば、馬も守らなければならない。
魔王を倒すべく敵地に入るのだから、転移者に持たせたほうが良い。
何しろ物資を持たせる者は、ヒグマ並の戦闘力や走行速度があり、怪我も自分で治せるのだ。
「不意打ちで送還されたから、物資は持ったままだった。3年間扱き使った手切れ金らしい」
「手切れ金で、パンと水と食べ物ですか。それって、どうなんでしょうね」
「塩、オイルランプ、植物油、予備の槍と弓矢もある」
「いくらくらいになるんですか?」
「弓1張で、軽自動車1台分くらいだ。弓は、300張ほどある」
「軽自動車?」
菜月は首を傾げた。
現代で弓道の弓は、数万円ほどだ。
もしも弓が軽自動車ほどの価格だった場合、弓道部に入部する生徒は、もっと少なくなるだろう。
「召喚された異世界国家は、中世レベルだった。弓は、実用品だった」
中世の社会では、弓が実用品だった。
弓は狩猟に適しており、食料を得るための重要な手段だった。
動物を狩れば肉を得られるので、高価でも高性能なら、費用対効果がある。
戦場でも弓は有用で、敵を減らせるならば、相応の価値があった。
「それに良い弓は、生産が難しい。工場が無くて、全てが職人の手作りだ」
素材の木は、真っ直ぐに育ち、適度な強度と柔軟性を持たなければならない。
それを伐採して、場合によっては数年乾燥させた。
乾燥後は、熟練の職人が腕に縒りを掛けて加工していく。
弓に成形する際には、均等な力が加わるように曲げる必要があって、それには経験と技術が必要だった。
「あとは弓の弦だな。弓弦は、動物の腱か絹糸だ。強度と耐久性が必要で、入念に選別して加工している。軍が使っていたのは、弓力が強くなる高性能品だ」
隼人が持つ弓を売れば、軽ではない車の価格になるかもしれない。
宰相は、再び帝国が異世界人を召喚する可能性も見越していた。
そのため隼人が悪評を広めないよう、手切れ金などと称したのかもしれない。
但し、日本で弓は換金できないが。
そんな風に考えた隼人は、この後の行動に思いを巡らした。
「さてと」
結依のところへ帰る前に、一つやっておくことがある。
隼人は菜月の身体に腕を回し、疲労で力の抜けた身体を、そっと抱え上げた。
かすかに汗の香りと、以前渡したヘアケアの香りが、隼人の鼻腔を擽った。
隼人に抱えられた菜月は、ビクッと身体を震わせる。
そして突然の行動に、菜月は小さな声を漏らした。
「……あの」
「なんだ?」
隼人の腕の中に収まる菜月は、顔を赤くして目を泳がせた。
言葉を探すように、何度も唇を開いては閉じる。耳まで赤くなりながら、小さな声で続けた。
「汗を拭いてからにしてほしいです。今日、バタバタしていましたし」
隼人は菜月を見返しながら、顔を上気させる菜月を見詰めた。
「寝る前に身体を拭くのか?」
「ええ、臭いとかも気になりますし」
菜月の声が、次第に小さくなってゆく。
逸らした視線は、部屋の隅にあるベッドに向かっていた
そこでようやく、隼人は誤解に気付いた。
「ん、ああ、そうじゃない。これから用事がある」
「用事ですか?」
菜月は、キョトンとしながら聞き返した。
「塩と不要品で、教えてもらいすぎたかもしれない。取引で釣り合っていない分、少し返しておこうかと思って」
その言葉を聞いた菜月の身体から、途端に力が抜けるのが感じ取れた。
安堵したような、ちょっと残念そうな複雑な表情を一瞬垣間見せた菜月を、隼人はゆっくりとベッドまで運んだ。
そしてベッドに降ろして寝かせ、疲れ切った身体に毛布を被せた。


























